らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

中国地方の旅(その26)舞鶴・引揚記念館(その2)

2010-05-06 | 旅行

中国地方の旅シリーズは昨日の25回で終了予定でしたが、「舞鶴引揚記念館」の記事が長くなりすぎたので、急遽2回に分けることにしました。
このため、今日の「舞鶴・引揚げ記念館(その2)」をご紹介して最終とさせていただきます。

「舞鶴引揚記念館」
「舞鶴引揚記念館」のある舞鶴港は、第二次世界大戦が終結した昭和20年(1945年)に最初の引揚船「雲仙丸」が入港して以来、昭和33年(1958年)までの13年間に受け入れた引揚者は66万4531人、遺骨は1万6269柱で、引揚の町として最後までその役割を果たして来ました。
その史実と戦争の悲惨さを後世へと語り継ぐ「平和のシンボル」として建設されたのが「舞鶴引揚記念館」です。
引揚記念館には引揚の歴史や抑留生活など、当時を伝える貴重な資料の数々が展示されていました。

「語らい」
舞鶴引揚記念公園に設置されている「語らい」のモニュメントです。
女性が両手で鳩を捧げている姿のこの「語らい」モニュメントは、引揚の歴史や戦争の悲惨さ、平和の尊さ、そして異郷で倒れていった多くの人々の鎮魂を語りあうという意味だそうです。
1990年(平成2年)早川収氏の作品だそうです。

・「語らい」モニュメントです。


引揚船「興安丸(7573トン)」の時鐘
「興安丸(7573トン)」は昭和11年(1936年)12月に関釜連絡船の第2船として建造され、第二次世界大戦前から戦後にかけて関釜連絡船、引揚げ船、イスラム教巡礼船として使用された昭和を代表する船だそうです。
昭和45年(1970年)11月にはその任務を終えて解体されました。
下の画像は、その興安丸の時鐘で、重さは15kgだそうです。

・誰でも自由に鳴らす事ができる「興安丸」の時鐘です。


舞鶴港は、戦中は旧海軍の軍事的拠点として使用されていましたが、戦後は大陸に進駐していた軍人・軍属や一般人の日本本土への引揚、および日本に在留していた中国・朝鮮人の送還のための指定港の一つとなっていました。

・展望台から見た「平(たいら)引揚桟橋」です。


戦後、日本人の引揚者は610万人余りになりましたが、その内舞鶴港では昭和20年10月から昭和33年9月までの13年間に664,531人が帰還したそうです。

・祖国への第一歩を印した「平引揚桟橋」です。(この平引揚桟橋は平成6年5月27日復元されたそうです)


「招霊碑」
ここにある碑文には、
「昭和20年8月8日、日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した60万兵士のシベリア抑留と、満州における一般邦人の悲劇。
この死没者の鎮魂のため、各収容所跡・墓地・自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞の為、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する」とありました。

「語り部の鐘」
案内板には、
 1打.強制抑留中死没された方々の招魂・慰霊
 2打.強制抑留引揚の苦難顕現
 3打.平和の祈願、不戦の誓い
どうぞご自由にお打ち下さい。すべての鐘の音が平和を訴えます。
とありました。

・引揚桟橋の左側が「招霊碑」、右側に「語り部の鐘」があります。


引揚港は舞鶴の他に横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、佐世保、博多、鹿児島の10の港が指定されていたようですが、他の港が早々に引揚港から除かれた為、ソ連軍によってシベリアに不法抑留されていた旧軍人など、引揚者の多くが舞鶴港を入港先・帰還港としたようです。
このため日本各地から夫や親族の帰還を待ち望む多くの人々が舞鶴港へと出迎えに訪れました。

ソ連からの引揚船が着くたびに息子の帰りを待つ母・端野いせさんをモデルとした流行歌「岸壁の母」が、昭和29年(1954年)9月に歌手の菊池章子によって歌われ、100万枚以上の売れ行きとなる大流行しました。
昭和47年(1972年)には二葉百合子が浪曲調で歌い、これも250万枚以上の大ヒットとなったそうです。

・異国の丘と岸壁の母の歌碑です。


今回の中国地方の旅は大阪から山陽道を西に下り、山口県から日本海に出て、山陰道を舞鶴まで東上し、そして大阪まで戻ってくるという、走行距離2000kmを超えるドライブでした。
丁度、桜の時期と重なったため、どこに行っても桜の花が出迎えてくれるという最高の旅でした。
また、私にとって初めて訪れたところも多々あって、国内の歴史や文化を広く見聞できた大変有意義な旅となりました。

この旅を計画してくれた義妹ご夫妻に感謝申し上げます。
ありがとうございました。