大河ドラマ「真田丸」は昨日が最終回で、このドラマのクライマックスでした。
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が徳川家康を追い詰め、家康があたふたする演出や手負いの幸村が茶臼山の近くにある安居神社の境内で自害する場面は通説とは異なり、いかにも脚本家・三谷幸喜さんらしい構成でした。
真田信繁の最後は越前兵に討ち取られたとされるのが通説となっています。
今日は、昨日の放送で真田信繁(幸村)終焉の地として紹介していた「安居神社」を取り上げます。
「安居神社」
安居神社(やすいじんじゃ)は大阪市天王寺区にある神社で、昨日ご紹介した一心寺から道を隔てた向かい側100mほどのところに鎮座しています。
安居天満宮、安居天神とも言われていますが、創建年は不詳です。
ご祭神は少彦名神で、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられています。
神社の名称は、菅原道真が大宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとった為に、その名がついたという伝承があります。
・安居神社の参詣道です。(平成28年10月撮影、以下同じ)
参詣道入口には「真田幸村戦没地」の石碑が建っています。
「拝殿」
拝殿の中には、真田の鎧と「真田日本一の兵(つわもの)」と書かれた幟が立てられていました。
「真田幸村の銅像」
大坂夏の陣で真田幸村が戦死したのが安居神社境内といわれています。
慶長20年(1615年)5月7日、天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は、毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げました。
一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込んだのですが、大兵力の幕府軍相手にさすがの幸村も力尽き、安居神社境内の一本松の下で休息しているところを松平忠直隊の武将に討ち取られました。
神社には幸村の像と戦死跡の碑、そして幸村が休息していたといわれる二代目の一本松「さなだ松」があります。
・真田幸村の銅像と真田幸村戦死の碑」です。
・真田幸村陣没の旧跡です。
「さなだ松」
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣で真田幸村は天王寺付近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、遂にこの神社境内の一本松(さなだ松)の下で戦死しました。時に49歳でした。
当時の松はすでに枯死していますが、社殿復興を機に昭和26年4月24日これを記念して植樹されたのが現在の松です。
なお、真田信繁(幸村)の最後については、4年前に福井県立図書館で、信繁は大坂の夏の陣で越前藩士の西尾仁左衛門、のちの宗次にやりを交わして討ち取られたとする資料が新たに見つかっています。
大坂の陣における越前藩主の功績について書いた覚書で、「西尾は身分の高い敵と遭い、槍をかわし、名前も知らないままに討ち取った。後に討ち取った首が真田信繁のものだとわかった」と記されています。
この説を補強する資料が今年、福井県立図書館で見つかっています
西尾本人が書いたとされる手紙の写しには、「殿様=藩主の馬の先において真田に出会い、槍を合わせて討ち捕り、天下様=家康へ首を差し上げた」と記されています。
西尾本人が、無抵抗の信繁を打ち取ったのではなく、堂々とやりで戦って討ち取ったと主張しているのです。
他にも、信繁が秀頼を守って薩摩に落ちて、生涯、秀頼を守ったという伝説もあるそうです。