さて、昨日のB月刊誌の新聞広告に『米百俵の精神を取り戻せ』と言う見出しがありました。
「米百俵」と言う言葉をご記憶されていますか?
平成13年(2001年)、当時の小泉総理が所信表明演説の結びで「米百俵」の故事を引用したことで広く一般に知られたように思います。
お忘れになった方は思い出して下さい。小泉元総理は次のように演説しました。
「小泉総理の演説」
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。
しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。
今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています。
そこで、今日は「米百俵」の故事と精神についてご紹介します。
「米百俵の故事」
戊辰戦争によって長岡藩は壊滅的な状況となっていましたが、文武総督でもあった小林虎三郎は「学校創設による人材育成こそが敗戦国の復興にとって肝要である」との考えの下、長岡の昌福寺の本堂を借りて国漢学校の前身を発足させます。
その学校を、嘗ての藩校・崇徳館のような藩士の子弟だけの学校ではなく、農民や町民の子弟も入学できるように広く開かれたものにするのには大きな資金が必要でした。
その後、長岡藩の窮状を察した支藩の三根山藩から救援の米百俵が贈られてきました。
生活に困窮していた藩士たちは、その米が自分たちに分け与えられる事を望んでいましたが、虎三郎は藩士たちに向けて「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」と主張します。
結局、藩士たちはこの虎三郎の気概に負けたのです。
米百俵は国漢学校の建設資金に充てられ、明治3年(1870年)に国漢学校が長岡の坂之上町に開校しました。
校舎には教室数が6つもあり、教師や教育内容も充実しており、農民や町民の子弟も入学を許可されました。
国漢学校は、後に新政府の学制に組み入れられ、ここから、山本五十六ら多くの優れた人材を輩出しました。
小林虎三郎は、はるか遠くを見据えていたのです。
「精神」
この米百俵の精神は、「国がおこるのも町が栄えるのもことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ。」と言う小林虎三郎の主張は「目先のことばかりにとらわれず、明日をよくしよう」と言うことであり、現在の政治家はこれを誤解して、「国民に我慢を強いること」のように解釈している向きあります。
長岡藩は三根山藩から藩士に贈ってきた米を、彼らの既得権を放棄してまで、明日の繁栄のために教育資金に回したのです。
領民に痛みを求めてはいません。
むしろ設立した国漢学校では今まで藩士の子弟だけだった教育の機会を町民、農民にも門戸を開放したのです。
小林虎三郎も立派ですが、明日のために家族に食べさせる米を諦めた藩士もそれにも劣らず尊く、また、贈り主の三根山藩も戦争の後遺症で苦しむ中から、血の滲む中で捻出した米百俵を支援したのです。
長岡市のHPでは、三根山藩の地元である巻町や岩室町(双方とも現新潟市)には、米百俵を贈った美談は彼らの記録になかった事を知って欲しいと書かれています。
冒頭のB月刊誌の新聞広告、『米百俵の精神を取り戻せ』の内容も、元小泉総理が訴えた改革の推進、既得権の打破と岩盤規制の撤廃などの政治情勢について書いているものと思います。
政治家の皆さん、「米百俵」の精神は目先のことにばかりにとらわれるのではなく、既得権や岩盤を打破して明るい明日を作ることなのです。
そして国民に我慢や痛みを強いるのではありません。誤解しないように願いたいものです。