らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

本能寺の変と佃煮

2017-12-12 | 雑学

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」もいよいよ来週の最終回を残すのみとなりました。
一昨日には「本能寺が変」が放送され、明智光秀の謀反によって信長が自害し、その知らせを聞いた家康が堺から伊賀越えをして岡崎に戻る、有名な「神君伊賀越え」のシーンもありました。
今年も大河ドラマで1年間楽しませてもらいました。

ところで、「本能寺の変」と佃煮に関連性がありそうなので調べてみました。
佃煮はその名前から東京都中央区の佃島が発祥と言うことはよく知られています。しかし、そのルーツを探ると安土桃山時代の大坂へ遡るようです。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反によって天下統一を目前に織田信長は自害します。よく知られている「本能寺の変」が起きたのです。
この時、徳川家康は信長に招かれて安土城を訪れた後、僅かな家来を引き連れて堺に滞在していました。
信長自害の知らせを受けた家康は腹を切って後を追おうと考えましたが、「本国まで戻り軍を整えて明智を討つべき」と説得され、三河の岡崎城へ戻る決意をしたのです。
一行は明智軍らの襲撃を避けるため、難所である伊賀(現三重県)の山を抜け、伊勢から海を渡って岡崎に帰るルートを取りました。
これが後に神格化された「神君 伊賀越え」と呼ばれるエピソードになったのです。

その途中、摂津の国(大阪府)神崎川で渡る船がなくて困っていたところ、漁船を用立てたのが、地元・佃村の庄屋、森 孫右衛門でした。
孫右衛門はこの時、食料として小魚などを塩水で煮た「塩煮」と呼ばれる食糧を一行に提供したのです。
塩煮は漁師たちの間で作られていた非常食で、長期間の保存も可能と言う優れ物だったため、その後の道中を支える貴重な食料となりました。
こうして家康一行は伊賀を超えて伊勢・白子へ辿りつき、海路で岡崎まで帰ることができたのです。

難を逃れた家康は江戸城へ移った後、天正18年(1590年)に孫右衛門を始めとする佃村の漁師30人余りを江戸に移住させ、数々の特権を与えて優遇しました。
三代将軍家光の時代には、隅田川河口に百間(約180m)四方を自由に使える特権を与えられました。
これにより、漁師たちは江戸湾の中に島を築いて移り住んだのです。これが現在の佃島なのです。
佃島の漁師たちは「塩煮」の要領で小魚などを醤油煮にする保存食を作り始めました。
これが佃煮の原型であり、ここで作られた事から佃煮と名付けて江戸市中に売り出されるようになり、全国に広まりました。

現在では材料や産地を問わずこのよな食品を総称して佃煮と呼んでいますが、もし、本能寺の変が起こらなければ、森 孫右衛門も家康に「塩煮」を提供していないだろうし、東京の佃島と言う地名も佃煮も誕生していなかったかもしれませんね。