先日、堺まで出かける機会があったので、「方違神社」に寄ってきました。
「方違神社」は「ほうちがいじんじゃ」と読みます。
「創建」
方違神社の創建は崇神天皇8年(紀元前90年)です。
当社のHPによれば、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟(ちぬ)の石津原(現・堺市)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え、五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。
となっています。
方違神社は摂津・河内・和泉の三国の境の「三国山」と呼ばれる地(現:三国ヶ丘)にあり、奈良時代には人馬往来の要衝でした。
また平安時代には熊野への参詣者が必ず立ち寄り、旅の安全を祈ったと言われています。
どの国にも属さない、方位のない清地として、古くから境内の土や砂が悪い方位を祓う、所謂、方災除けの神として信仰を集め、いまも家の新築や転居の際の厄除け祈願に、或いは、出かけなければならない方向が良くない時に、一度別方向に向かってから出かける方違い(かたたがい)の風習によって、大勢の参拝者が訪れるようです。
・平成22年に創建2100年を迎え、記念事業として社殿造営を行った新社殿です。
崇神天皇8年12月(紀元前90年)の創祀より時を経て、神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定します。
皇后は新羅から凱旋の途中、皇子(後の応神天皇)とは腹違いの2人の王子の叛乱に遭いますが、住吉大神の御神教により、5月晦日、御自ら沢山の平瓦を作って天神地祇(てんじんちぎ:全ての神々)を祀り、菰(こも)の葉に埴土(しょくど:粘土50%以上を含む土壌)を包み粽(ちまき)として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導きだしました。
後にこの地に神霊を留め、方違社と尊び奉りました。
この神社は方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見えると言うことです。
・神功皇后が御馬をつながれたと伝えられる旧蹟です。