らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

金環日食

2012-05-21 | 時事

今朝、金環日食をご覧になりましたか?
日本国内では、九州南部から東北南部までの太平洋側の広い地域で、8300万人が金環日食を観測できるそうであり、このように大勢の人が国内で観測できるのは実に932年ぶりの事だそうです。
また、国内で金環日食が観測できるのは87年9月の沖縄以来25年ぶりで、東京では173年ぶり、大阪では282年ぶり、名古屋では932年ぶりと言われています。

今朝、長池公園を散歩していると1時間も前からアマチュアカメラマンの人たちがカメラを構えて準備をしていました。


今朝7時の大阪・熊取地方は雲が出ており、観測が危ぶまれました。ところが、7時20分頃になると雲が切れて太陽の光が射し始めました。
この頃には金環日食直前であり、太陽が殆ど隠れていることから夕方のような薄暗を感じました。


金環日食については、殆どの方が日食メガネやテレビでご覧になっている事と思いますので、今日はピンホール法で撮影した金環日食をご紹介します。
ピンホール法とは、1ミリくらいの小さな穴を通して日食を間接的に見るもので、私は使用済みのテレホンカードの穴を利用して撮影しました。

・7時25分の日食です。使用済みテレフォンカードを利用したので、このように5個の日食が見られました。


・7時27分、金環日食が始まる1分前の太陽です。


・7時30分、5個の金環日食を映し出しました。


ニュースを観ていると珍しい現象のベイリービーズが観えるとのことであり、テレビ画面を撮影しました。
ベイリービーズとは、日食の際に月が太陽を隠し、月表面の凹凸の地形によって日光がビーズのように見える現象を言います。

・これがベイリービーズです(NHKテレビより)


・これもテレビ画面を撮影した金環日食です。(NHKテレビより)


次に日本で金環日食が見られるのは18年後となります。


ソラマメ栽培(収穫)

2012-05-20 | 家庭菜園

昨年の11月に植え付けたソラマメ栽培の生長を、3月と4月の2回に亘ってご紹介してきましたが、植え付けから約半年経過して、漸く収穫を迎えました。

・この画像は、3月に中心の枝を切り取り、周囲の枝を6~7本残す剪定作業をしたソラマメの株です。


・4月には、各株の側枝に花が咲いた事と枝の先を摘心したことをご紹介しました。


5月17日には、収穫時期の目安となる、上を向いていた莢が下に向き始めました。


そして、昨日、初収穫をしたソラマメの莢です。


今年は4個入りの莢を目指しましたが、4個入りは殆どなく、この画像のようによく実っている莢で3個入りです。
2個入りの莢もたくさんありましたが、今年の栽培結果は比較的良かったのではないかと思っているところです。




タニウツギの花

2012-05-19 | 

〽 卯の花の 匂う垣根に
  ホトトギス 早やも来鳴きて
  しのびねもらす 夏は来ぬ

ご存知の「夏は来ぬ」の歌詞です。この歌の出だしにある「卯の花」とは「ウツギ(空木)」の花の事です。
旧暦4月は卯月と言い、この頃に咲くことから「卯の花」と言いますが、別名は「ウツギの花」とも言われています。
今、ウツギの木に可憐な花(卯の花)がいっぱい咲いています。
この「卯の花(ウツギの花)」はユキノシタ科、ウツギ属に属していますが、今日は、同じウツギでも別の科に属する「タニウツギの花」をご紹介します。

「タニウツギ(谷空木」)は、スイカズラ科タニウツギ属の落葉小高木で、田植えの頃に花が咲くことから「田植え花」としても知られています。
梅雨の時期に山道を通ると、新緑の中で咲くピンクの花はひときわ映えて見えるので、見つけやすい花木です。
今日ご紹介しているタニウツギも長池公園の散歩コース沿いに咲いているもので、遠くからでもピンクの花がよく目立ちます。



北海道や本州の日本海側の山野、その中でも沢や谷など湿気のある場所に自生しているところから「タニウツギ」の名前があります。
4~5月になると葉の付け根あたりにピンク色の花が2~3輪ずつ房状にまとまって付き、満開の時期は枝を覆うほどたくさんの花を咲かせてくれます。
花の形は先端が5つに裂けた“ろうと状”で、長さは2~3cmです。花色が美しいため、古くから庭園などに鑑賞目的で植栽されることも多い花木です。




熊野古道を歩く(その4)闘鶏神社

2012-05-18 | 趣味

今回の“熊野古道を歩く”シリーズは今日の4回目が最終となります。
今日は武蔵坊弁慶の父・熊野別当・湛増(たんぞう)が鶏を戦わせて源平合戦でどちらに加勢するかを決めたとされる「闘鶏神社」をご紹介します。

鬪雞(鶏)神社」
鬪雞(鶏)神社(とうけいじんじゃ)は、JR紀勢線紀伊田辺駅から10分ほどのところにある神社で、旧称は田辺宮新熊野権現と称し、通称 は権現さんと云われているようです。
允恭(いんぎょう)天皇8年(419年)9月、熊野権現を勧請し、田辺宮と称したのが始まりと云われています。



「闘雞神社(とうけいじんじゃ)」の名前の由来は、壇ノ浦の合戦で源氏側と平氏側の両方から熊野水軍の援軍依頼を受けた武蔵坊弁慶の父・熊野別当湛増が、どちらに加勢するのかを決めるため、白を源氏側、紅を平家側に見立てた7羽の鶏を闘わせたことから来ています。
白が勝ったため源氏側に加勢したことが、壇ノ浦の合戦の勝敗を分けたと言われています。

・闘雞神社の本殿で、伊邪那美命(イザナミノミコト)の神が祀られています。


社殿です。手前から中御殿・下御殿・八百萬殿で、
・中御殿には、瓊々杵尊(ニニギノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の神が、
・下御殿には、火産霊命(ホムスビノミコト)、弥都波能売神(ミズハノメノカミ)の神が、
・八百萬殿には、天手力男命(アマノタヂカラオノミコト)八百万神(ヤオヨロズノカミ)の神が、
それぞれ祀られています。


「御神木の大楠」

この御神木は樹齢約1200年と伝えられているものです。
2度の落雷により中央部以上が焼失欠損していますが、樹高は14m、根本周囲が11mあって、延命長寿、無病息災の信仰があるそうです。



「馬場」
幅約11m、長さ約230mの闘鶏神社の馬場です。
この馬場は、本来は若宮神社まであって、江戸時代から流鏑馬や競馬の行事が行われていましたが、昭和39年に危険防止などの理由により中止し、現在に至っています。



「熊野別当湛増と弁慶の父子像」
源平合戦たけなわの頃、熊野別当・湛増(たんぞう)は強大な戦力である熊野水軍を配下に持っていたことから、源氏と平家の双方から加勢を頼まれました。
戦況を冷静に見守った湛増は、文治元年(1185)正月、新熊野権現に参拝し、境内で紅白の鶏を戦わせて神意を計りました。
その結果、白い鶏が勝ったのを見て、源氏への加勢を決めたと伝えられます。
闘鶏の場となった新熊野権現はその後、「闘鶏神社」と呼ばれるようになったそうです。
一説によるとこの湛増が、武蔵坊弁慶の父であるといわれており、ここ和歌山県田辺市が弁慶の出身地と云われています。

・熊野別当・湛増と弁慶父子の前で戦う鶏の像です。


今回の熊野古道の終着点、JR紀勢線紀伊田辺駅です。この駅から10分ほどのところに、「闘鶏神社」があります。




熊野古道を歩く(その3)出立王子

2012-05-17 | 趣味

“熊野古道を歩く”シリーズ、3回目の今日は「出立(でだち)王子社跡」をご紹介します。

「出立(でだち)王子社」
「出立(でだち)王子社」は元、若一王子社とも言っていたようです。
ここに立てられている説明によれば次のように書かれていました。
 『元、若一王子社とも言う。紀伊続風土記に若一王子社、村の氏神なり。御幸記に出立王子とあるのは当社なり。
 古には拝殿、回廊等ありとも天正の兵乱に悉(ことごと)く破損せしも、後、復興すると伝え言う。
 崇峻(すしゅん)天皇元年、御勧請なりと、月読尊(ツクヨミノミコト)を祭祀し、出立王子と称し、明治6年5月、出立神社と改め、村社に列せんが、同40年2月1日、八立稲神社
 に合祀せられて廃社となり、今は出立神社跡の一基の石碑を残すにすぎず。』
とあります。



・出立王子社跡です。


「潮垢離浜跡(しおごりはまあと)」
熊野詣での際、田辺から海岸線に別れを告げ中辺路へ入る参拝者には、潮で身を清める最後の場所として、ここ出立は重要な拠点だったようです。
当時、現在の田辺市江川漁港周辺はかつて会津川の河口から砂浜が広がっていました。
身を清めるためにする潮浴びのことを潮垢離(しおごり)といいますが、その儀式がここ出立王子前方の潮垢離浜で行われていました。
建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ、厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられています。



「扇が浜」
扇が浜の公園には、「熊野水軍出陣の地」の碑や、野口雨情の歌碑などがあります。
平成17年(2005年)7月1日に、浜の長さ約300mの扇が浜海水浴場がオープンしています。


扇が浜公園で一休みするメンバーたちです。




熊野古道を歩く(その2)芳養(はや)王子

2012-05-16 | 趣味

“熊野古道を歩く”シリーズ、2回目の今日は、今回のルートで最初の王子社である「芳養(はや)王子社跡」をご紹介します。

「芳養(はや)王子社跡」
田辺市の入口ともいうべき芳養王子は、天仁2年(1109年)10月、熊野参詣をした藤原宗忠の日記『中右記』に、「早(芳養)の海浜に出て河を越え、早王子に参った」とあります。
また、建仁元年(1201年)10月12日、後鳥羽上皇が熊野参詣の途次、「ハヤ王子社」に奉幣の使いを派遣したことが『御幸記』に記されているそうです。
明治4年の神社合祀により現在の大神社として合祀され、今日に至っています。



「芳養(はや)王子社跡」は田辺市内の5王子社跡の一つとして有名な遺蹟だそうです。



「芳養(はや)一里塚跡」
「芳養(はや)一里塚跡」は芳養王子のある大神社の東、松原の集落の中にあって、そばには榎の大木と地蔵堂があり、地元の人々からは「塚の地蔵さん」と呼ばれ親しまれているそうです。

一里塚とは、街道で一里ごとに道の両側に土を盛り、エノキなどの木を植えて、距離を示す目印とした塚のことで、旅人の休息の場所でもありました。
この「芳養(はや)一里塚跡」は、和歌山から一里ごとに設けられたもので、芳養で十八里だそうです。
(参考)1里は36町(3.9273㎞)に相当する距離です。



「牛の鼻聖徳地蔵尊」
この地蔵尊は享保2年(1717年)の建立だそうです。
牛の鼻という名称は、西側の海岸にある岩穴がちょうど牛の鼻のように見えることからつけられたようですが、今では土砂の堆積により鼻の判別がつきにくくなっているそうです。


道票の左にある石碑は、御坊市の熊野(イヤ)神社の祭典の大渡御が四百三十余年前まで毎年ここ、牛の鼻まで来る習わしだったと云う史実の証として建てられているのだそうです。


目良漁港の元島に向かって建っている鳥居の横に、魚の“ウマズラハギ”の顔に似た奇岩がありました。



「天神崎」
天神崎は日本の自然100選に選ばれている岬です。
田辺湾を真っ赤に染め、天神崎のシンボルとして愛されている丸山をシルエットにし、水平線の彼方に沈む夕日は素晴らしい眺めだそうです。



その天神崎のシンボル的な丸山とそこに建つ灯台です。
この辺り一面に岩礁が表れていました。



熊野古道を歩く(その1)鹿島神社

2012-05-15 | 趣味

一昨日の日曜日、私が勤めてい会社のOB会の”歴史探訪同好会”のメンバーと熊野古道(紀伊路ルート)を歩いてきました。
今日からその時の模様を「熊野古道を歩く」シリーズとして数回に分けてご紹介します。

私がこの同好会に加入したのは一昨年の2月ですが、概ね3カ月毎に歩いていることから今回で6回目となり、1年3カ月で和歌山市から田辺市までを歩いたことになりました。

今回の古道のコースは、JR紀勢線の南部(みなべ)駅から「芳養(はや)王子」、「出立(でたち)王子」を経て紀伊田辺駅までの約10㎞ですが、私たちは芳養(はや)から海岸に出て、南紀の美しい海岸沿いを迂回して歩いたので歩行距離は15~16Kmになりました。

今回の参加者12名は集合地点のJR紀勢線・南部(みなべ)駅から最初の王子である「芳養(はや)王子」を目指し、歩き始めてから1㎞程行ったところに鹿島神社が鎮座していたので参拝しました。

・鹿島神社の鳥居です。
 

神社のご由緒によれば、当神社の現境内は明治初年までは南部湾の鹿島に鎮座する元本社の遙拝所としてこの所より常に遙拝したものですが、本社の創始は年月不詳のようです。
しかし、大宝元年(707年)以後、太上天皇・文武天皇・持統天皇の紀伊国行幸の際、当地方を詠われた十三首の御製の中に当時、鹿島大明神として鎮座されていたことからそれ以前に創始されていたと考えられているそうです。

・鹿島神社の本殿です。
 本殿には主祭神の武甕槌(タケミカズチ)大神が、 本殿左右のお社には、配祀神の天照皇大神、須佐之男命(すさのうのみこと)、誉田別命(ほむたわけのみこと)がお祀られ
 ています。


南部(みなべ)湾に浮かぶ「鹿島」です。
南部町のシンボルとなっており、ミナベの名前はこの鹿島が三つの鍋をひっくり返して並べたように見えることから三鍋(ミナベ・南部)の由来になったと言われています。

・右側奥の方から眺めると三つの鍋をひっくり返したように見えるようです。


今回のコースは平野部の平坦なコースでした。
「芳養(はや)王子」までの熊野古道はアスファルトで舗装された一般道であり、道路の分岐にはこのような道票が立っています。



鹿島神社を過ぎるとみなべの海岸に出てきます。
奥に突き出ている半島の向こう側が嘗ての新婚さんのメッカ「白浜」になります。


・美しい南紀の海岸です。


ハナタバコの花

2012-05-14 | 

大阪府熊取町の長池公園散歩コース沿いにハナタバコという花が咲いていました。

ハナタバコはナス科の多年草で原産地は南アフリカ、日本には桃山時代に渡来し、主に観賞用として栽培されていたようです。
株はロゼット状で、草丈は40~80㎝、花は長い花筒の先に2~5㎝くらいの星型の花を咲かせます。



ハナタバコの語源は花を観賞するためのタバコからと云われており、名前のとおりタバコの仲間です。
まだタバコがJTの専売だった頃は栽培が禁止されていたそうですが、昭和60年(1985年)にJT(日本たばこ産業)の発足と共にハナタバコの栽培が解禁となり、現在では自由に栽培することが出来ます。




ジャガイモの花

2012-05-13 | 家庭菜園

ジャガイモの花を見たことがありますか?

今、ジャガイモの畝では、青い葉っぱの間から花の茎が伸びてナスのような可愛い花がたくさん咲いています。
私の畝でも花が咲きましたが摘み取ったので、懇意にしている地元の農家のKさんの畝から、僅かに残っている花をご紹介します。

ジャガイモは通常、咲いた花を摘み取ります。
その理由は、花を咲かせる栄養分を、花を摘み取ることによって、ジャガイモにまわして太らせるためと云われています。

・左側が私のジャガイモの畝で、右側は地主のKさんの畝です。


ジャガイモはナス科の野菜でナスやトマトと同じ仲間です。
花もナスやトマトの花とよく似ており、この花には実がなり、種もできます。
しかし、実がつくのは品種によりけりで、男爵やメークインは受粉の能力が低く、実がつきにくいようですが、男爵から品種改良されたキタアカリは、可なりの確率で実ができるそうです。

・ナスによく似たジャガイモの花です。


花後の実から種が採取出来ますが、この種から栽培したジャガイモは、種イモを植えたときより、芽が出るのも、成長するのも遅いようです。
ジャガイモ栽培で種イモを植え付けるのは、デンプンなどの養分をたくさんもっている、種イモを植えたほうが、早くたくさんのイモができやすいからです。

・これは数年前に撮影したジャガイモの実です。青いミニトマトのような実をつけています。




ジャーマンアイリス

2012-05-12 | 

久しぶりに大阪南部・熊取の長池公園を散歩しました。
時候がよくなってきた関係でしょうか、比較的年配のウォーカー達が花を愛でながら散歩を楽しんでいました。
散歩コース沿いには色とりどりの花も咲いていました。
その中からひと際目立つ大きな花がありましたのでご紹介します。

その花はアヤメ科のジャーマンアイリスです。
ジャーマンアイリスはアヤメ科の一年草で、学名はイリス・ゲルマニカ(Iris germanica)、日本ではジャーマンアリスやドイツアヤメと呼ばれています。



ジャーマンアイリスはヨーロッパから中近東に分布する様々なアヤメ類が掛け合わさってできた園芸品種のグループで、海外ではビアテット(ひげ)・アイリスやトール・ビアテッド・アイリスと呼ばれているそうです。
これは花びらの一部にヒゲのような突起が付く姿に由来しています。

花の中心部を真上から撮影しました。


ジャーマンアイリスの学名のイリス・ゲルマニカのイリスは古代ギリシャ語の「虹」と云う意味であり、ジャーマンアイリスは別名「虹の花(レインボーフラワー)」とも呼ばれているそうです。
5~6月頃に色とりどりの花を咲かせ、アイリスの仲間では最も華やかで、非常に多くの品種がある花だそうです。

・白色のジャーマンアイリスです。
 この花は小型でフラワーアレンジに向いていることからテーブルアイリスとも呼ばれることがある品種のようです。

ジャーマンアイリスの紫です。


この散歩コース沿いでは3種類のジャーマンアイリスが目につきましたのでご紹介しました。