三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

吉野ヶ里再見_1

2005年12月28日 06時17分01秒 | Weblog

今回の旅の目的は、やっぱりもう一回吉野ヶ里に行きたかった、
ということ、のようです。わたしのなかで。
息子の歴史教育の役に立てば、という淡い期待は持っていたのですが
まぁ、まだ無理みたいだった、というかあまり興味はなかったようで
「体験工房」での勾玉つくりに精を出していました。
ま、これも面白かったんですけどね。

初めて吉野ヶ里に行ってから、6~7年経っていまして、
その間、多くの研究や遺跡の国立公園化整備が進んだようで、なにより
わかりやすい建築群がたくさん建築されていまして、興味津々。
まずは、写真左「大人~たいじん」と呼ばれる環濠内部の支配層の家。
吉野ヶ里は想像以上に階級分化が明確な社会組織だったようです。
というか、日本のコメ作りとクニ社会の成立って
やはり表裏一体の関係だったんだな、と思い知らされます。
多分、大陸から社会全体が移住してきたという感じのようなのですね。
コメ作りは、全プロセスで労働の集中的な動員が必要ですが、
その意味で、命令する権力と、農奴的に支配される被支配者との関係が明確。
右側の写真は、環濠の外側の被支配者居住区と農業生産用の建物群。

左右の写真の間には、柵と城塞が存在し、階級分化をあらわしています。
吉野ヶ里の入り口近くには防御装置である「逆茂木~さかもぎ」もありますが、
こうしたクニ同士が争い合うのが、日常茶飯的だったようなのです。
まさに、コメ作りとともに、戦争もこの国にもたらされた・・・。
だから、環濠が巡らされ、柵で防御し、農業生産性の向上のために
権力が管理する形で「製鉄」が行われ、スキ・クワづくりとともに
殺し合いのための武器も生産されていた。
農業生産と同時に、
他のクニと血みどろの戦争によって領地争奪が繰り広げられていった。
日本という国は、その初源的なかたちから、
どうもこうした社会だった・・・ようです。

それ以前の、狩猟採集型の縄文社会が
この弥生的なシステムに置き換わっていくわけですが、
生産性の向上が図られる一方で、殺し合いも進化していった、
というのが、日本歴史の実態のようですね。
これを悲しいととるか、自然ととるか、見方は分かれるところです。
しかし、多くの研究の成果で、こうした社会実態の解明まで
吉野ヶ里は実に多くのことを教えてくれますね。
年末年始のこの時期、ちょっと、このシリーズ続けたいと思います。
コメント
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