つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

風に揺れる、津幡の秋。

2010年10月26日 21時17分47秒 | 鉄道
線路はレールの下に枕木、枕木の下に土台がある。
土台と言っても「土」ではなく、敷き詰められているのは「石」だ。
つまり、動植物の目線で考えれば、そこは一種の荒れ地である。

石の目は粗く、水や養分を蓄えるのに向いていない。
常に列車が通過するため、線路の上では根も張れず、
ゆっくり過ごす事もままならないだろう。

だが、ほんの少し横にそれた辺りを棲みかにするタフな奴もいる。
「セイタカアワダチソウ」だ。
以前、今月5日…空き地一面に森のように茂った様子を掲載したが、
線路脇もなかななかの繁殖度合い。
通過する列車を覆い隠すほどの背丈に伸び、
まるで、林のようになっている地点もある。

11月下旬並みという今年一番の冷え込みになった今朝。
僕は今にも泣き出しそうな空の下、線路の傍を散歩していた。
…と、突然、列車の接近を告げる踏切が鳴った。
小さな汽笛と共に、みるみる近づく赤いトレイン。
走り去る直前、慌ててシャッターを押したのが「今日の一枚」である。

ガタガタッ!と振動が起こり、ゴオッ!と強い風が巻くと、
セイタカアワダチソウが大きく揺れた。
これもまた、秋を感じる一瞬である。
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津幡小学校、平成の登校風景。

2010年10月25日 07時44分45秒 | 日記
「今日の一枚」は、津幡小学校への登校風景。
グッと冷え込みが増した10月末、制服はすっかり冬の装いである。
彼等が目指す大西山の坂の上、正面入り口前には、
20人ほどの小学生達が待ち構え「朝の挨拶運動」を繰り広げていた。

体格から察するに、並んでいるのは3年生から6年生といたところか。
次々と訪れる仲間に向けて「おはようございます!」と元気な声をかける。
中には、挨拶の励行を促すプラカードを持っている子もいた。
僕が小学生だった頃、こうした活動はなかったように思う。

また、聞くところによると、最近は「アルミ缶登校日」なるものもあって、
学校が、各家庭の資源ごみリサイクルに一役買っているようである。
更に、低学年を中心に、不審者対策として防犯ベルを携帯している子が多いらしい。
これも時代だなと思う。

30数年前の世の中において…
@挨拶の意義を教えるのは、どちらかと言えば親や地域の領分だった。
@大量消費の当時、今ほど環境への配慮は浸透していなかった。
@「交通戦争」と呼ばれるほど事故が多く社会問題となったが、
 常軌を逸した恐ろしい犯罪の数は、今よりも少なかった。
 ちなみに、自殺者の数も今と比べて少なかった。

「内平らかに、外成る」「地平らかに、天成る」…「平成」の世の小学生達が、
平穏に過ごせるよう願う。
その為に必要なのは、我々「昭和の小学生達」がモラルを守る事だ。
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津幡の畑に古代のロマン。

2010年10月24日 19時09分12秒 | 自然
きのう、散歩途中に随分と鮮やかな色をしたエンドウ豆に目がとまった。
明るい茄子紺?バイオレットカラー?これは何という品種だろう?
取り敢えずカメラに収め、帰宅して調べてみると、
「ツタンカーメンのエンドウ豆」というらしい。

1922年、考古学史上において、20世紀最大の出来事といわれた
古代エジプト第18王朝の王墓の発見。
「黄金のマスク」を筆頭に発掘された数々の財宝や資料に混ざって、
エンドウ豆の種があったという。
やがて、時を超えて発芽に成功したエンドウ豆は、
いつしかファラオの呼び名が加わり、栽培が続けられた。
日本には1956年、アメリカから茨城県・水戸に渡来。
主に小学校、教育センターを介して広がった。…という事らしい。

初耳である。 正直、真偽のほどは定かではないようだが、ロマンを感じる。
この豆のことを知り、小学生の頃、夢中になって読んだ
「ツタンカーメン」の王墓発掘のドラマを思い起こした。

20世紀の初頭、歴代のファラオが眠る場所は、盗掘によって荒らされ放題。
新たな発見は期待できないと考えられていた「王家の谷」でまさかの大発見。
王墓の封印をといた時、現場を指揮する叩き上げの素人考古学者「カーター」と
彼の後援者(パトロン)「カーナボン卿」は会話を交わす。
「カーナボン卿」は尋ねた。…『何か見えるかね?』
「カーター」はこう答えるのがやっとだった。…『はい、素晴らしいものが。』
墓の内部に差し入れた、ゆらめく蝋燭の光の向こうには、
まばゆいばかりの黄金の遺物が輝いていた。

僕は、その発掘の副葬品に交じって「エンドウ豆の種」があったか否か、覚えていない。
しかし、2つ印象に残るアイテムがあった。
1つは、王の棺の上に置かれた、カラカラに乾燥した矢車草の花束。
3000年前に王妃が捧げた花束は、触れた瞬間に粉々に霧散したと記憶している。

もう1つは、王の玉座の背もたれのレリーフ。
まだローティーンの少年王「ツタンカーメン」の体に、
王妃がかいがいしく香油を塗る様子が浮彫りされている。

今、我が家の壁には、
そのレリーフをコピーしたエジプト土産の皿が掛っている。
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津幡の路上で、秋爆ぜる。

2010年10月23日 10時29分24秒 | 自然
「今日の一枚」は、散歩中に見つけた栗の実。
まるで“ポンッ!”と音がして爆ぜたばかりのようにも思えるが、
実際は落ちて数時間から1日が経過した状態だろう。

栗のイガは、木にとどまっている時は葉っぱと同じ緑色。
中の実が成長してくると表面に割れ目が走り、
やがて枝から離れ地面に落ちると、栄養の供給を断たれると茶に変色。
次第に開いてゆき、実を放す。

子供の頃、津幡小学校の裏庭や、
学校近くの神社「清水八幡宮」などで栗を拾い、食べたものである。
両足でイガの端を踏つけてメリッと開き、ツヤツヤ光った実を取り出す。
小型のナイフで鬼皮の底に傷をつけ、実の先端へ向けて皮を剥がし、
続いて渋皮も取り除けば…微かに緑が混ざった黄色い中の実が現れる。
口に含むと渋みは殆どなく、やや青臭さは感じるものの、
ほのかな甘味もあって、なかなか野趣横溢。
焼き栗やマロングラッセ、栗ご飯に栗きんとんなど、
加熱・加工した栗メニューは美味しいが、新鮮な栗は生で食べても結構旨い。

動物たちが食べるのは、もちろん生の栗。
以前、ドキュメンタリー番組で
野生のイノシシが栗を食べるシーンを観た事がある。
地面に落ちたイガ栗を見つけると、
彼等は牙を使って器用にイガを広げ、実だけを食べていた。
目を細め一心不乱に食べる時の顔が、何とも幸せそうだったのを覚えている。

人間の栗拾いは、枝をゆすって落としたものを拾う場合があるが、
やはり、完熟して木から落ちるのを待った方が、美味いだろう。
自然の恵みは、自然の流れに任せた方が自然だ。
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津幡のバス停に思う、過去と今。

2010年10月22日 13時59分32秒 | 日記
毎日、色々な事がある。
一時間後、一分後、一秒後であっても、未来は常に未知の領域だ。
何が起こるかなんて分からない。
つまり、人生とは、予測不可能な「未知の道」を行く
「旅」のようなものだと言える。
しかも、その旅は後戻りの許されない「時間」という大地の上にある。
仕事、家庭、育児、地域…年齢を経て背負うものが増えてくると、
一見、平凡に思える「日常」が、実は大変な力業だと知るのだ。

そんな「当たり前」に気付く前、
若かりし頃の僕は、平凡な日常を離れたくて、あちこちへ旅に出た。
徒歩で、自転車で、バイクで各地を回っていた僕が、定宿としていたのは、
「今日の一枚」に映っているような、田舎のバス停だった。

そこを利用するのには幾つかの理由がある。
まず何と言っても「無料」。
終バスさえ行ってしまえば「静か」だ。 しかも上がりも「早い」。
また屋根付きなので「雨露もしのげる」など、何かと利点が多い。
寝袋とトランジスタラジオがあれば、田舎のバス停は、十分快適な場所だった。

…そう言えば、当時の北海道土産に、
黄色の下地に黒で「熊出没注意」の文字と、
吠えるヒグマのアップが描かれたステッカーが流行っていた。
北海道以外の土地では一種のパロディやジョークとして
バンパーなどに貼っていたが、当時、もしも昨今のように
クマの出没騒動が頻発していれば、
落ち着いて眠ってなどいられなかっただろう。
洒落では済まないのである。
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