つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡の街角の弘法大師。

2010年10月13日 08時22分07秒 | 日記
「今日の一枚」は、散歩中に出逢った「弘法大師」を祀る祠だ。
「河北中央病院」に程近い住宅街の一角、
細い路地沿いに、それは突然建っている。
正面には看板がかかり、こう書かれていた。

『弘法大師  真言宗開祖
 御命日 承和二年(八百三十五年) 三月二十一日』
『震災・干冷・風水害  厄除祈願  平成七年一月』

15年前に、地域の方々が…あるいは信心深いどなたかが建立したのだろうか?
観音開きの扉を開けてみると、一番奥には、鮮やかな法衣をまとった石像。
手前左に小菊を挿した火器。 中央に焼香用の炉。 右には座布団の上に乗ったリン。
ローソクや線香、マッチもスタンバイされていた。
誰かが欠かさずに手入れを行い、なかなかに厳かな雰囲気である。

ここ津幡町の“日本三大不動”の一つ「倶利伽羅不動尊」も、
「弘法大師」と縁があるらしい。

718年(養老2年)、インドの高僧「善無畏三蔵法師」(西遊記の玄奘三蔵ではない)が
時の帝に請われて、倶利伽羅山において国家安穏を祈願。
その折、不動ヶ池より黒い龍が昇天する姿を刻み「倶利迦羅不動尊」と命名。
それから100年後、諸国を巡る「弘法大師」が、
胴体の不動尊を刻み、護摩法を修めた。…そうである。

「弘法大師」は、学校の授業では、真言宗開祖として覚える歴史上の人物。
一方で「弘法も筆の誤り」や「弘法筆を選ばず」などの例えがあるように、
一流の書家でもあったようだ。
そして、1100年以上の昔、仏教を通して万物を学び、
先進国の「唐」で学んだ僧侶は、宗教家を超える存在価値があったのだろう。
日本各地に様々な逸話が残されている。 津幡の例もその一つではないだろうか?

何にせよ、僕はしばし散歩の足を止めて、祠に向かって掌を合わせた。
足元では「りくすけ」が不思議そうな顔で、こちらを見上げていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする