罪なき制裁

2009年10月09日 | 自分 -

私は、子どもの頃から「変なことを感じる子」だった。
「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」「遠山の欽さん」とかの時代劇を観ていて、
主人公が窮地に追い込まれると・・・・・きまってこういう場面が出てくる。
悪者が、「出会え!出会え!やっつけてしまえ!」と叫んで、屋敷勤めの侍が
主人公の刃に“ばったばった”と(瞬く間に)切られていくのである。
そうすると・・・(子供ながら)私は悲しみが押し寄せてきて・・・・・
  「あの侍さんたちは、何も悪いことをしていないのに、なんで切られるの?」
  「きっと家族もいるはずなのに・・・」
切られた侍さんたちは、当然ながらピクリとも動かない。
  「死んじゃったのかなぁ?」
  「何の罪もないのに、どうして殺すの?」
心がすごく傷ついて、しばらく時代劇を観なくなった・・・。

「娯楽劇」だとわかっていても、今も“その感情”は拭えない。




数年前の「イラク戦争」の時は、冴えたるものだった。
介護人としての意識が根強くあり、また数十年にわたる過度の労働から、すべてに
過敏に反応してしまう傾向があったかもしれないと、(冷静に)当時を振り返る。
精神的にも肉体的にも、私自身はパンクする“ほんの一歩手前だった”と思う。
だから、あんなに反応したのだと、今だからこそ感じるのだ。

「9・11」からの流れで、数々の政治的な問題が噴出した「イラク戦争」―!
某国のあらゆる流れが理解できず、某国の国民の民意も理解できず・・・・・
本当に心を痛める日々であった。
毎日、繰り返されるTV報道に釘付けとなり、頭の中は「反乱(氾濫)状態」。
  「どうして?!」
  「日本人は、国内でもっと議論をして、世界に存在感を示すべきでは?!」
  (重要なことは紙面にも電波にも載らず・・・)
知人と会って、日々の話を雑談しても、私の口からは「イラク戦争」が飛び出し、
場の雰囲気を著しく“ひかせてしまった”ことが何度もあった。
熱意を持って発言しても、その反応に落胆してしまう私は・・・・・その一方で、
(周囲の仲間から)稀有な目線をあびることになったこともある。

ただ、一言。      
人間の愚かさに「怒りがこみ上げて、理解できなくて、仕方がなかった」のだ。




たとえ、どんな人にでも、全員に「命」はあり、
その一つ一つは、大変・・・・重い・・・・・と、私は思っている。
そして、その「命の重さ」に優劣は、決してないはずである。



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今日、米国のオバマ大統領の「2009年ノーベル平和賞」受賞が発表された。
私は、冷静に賛辞を贈るとともに、「これから次第だ」ということを、是非とも
肝に銘じて、アメリカを、そして世界を、牽引していっていただきたい!!と、
心から願っている。
オバマ大統領に対する純粋な期待である。
「Yes, We can do it.」と世界に明言したからには、「核のない世界」を目指して、
全身全霊頑張っていただきたいものである。
そのための「ノーベル平和賞」なのだから・・・。

オバマ大統領には、世界のために、まだまだ、たくさんの役目があると思う。
人々が幸せを手にして、餓えることなく生きられるためには、たくさんの役目が
オバマ大統領の肩にのっかっているはずである。
言うのは簡単だが、行動に移すのは大変厳しいことは判っているからこそ、
心から「世界平和」のために、尽力していただきたい。


もう自分の意思に関係なく、罪のない人々が亡くなる現実は・・・みたくない。



思いやり

2009年10月09日 | 社会 -

今日は、静けさの中、様々な鳥が鳴いている。

台風の去った後、空気も景色も違って見える。
きっと何かが変わっているのだろう。

雨の後の“ほこり”が取去られた時の“空気の清浄”のように・・・
真夜中に、恐怖に震えた雷(稲光)や豪雨。
それが通り過ぎた後に感じる「清清しさ」のように・・・。



私の中に、今、「思いやり」という言葉が、ずっとひっかかっている。
仏教の慈悲、キリスト教の愛・・・・・。
数々の言葉の中でも尚、素朴で、簡素で、そのままの意味合いが伝わる言葉!
何かが起きたとき、まず相手の立場に立って慮り、相手の心理状態になって、
考察していく・・・・それが、「思いやり」である。
「気配り」や「気遣い」とも近く、昔の全国の日本人が日常で必ず使っていた
やり方であり、心の仕組みである。


今日も、電車を降りようとした途端、突然出口の中央に陣取り、上を見上げる
青年と遭遇した。彼は、停車駅の地図を確認したかったようだ。
電車が停車駅に到着すると、出口は開くわけで、多くの人が出入りするのだが、
青年には“その想像力”が働かなかったようである。
彼には、周りの状況が見えておらず、他人の都合を気にする気配もなかった。
それはそれで、いいと思うが・・・・社会のルールだけには配慮してほしいと
思ってしまう私がいた。
その後、これも一つの「思いやり」の延長線上に存在する思考回路ではないかと
感じてしまい、なんとなく切ない感情にかられた。
どうして、こういう人が増えてしまったのだろう・・・・と。


世の中の人々が全て、心の底から「思いやり」を持って相手に対峙していけば、
また違った世界が成り立つのではないかと、しみじみと感じる。
確実に、人々は、今よりも穏やかに(平和的に)生活していけるだろう。
しかし、現実は・・・・そうではないことが多い。
そうすることが“厳しい”と言うべきか。
人が「思いやり」を(最優先として)持って生きていくためには、現代社会では
どうしても“捨て去らなければならないもの”があるからだ。
そういう構造になっているのが、今現在の日本社会であると言えなくもない。
そして、こういう理想的な生活を実行しようと邁進するならば、個々の「知力」が
必ず必要になってくるからだろう。


心のおもむくまま、自然に、素直に生きるのは・・・骨が折れることでもある。