昨日、アムステルダムからエアーメールが届いた。
10年前に知り合った友人からである。
「今もアムステルダムに住んでいるけれど、数年前に買ったイタリアの小さな家で、
今年の秋も(一ヶ月)ホリディを過ごしたよ。とても楽しかった。
自然や景色が最高で、住んでいる人々が暖かい“歴史ある小さな村”なんだ。
とてもステキな場所で、最近は春と秋にゆっくりと過ごすことにしている。
近くに来ることがあったら、是非遊びにおいでよ。待っているよ」
彼はアムステルダムで生まれ、アムスで育ち、アムスで今も暮らしているのだが、
私と同様に「スイスが大好き」で、スイスで何年も仕事をしていたことがある。
【※スイスの公用語は、イタリア語、フランス語、ドイツ語、そして現地語。】
そのためもあって、彼は語学が堪能で、四ヶ国語を流暢に話すという。
2,3年前に購入した家は、イタリアの片田舎の「小さな村」にある。
絵葉書を見ると、歴史ある石造りの家が並び、その先には雄大な山並みが続き・・・
なんと雰囲気ある場所だろうと、いつも便りが届くたびに羨ましく思ってしまう。
きっと(言葉どおりの)「スローライフ」を楽しんでいるのだろうなぁ。
彼と私は、志向や好みがとても似ている。
話してみても、民族や文化の違いなどからくる“違和感”を感じることがなかったし、
おそらく今話してみたとしても“同じような印象を持つのではないか”と思う。
初めて会ったときも、そういう“目に見えない波動”のようなものに引かれて、
まるで昔からの友だちのように“楽しく過ごすことができた”のだと思う。
男女の甘い雰囲気ではなく、最初から“同志”みたいな感覚を抱いたのを覚えている。
「holiday(ホリディ)」・・・か。
そういう言葉も、そういう生活様式も、ヨーロッパならではのものだと思う。
日本には、長期休暇なるものは、なかなか根付かない。
私が、初めてイタリアのベニスに行ったときのことだ。仕事だったのだが・・・
滞在したホテルは、べネティア映画祭が開催される「リド島」という避暑地だった。
長期滞在する人が集まってくるようなホテルで、とても快適なホテルだった。
仕事を終えると、ホテルの庭にあるバーでカクテルを飲むのが、毎日の日課だった。
そこで働いていたバーテンダーさんの生き方が、これまた印象的で・・・
「一年の内で、三ヶ月ぐらいしか働かないんだよ」
そう言っていた。
「あとは、楽しむんだ。自分のやりたいことをして過ごすんだよ」
生活資金は、三ヶ月労働で手に入れて、あとの九ヶ月は“自分の時間なのだ”と言う。
「贅沢はできないけれど、贅沢しなくても楽しいし、こういう生活に満足しているョ」
(・・・そうなんだぁ)
「自分の時間って、いったい何をして過ごすの?」という私たちの質問に、彼は
「大工仕事したり、キャンピングカーでイタリア中を旅したり、何もしないこともあるし、
とにかく“いろいろ”だよ。そのとき“やりたいこと”をするんだ」と答えた。
仕事で出向いた私たち皆から、嘆息が漏れた・・・。
「ふぅ~ん」
“別の世界の人だ”と感じながらも、羨ましくもあり、興味深くもあり、
そういう生き方をしても窮屈には感じない土壌があって、そういう生き方をしても
許容される社会がスゴイとも感じた。
それは、単に「イタリアだから」という理由では片付けられないものだと思った。
日常の雑多さに追われる日々だったのに、一枚のエアーメールが契機となって、
「ライフスタイル」&「ライフバランス」という言葉が頭をもたげてきた。
要は、私自身が“自分らしい生き方の選択をしているだろうか”ということだ。
何かに縛られている感覚は否めないとしても、それは必要な縛りだと認識し、
自分自身が「自律した人格として、責任を持って行動しているだろうか」という
生き方論のようなイメージである。そして、言い換えるとするならば・・・
「毎日の時間に“流されていないだろうか”」という素朴な疑問でもある。
それは、「私は、私自身の人生を、“自分自身の選択”で生きている“自覚”を持ち、
そしてそれを日々実行しているだろうか」という設問になってしまうのかもしれない。
誰かにやらされているのではなく、“しがらみ”や“縛り”に影響されているのでもなく、
私自身が選んだ人生を、ちゃんと生きているのだろうか・・・ということである。
実際「自発的に自分で選んだ意識を持って行動すること」と「流されていくこと」では、
大きな違いがある。
そういう日々の意識を振り返り、分かっていてもできていない事実に気づいたりして、
不思議な“納得感”に襲われてしまった。
羨ましく感じる気持ちと、そういう気持ちに満たされた自分の感情を思い知り、
現在の生活を客観的に考える“きっかけ”を与えてもらったような感じである。
時々は、立ち止まり・・・
自分を見つめて、自分の鼓動を感じて、行動そのものを見据える必要があるようだ。
でなければ、“流されていく”。
確実に、流されていく。
そういう未熟な自分を垣間見たようだ・・・。
ただ羨んでいるだけでは、ラチがあかない。
それに、“できないこと”に固執するのは、精神状態が健康的ではない。
だからと言って、すっきり忘れ去ってしまうのは、もったいない。
今は・・・十分“羨んで”、“未来の願望”として妄想を膨らませることにしよう。
そして、日々の生活の活力源の一つとして、心の底にしまいこんでおこう。
自分が死ぬまでには、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、スイスと行脚して、
できれば南洋の孤島にも立ち寄って、友人宅をめぐる旅を敢行してみたいものだなぁ。
みんなに会いたい・・・。
10年前に知り合った友人からである。
「今もアムステルダムに住んでいるけれど、数年前に買ったイタリアの小さな家で、
今年の秋も(一ヶ月)ホリディを過ごしたよ。とても楽しかった。
自然や景色が最高で、住んでいる人々が暖かい“歴史ある小さな村”なんだ。
とてもステキな場所で、最近は春と秋にゆっくりと過ごすことにしている。
近くに来ることがあったら、是非遊びにおいでよ。待っているよ」
彼はアムステルダムで生まれ、アムスで育ち、アムスで今も暮らしているのだが、
私と同様に「スイスが大好き」で、スイスで何年も仕事をしていたことがある。
【※スイスの公用語は、イタリア語、フランス語、ドイツ語、そして現地語。】
そのためもあって、彼は語学が堪能で、四ヶ国語を流暢に話すという。
2,3年前に購入した家は、イタリアの片田舎の「小さな村」にある。
絵葉書を見ると、歴史ある石造りの家が並び、その先には雄大な山並みが続き・・・
なんと雰囲気ある場所だろうと、いつも便りが届くたびに羨ましく思ってしまう。
きっと(言葉どおりの)「スローライフ」を楽しんでいるのだろうなぁ。
彼と私は、志向や好みがとても似ている。
話してみても、民族や文化の違いなどからくる“違和感”を感じることがなかったし、
おそらく今話してみたとしても“同じような印象を持つのではないか”と思う。
初めて会ったときも、そういう“目に見えない波動”のようなものに引かれて、
まるで昔からの友だちのように“楽しく過ごすことができた”のだと思う。
男女の甘い雰囲気ではなく、最初から“同志”みたいな感覚を抱いたのを覚えている。
「holiday(ホリディ)」・・・か。
そういう言葉も、そういう生活様式も、ヨーロッパならではのものだと思う。
日本には、長期休暇なるものは、なかなか根付かない。
私が、初めてイタリアのベニスに行ったときのことだ。仕事だったのだが・・・
滞在したホテルは、べネティア映画祭が開催される「リド島」という避暑地だった。
長期滞在する人が集まってくるようなホテルで、とても快適なホテルだった。
仕事を終えると、ホテルの庭にあるバーでカクテルを飲むのが、毎日の日課だった。
そこで働いていたバーテンダーさんの生き方が、これまた印象的で・・・
「一年の内で、三ヶ月ぐらいしか働かないんだよ」
そう言っていた。
「あとは、楽しむんだ。自分のやりたいことをして過ごすんだよ」
生活資金は、三ヶ月労働で手に入れて、あとの九ヶ月は“自分の時間なのだ”と言う。
「贅沢はできないけれど、贅沢しなくても楽しいし、こういう生活に満足しているョ」
(・・・そうなんだぁ)
「自分の時間って、いったい何をして過ごすの?」という私たちの質問に、彼は
「大工仕事したり、キャンピングカーでイタリア中を旅したり、何もしないこともあるし、
とにかく“いろいろ”だよ。そのとき“やりたいこと”をするんだ」と答えた。
仕事で出向いた私たち皆から、嘆息が漏れた・・・。
「ふぅ~ん」
“別の世界の人だ”と感じながらも、羨ましくもあり、興味深くもあり、
そういう生き方をしても窮屈には感じない土壌があって、そういう生き方をしても
許容される社会がスゴイとも感じた。
それは、単に「イタリアだから」という理由では片付けられないものだと思った。
日常の雑多さに追われる日々だったのに、一枚のエアーメールが契機となって、
「ライフスタイル」&「ライフバランス」という言葉が頭をもたげてきた。
要は、私自身が“自分らしい生き方の選択をしているだろうか”ということだ。
何かに縛られている感覚は否めないとしても、それは必要な縛りだと認識し、
自分自身が「自律した人格として、責任を持って行動しているだろうか」という
生き方論のようなイメージである。そして、言い換えるとするならば・・・
「毎日の時間に“流されていないだろうか”」という素朴な疑問でもある。
それは、「私は、私自身の人生を、“自分自身の選択”で生きている“自覚”を持ち、
そしてそれを日々実行しているだろうか」という設問になってしまうのかもしれない。
誰かにやらされているのではなく、“しがらみ”や“縛り”に影響されているのでもなく、
私自身が選んだ人生を、ちゃんと生きているのだろうか・・・ということである。
実際「自発的に自分で選んだ意識を持って行動すること」と「流されていくこと」では、
大きな違いがある。
そういう日々の意識を振り返り、分かっていてもできていない事実に気づいたりして、
不思議な“納得感”に襲われてしまった。
羨ましく感じる気持ちと、そういう気持ちに満たされた自分の感情を思い知り、
現在の生活を客観的に考える“きっかけ”を与えてもらったような感じである。
時々は、立ち止まり・・・
自分を見つめて、自分の鼓動を感じて、行動そのものを見据える必要があるようだ。
でなければ、“流されていく”。
確実に、流されていく。
そういう未熟な自分を垣間見たようだ・・・。
ただ羨んでいるだけでは、ラチがあかない。
それに、“できないこと”に固執するのは、精神状態が健康的ではない。
だからと言って、すっきり忘れ去ってしまうのは、もったいない。
今は・・・十分“羨んで”、“未来の願望”として妄想を膨らませることにしよう。
そして、日々の生活の活力源の一つとして、心の底にしまいこんでおこう。
自分が死ぬまでには、イギリス、フランス、オランダ、イタリア、スイスと行脚して、
できれば南洋の孤島にも立ち寄って、友人宅をめぐる旅を敢行してみたいものだなぁ。
みんなに会いたい・・・。
日本ばかりの生活が続いています。
久しく日本を脱出していないことに気づき、寂しい気持ちがしています。
「友だち」は、良いものですネ。
自分への便りが届くのは嬉しいです。
“忘れられていない”ということですから・・・。
また、「ゆったりと時間を過ごすこと」も、大切ですネ。
毎日、少しでもいいから、意図的に“そういう時間”をつくっていきたいと思いました。
「“自分の時間”をつくること」もまた、同じように貴重なことかもしれません・・・。
自分の思うように思いっきり時間を費やせる文化が、在るようで無いですね、この国は。
私もいつか色々なしがらみから開放されることを楽しみに(それは死ぬときかもしれませんが…)日々妄想に励んでいます。
心だけは自由でいたいものです。
“ファイテン”はコマーシャルにマラソ\ンの高橋尚子が出てます。ショップは現在至るトコに拡大中です。肩凝りなら、RAKUWAネックが効果的かなぁ。プロアスリートも使っていますよ。ネットて『ファイテン』と検索すると全国のショップ一覧も出てくるはず。。。