今日は、静けさの中、様々な鳥が鳴いている。
台風の去った後、空気も景色も違って見える。
きっと何かが変わっているのだろう。
雨の後の“ほこり”が取去られた時の“空気の清浄”のように・・・
真夜中に、恐怖に震えた雷(稲光)や豪雨。
それが通り過ぎた後に感じる「清清しさ」のように・・・。
私の中に、今、「思いやり」という言葉が、ずっとひっかかっている。
仏教の慈悲、キリスト教の愛・・・・・。
数々の言葉の中でも尚、素朴で、簡素で、そのままの意味合いが伝わる言葉!
何かが起きたとき、まず相手の立場に立って慮り、相手の心理状態になって、
考察していく・・・・それが、「思いやり」である。
「気配り」や「気遣い」とも近く、昔の全国の日本人が日常で必ず使っていた
やり方であり、心の仕組みである。
今日も、電車を降りようとした途端、突然出口の中央に陣取り、上を見上げる
青年と遭遇した。彼は、停車駅の地図を確認したかったようだ。
電車が停車駅に到着すると、出口は開くわけで、多くの人が出入りするのだが、
青年には“その想像力”が働かなかったようである。
彼には、周りの状況が見えておらず、他人の都合を気にする気配もなかった。
それはそれで、いいと思うが・・・・社会のルールだけには配慮してほしいと
思ってしまう私がいた。
その後、これも一つの「思いやり」の延長線上に存在する思考回路ではないかと
感じてしまい、なんとなく切ない感情にかられた。
どうして、こういう人が増えてしまったのだろう・・・・と。
世の中の人々が全て、心の底から「思いやり」を持って相手に対峙していけば、
また違った世界が成り立つのではないかと、しみじみと感じる。
確実に、人々は、今よりも穏やかに(平和的に)生活していけるだろう。
しかし、現実は・・・・そうではないことが多い。
そうすることが“厳しい”と言うべきか。
人が「思いやり」を(最優先として)持って生きていくためには、現代社会では
どうしても“捨て去らなければならないもの”があるからだ。
そういう構造になっているのが、今現在の日本社会であると言えなくもない。
そして、こういう理想的な生活を実行しようと邁進するならば、個々の「知力」が
必ず必要になってくるからだろう。
心のおもむくまま、自然に、素直に生きるのは・・・骨が折れることでもある。