三厩にある「松前街道終点之碑」~ここが奥州街道の終点 ※他サイトから借用
夏山と冬山の端境期の11月は、昨年までの3年間は毎年本州の歩き旅に出ている。15年には富士山ぐるりトレイル、16年には中山道後半、17年には東海道後半~伊勢路~熊野古道(伊勢路)である。
今年は春に43日間もの四国遍路をしているので我慢していたが、また旧街道歩き旅の虫がうずうずしてきた。いずれは5街道踏破も・・・と考えたりしていたら、ふと「松前藩の参勤交代はどのルートを歩いたのだろう?」という興味が湧いてきて、いろいろ調べてみた。
◎松前藩の参勤交代
一般的な大名は1年ごとに国元と江戸を往復(2年1勤)するが、遠隔地にあった松前藩松前家は例外で、元禄年間(1688~1704)までは概ね3年に一度、以後、文化4年(1807)に陸奥梁川(福島県伊達市)へ転封するまでは5~6年に一度、文政4年(1821)の松前復領後は5年に一度と、時代によって変化した。他の大名並みに隔年参勤となるのは、天保2年(1831)10月からだという。(海保嶺夫『近世蝦夷地成立史の研究』)。
松前藩主の参勤経路は当初、小泊(中泊町)に上陸し、西浜街道~羽州街道~奥州街道を経由するルートをとった。その後、下船の場を三厩に変更し、松前街道(上磯街道)~青森~奥州街道を経由するルートが定着したという。
この中に出てくる松前街道(上磯街道)は、松前から函館までの福山街道のことかと思ったら、北海道ではなく、津軽半島の陸奥湾沿いに今でも残っていて、三厩~青森の間の旧街道をいうらしい。その部分も含めて、一般的には奥州街道というようだ。
松前藩の参勤交代は、記録によると、天候にもよるが、早いときで26日、遅いときは40日も掛ったそうだ。しかし、26日というのは凄い・・・1日36km計算になる。
◎奥州街道とは
今までは、奥州街道というと、江戸時代の五街道の1つで、江戸から福島県白河までと思っていた。しかし、その部分は、江戸幕府が直轄した街道で、「奥州道中」と呼ばれた部分である。実際は、その延長上も含めて松前藩が参勤交代で歩いた三厩から日本橋までの間が奥州街道のようである。
日本一長い街道で、およそ900キロある。途中にあった宿場は114宿。53次といわれた東海道や69次の中仙道に比べても、その長さが分かるというものだ。
なお、白河宿~仙台宿を「仙台道」、仙台宿~盛岡宿を「盛岡道」または「南部道」、盛岡宿~三厩宿までを「松前道」とも呼んだらしい。
この奥州街道を参勤交代の道として利用した松前、奥州、羽州の大名だけで29家。それに北関東などの大名も加わると大変な数だった。
大名だけでなく多くの文人墨客も奥州街道を歩いている。松尾芭蕉、菅江真澄、伊能忠敬、古川古松軒、高山彦九郎、吉田松陰などなど。蝦夷地(北海道)へ向かうにはこの街道を通らなければならなかったし、みちのくの地を訪ねるにも欠かすことができない街道だったようだ。
◎奥州街道踏破の歩き旅の記録
奥州街道の歩き旅の記録は、圧倒的に五街道部分の日本橋から白河までが多い。しかし、三厩までの歩き旅の記録も多い。そのすべては、日本橋から北上しているものばかりである。
それらを見ていると、宿場町の面影を残すところは少ないが、結構旧街道が残っていて、その史跡などが多いようだ。
ただし、五街道のような詳しい旧街道を示す地図やガイドブックはなかなか見当たらない。歩いている人たちの記録のもとになっているのは「奥州街道―歴史探訪・全宿場ガイド」無明舎出版 (2002年12月発刊)のようだ。定価は3,600円だが、すでに絶版になっていて、今では中古品でも7,700円もする。
とても買えないが、それを基にして歩いた電子足標やGPSトラックログなどの地図はネット上にも多い。それを参考にして歩くことができそうである。
こんなことを調べていたら、何回かに分けても、三厩からスタートして日本橋まで南下して、「松前藩の足跡を辿る歩き旅」を繋いでみたくなった。
とりあえず、11/16から11/27までの12日間、予定が入っていないので、手始めに三厩から盛岡までの「松前道」(約273km)を踏破する計画を練ることにする。