《6油川宿~7青森宿~8野内宿~西平内郵便局(31.1km)8時間35分 ※浅虫温泉》
今後の天気予報を見たら、晴れの日は1日もない。明日からびっしり雨絡みの予報である。おまけに、最高気温もすべて一桁。汗をかくことはないが、やはり寒い。東北のこの時期は失敗だった。寒さ対策をしながら頑張るしかない。
いつも歩き初めは筋肉痛が出るが、今回は脛の筋肉痛だけ。このあと、少しずつ楽になるはず。サロメチールを塗り込む。
6油川宿~7青森宿
青森を6:15の列車に乗り、油川駅からスタート。
6:25、駅から国道280号に出ると、少し賑やかな商店街が続く。30分ほどで止んだが雨が降ってきた。傘をさして、雨具の下だけ履いて歩いた。
西田酒造の北側の先を東に入った所は油川湊跡である。湊番所が置かれていたというがその形跡はない。今は漁港なっているが、係留している船は一艘もなかった。
江戸時代の油川は外ヶ浜を代表する湊として栄えたらしいが、今はその面影もない。
黒板塀の西田酒造の手前に、「羽州街道、松前街道合流之地」碑がある。福島県の桑折宿でわかれた羽州街道は出羽を経由してここで合流しているのだ。街道の合流地点でもあり、制札場があるほどに賑わっていたが、明治3年に弘前-青森間に油川を経由しない直通道路が開通し衰退したようである。
西田酒造は、有名な「田酒」と「喜久泉」という酒を造っている。古くは麹屋を営んでいたとのことである。往時には11軒もの造り酒屋が油川にあり、商家、船問屋、船宿、民家が軒を連ねていたという。この先に、三浦酒造もあった。
先へ進むと、浄満寺の赤い山門が現れる。戦国時代に油川を支配していたのは南部氏配下の豪族奥瀬氏だった。しかし1585年津軽為信に追われて南部に去った。浄満寺は奥瀬氏の菩提寺だった。
本堂裏にその墓碑が並んでいた。
その横には、天明3年(1784年)の飢饉で餓死した人を埋葬した千人塚がある。飢饉で餓死した人300人、流浪に出た人400人、遺体が道端に横たわっていても誰も手にかけないので見かねた代官が浄満寺の裏の畑に大きな穴をほり埋葬し、以来読経を捧げてきたと案内板に解説してある。天明の飢饉では油川と後潟で全住民18,600余人の3分の2が死んだという。
国道280号に戻って、先を進む。油川宿の入口には代官所があったというが、その痕跡も説明もない。
ひたすら、青森市内に続く人家や商店の連なる国道280号を進む。
7青森宿~8野内宿
青森森林博物館。ルネッサンス様式の木造洋風建築。明治41年築)。この先は青森市街地の道となる。
この先から、旧街道は、青森駅構内で切られていて、はっきりしたルートはない。青森駅の東側の善知鳥(うとう)神社の鳥居のそばに、「奥州街道終点」の石碑があるというので、国道280号から国道7号の跨線橋を越える。
左手にアスパムを見ながら東へ進む。
善知鳥神社鳥居横の「奥州街道終点記念の碑」
案内板には、諸説はあるが、江戸初期に著された幕府撰慶長日本図によると安方(青森市)が終点とされているとのことである。
また、その左側に大正十一年の「青森市道路元標」がある。昔はこの境内に青森市役所があった。
青森ではここから三厩までを「松前街道」と呼んでいたようだ。
善知鳥神社。昔の青森市は善知鳥村という寒村で、ここが中心地だったようだ。
善知鳥神社を背にする道が旧街道なので、直進する。
その旧街道は、合浦(がっぽ)公園の中へ入っていく。
公園の中頃の右手に「三誉の松」が現れる。樹齢400年を超える老松で、根元から三本立ちする珍しい大木である。歴代の津軽藩主が巡行のおり、ここで野宴を開き、自ら古樹に酒を献上したと案内板に記されている。
やがて、県道259号と合流する。標柱があるので、振り向いたら「奥州街道」の標識だった。四国遍路の逆打ちを思い出す。標識は江戸から北へ向かうように設置されているようだ。
この辺りに見られる松は街道名残の松である。
7青森宿~8野内宿
10:30、国道259号を進み、野内川を渡る、野内宿へと入っていく。ここには関所などがあったというが、その痕跡も説明もない。
野内小学校の前の街道名残の松
峠を越える途中で行動食の昼食を摂る。峠から下り、集落を抜けると国道4号と合流する。
浅虫温泉のそばにある島とその北側に下北半島を見ながら国道4号を進
トンネルの海側に旧街道はあるが、通行止めになっている。しかし、踏み跡があるので進んでみる。
そこは、善知鳥崎であった。昔は難所だったらしい。
松並木が残り、そこに「明治天皇御休所御跡」の石碑が立っていた。
10分もか掛からないで国道へ戻る。
まもなく、浅虫温泉へ入っていく。
バイパスから温泉街の旧街道を進む。あちこちに行灯が設置されている。
今日は小湊宿まで行って、青い森鉄道で浅虫温泉に泊まる予定だったが、ひと駅手前の西平内駅で戻ることにした。
浅虫駅で列車の時刻を確かめて、駅前の今日の宿である宿屋つばきにリュックを預けて、西平内駅を目指す。
温泉街を抜ける旧街道と国道4号の合流地点にも、振り返ったら「奥州街道」の石碑が立っていた。
浅虫水族館への入口でバイパスと別れて、すぐ上から続く旧国道4号(旧街道)を進む。
8野内宿~西平内郵便局
ほたて広場の一角にある「ほたて供養搭」。ここは、御番所があった所だが、なんの痕跡もなかった。
ほたて公園に近くの奥州街道の説明板があった。
バイパスを進まず、旧国道を進んだ。説明板にあった現在は利用されていない旧街道の入口が分からなかった。
旧国道の出口にバリケードが設置されていた。
夏泊入口で、国道4号に合流するが、そのすぐ上にある塚ノ下の旧街道を進んだら、「明治天皇小休所」の碑が立っていた。国道に合流しそのまま進む。郵便局前を今日のごーるとして、西平内駅へ。
15:10、西平内駅に到着。
15:23の電車に乗り、浅虫温泉に戻る。道の駅をぶらついて宿へ。
16:00、宿屋つばきに到着。以前に泊まったことのある棟方志功の愛した椿館と同系列の宿だった。
どこも高いので、素泊まりで一番安い宿を探したら、ここだった。素泊まり6500円だったが、じゃらんのポイントが使えたので5100円で済んだ。
早速温泉にゆったり浸かったのはいうまでもない。
夕食に外へ出たが、結局往復20分歩いて、コンビニで買い込んできた。
今後の天気予報を見たら、晴れの日は1日もない。明日からびっしり雨絡みの予報である。おまけに、最高気温もすべて一桁。汗をかくことはないが、やはり寒い。東北のこの時期は失敗だった。寒さ対策をしながら頑張るしかない。
いつも歩き初めは筋肉痛が出るが、今回は脛の筋肉痛だけ。このあと、少しずつ楽になるはず。サロメチールを塗り込む。
6油川宿~7青森宿
青森を6:15の列車に乗り、油川駅からスタート。
6:25、駅から国道280号に出ると、少し賑やかな商店街が続く。30分ほどで止んだが雨が降ってきた。傘をさして、雨具の下だけ履いて歩いた。
西田酒造の北側の先を東に入った所は油川湊跡である。湊番所が置かれていたというがその形跡はない。今は漁港なっているが、係留している船は一艘もなかった。
江戸時代の油川は外ヶ浜を代表する湊として栄えたらしいが、今はその面影もない。
黒板塀の西田酒造の手前に、「羽州街道、松前街道合流之地」碑がある。福島県の桑折宿でわかれた羽州街道は出羽を経由してここで合流しているのだ。街道の合流地点でもあり、制札場があるほどに賑わっていたが、明治3年に弘前-青森間に油川を経由しない直通道路が開通し衰退したようである。
西田酒造は、有名な「田酒」と「喜久泉」という酒を造っている。古くは麹屋を営んでいたとのことである。往時には11軒もの造り酒屋が油川にあり、商家、船問屋、船宿、民家が軒を連ねていたという。この先に、三浦酒造もあった。
先へ進むと、浄満寺の赤い山門が現れる。戦国時代に油川を支配していたのは南部氏配下の豪族奥瀬氏だった。しかし1585年津軽為信に追われて南部に去った。浄満寺は奥瀬氏の菩提寺だった。
本堂裏にその墓碑が並んでいた。
その横には、天明3年(1784年)の飢饉で餓死した人を埋葬した千人塚がある。飢饉で餓死した人300人、流浪に出た人400人、遺体が道端に横たわっていても誰も手にかけないので見かねた代官が浄満寺の裏の畑に大きな穴をほり埋葬し、以来読経を捧げてきたと案内板に解説してある。天明の飢饉では油川と後潟で全住民18,600余人の3分の2が死んだという。
国道280号に戻って、先を進む。油川宿の入口には代官所があったというが、その痕跡も説明もない。
ひたすら、青森市内に続く人家や商店の連なる国道280号を進む。
7青森宿~8野内宿
青森森林博物館。ルネッサンス様式の木造洋風建築。明治41年築)。この先は青森市街地の道となる。
この先から、旧街道は、青森駅構内で切られていて、はっきりしたルートはない。青森駅の東側の善知鳥(うとう)神社の鳥居のそばに、「奥州街道終点」の石碑があるというので、国道280号から国道7号の跨線橋を越える。
左手にアスパムを見ながら東へ進む。
善知鳥神社鳥居横の「奥州街道終点記念の碑」
案内板には、諸説はあるが、江戸初期に著された幕府撰慶長日本図によると安方(青森市)が終点とされているとのことである。
また、その左側に大正十一年の「青森市道路元標」がある。昔はこの境内に青森市役所があった。
青森ではここから三厩までを「松前街道」と呼んでいたようだ。
善知鳥神社。昔の青森市は善知鳥村という寒村で、ここが中心地だったようだ。
善知鳥神社を背にする道が旧街道なので、直進する。
その旧街道は、合浦(がっぽ)公園の中へ入っていく。
公園の中頃の右手に「三誉の松」が現れる。樹齢400年を超える老松で、根元から三本立ちする珍しい大木である。歴代の津軽藩主が巡行のおり、ここで野宴を開き、自ら古樹に酒を献上したと案内板に記されている。
やがて、県道259号と合流する。標柱があるので、振り向いたら「奥州街道」の標識だった。四国遍路の逆打ちを思い出す。標識は江戸から北へ向かうように設置されているようだ。
この辺りに見られる松は街道名残の松である。
7青森宿~8野内宿
10:30、国道259号を進み、野内川を渡る、野内宿へと入っていく。ここには関所などがあったというが、その痕跡も説明もない。
野内小学校の前の街道名残の松
峠を越える途中で行動食の昼食を摂る。峠から下り、集落を抜けると国道4号と合流する。
浅虫温泉のそばにある島とその北側に下北半島を見ながら国道4号を進
トンネルの海側に旧街道はあるが、通行止めになっている。しかし、踏み跡があるので進んでみる。
そこは、善知鳥崎であった。昔は難所だったらしい。
松並木が残り、そこに「明治天皇御休所御跡」の石碑が立っていた。
10分もか掛からないで国道へ戻る。
まもなく、浅虫温泉へ入っていく。
バイパスから温泉街の旧街道を進む。あちこちに行灯が設置されている。
今日は小湊宿まで行って、青い森鉄道で浅虫温泉に泊まる予定だったが、ひと駅手前の西平内駅で戻ることにした。
浅虫駅で列車の時刻を確かめて、駅前の今日の宿である宿屋つばきにリュックを預けて、西平内駅を目指す。
温泉街を抜ける旧街道と国道4号の合流地点にも、振り返ったら「奥州街道」の石碑が立っていた。
浅虫水族館への入口でバイパスと別れて、すぐ上から続く旧国道4号(旧街道)を進む。
8野内宿~西平内郵便局
ほたて広場の一角にある「ほたて供養搭」。ここは、御番所があった所だが、なんの痕跡もなかった。
ほたて公園に近くの奥州街道の説明板があった。
バイパスを進まず、旧国道を進んだ。説明板にあった現在は利用されていない旧街道の入口が分からなかった。
旧国道の出口にバリケードが設置されていた。
夏泊入口で、国道4号に合流するが、そのすぐ上にある塚ノ下の旧街道を進んだら、「明治天皇小休所」の碑が立っていた。国道に合流しそのまま進む。郵便局前を今日のごーるとして、西平内駅へ。
15:10、西平内駅に到着。
15:23の電車に乗り、浅虫温泉に戻る。道の駅をぶらついて宿へ。
16:00、宿屋つばきに到着。以前に泊まったことのある棟方志功の愛した椿館と同系列の宿だった。
どこも高いので、素泊まりで一番安い宿を探したら、ここだった。素泊まり6500円だったが、じゃらんのポイントが使えたので5100円で済んだ。
早速温泉にゆったり浸かったのはいうまでもない。
夕食に外へ出たが、結局往復20分歩いて、コンビニで買い込んできた。