《十和田市~13藤島宿~14伝法寺宿~15五戸宿※旅館さ・くら屋 (18.4km)5時間25分》
日が短いし、ブログアップに3時間は掛かる(これも疲れる)ので、1日30kmくらいが理想なのだが、宿の場所の関係で、なかなか思うように行かない。
今日も、後半の五戸と三戸の約20km間は山中のコースがほとんどで、途中に宿もないし、バスや電車も通ってない。頑張っても確実に暗くなるだろう。
そこで、今日は無理しないで、五戸までの半ドン休息日とした。
十和田市~13藤島宿
6:15、朝から雨の中の歩きは初めてだったが、まだ薄暗い中、ホテルを出る。気温は0℃まで下がったが、上下カッパを着たので、寒さはまったく感じなかった。コンビニのイートインコーナーで、簡単な朝食を摂り、藤島宿をめざす。
十和田市のアーケード街の県道145号を南下。
ピンク色のスーパー・アサヒの前に一本木の一里塚が現れる。西側の塚のみで東側は国道建設時に破壊されたと案内板にある。つい何年か前までは大きな欅が自慢の塚木だったらしい。今は切られたが、子供の幹が2本未来を向いて伸びている。
そこで県道と別れて街道を進み、奥入瀬川の手前で、再び県道に合流。
奥入瀬川に架かる御幸橋の手前に御幸橋由来の碑がある。明治9年の明治天皇の東北御巡幸に際し、それまで繰り舟渡しであったが急遽橋を架けたとのこと。
橋の袂の土手を右折して200mほど進むと舟渡場跡の標柱が川岸に現れる。
再び県道に戻って、あるはずの「明治天皇駐蹕之跡」碑を探す。あちこち行きつ戻りつして、県道から街道へ別れる入口の先にみつかった。
ここは小休所となった邸宅跡だとのことである。伝法寺宿と半月交代で継立業務を請け負っていたとのことなのだが・・・・。ここが、藤島宿の中心だったのだろう。
こんな狭い、いかにも昔の街道のまんまといった道もある。
13藤島宿~14伝法寺宿
藤島宿から伝法寺宿までのほとんどは、県道145号と別れて、林道に転用されたり、当時のまま残る部分もある山越えの街道だった。
その入口に庚申塚があった。
県道145号から別れた途端に雨で泥んこの林道となる。
途中に分かりづらい土饅頭のような一里塚があるというので、見落とさないように歩く。
土饅頭はなかなか現れないが、下り始めてから、ふと左手を見ると、深く掘れた、いかにも古道といった地形が続いている。
深く掘れ過ぎて、林道には転用できないので、それと平行して新たに林道を造ったのだろう。
林道から外れてその中を歩いていたらまもなく、両側に高い土饅頭が現れた。これに違いない。
右の塚の上に標柱があるらしいので登ってみたら、微かに「一里塚」と読めた。そこから左の塚を写した。しかし、説明板はないので、どこの一里塚かは分からなかった。
ほかの一里塚は下に標柱や説明板があるが、ここはその両方ともない上に見上げるほど高いので、見逃されやすい一里塚であろう。
深く掘れた街道跡は、国道にぶつかる手前の民家の裏まで続いていた。
民家の玄関先を通り抜けたら国道4号だった。
国道4号に出て右に少し進むと高いところに伝法寺館跡の標柱があった。これも通り過ぎて、戻って探してようやくみつけた。
ここに戦国時代の南部氏家臣、津村氏の居城があったとのことである。
9:45、その標柱の先の左に入る細い道が伝法寺宿への街道だった。
伝法寺宿は小さな村だったので隣村の藤島宿と半月交代で継立業務を行っていた。
宿場内の細い道が、微かな街道の面影か?
伝法寺宿を抜けて、国道4号を進む。
14伝法寺宿~15五戸宿
10:25、五戸町に入る。とたんに歩道がなくなる。前からくるトラックが怖い。
やがて、国道と別れ、五戸高校の前を通り、市街地へと入っていく。
「明治天皇 田の草取天覧御聖跡」の碑が現れる。天皇にとってはマイナーな農作業である草取りなどは珍し光景だったのかもしれない。
天皇陛下に見られて田の草取りをしたのは、ここだけであろう。それにしても、珍しい碑である。
その先で左折して進むと、今でも営業している「菊駒」の造り酒屋が現れる。
その先を右折すると、高菜を洗って漬け物の準備をしているおばちゃんがいた。珍しいので撮らしてもらった。
突き当たりの右の階段を昇る。
11:30、階段を昇りきったら、五戸宿の商店街に出た。この通りが昔の宿場の中心だったのだろう、
その先の右側に公園があり、立派な図書館と古民家が建っていたので行ってみた。
その古民家は代官所跡だった。盛岡南部藩28カ村を統轄した五戸代官所の設置年代は寛永12年(1635)ごろと推定されている。明治2年に廃止。現在の建物は当時の代官所の平面図を基に復元された。
町の文化財にも指定されている門は、文久年間(1861~1864)の建築と推定され、屋根と土台が老朽化したため修復された、と書かれている。
街道へ戻って、先へ少し進むと、天明年間(1781~89年)に飢餓救済事業の一環として建てられた江渡家住宅がある。
茅葺き屋根の大きなつくりで、外には立派な門構えがついた家だ。とても五戸代官の下役を努めた御給人(在郷武士)の家とは思えない造りだった。
11:45、ここを今日のゴールとした。再び、商店街に出て、1軒しかない食堂で昼食にする。
五戸名物桜鍋定食。地元名物に弱いが、これも旅の楽しみである。
そこで、宿の予約を入れた。もし11時前に着いたら、三戸まで進むかもしれなかったので、予約を入れてなかった。
昼食後は、立派で大きな五戸図書館でのんびりブログを打つ。
雨は午前中、降ったり止んだりをずっと繰り返していた。
宿は旅館さ・くら屋。2食付きで、うれしい6480円。安い割りには、比較的新しく洒落たペンション風の宿で、若いおねえさんの接客対応も感じが良い。これまで古い宿ばかりだったので、快適に過ごせそう。
「さ・くら」の点は、ゆっくり休んでいただきたいという意味合いだそうだ。
ブログも終えて、4時にチェックインしたので、珍しくのんびりできそう。明日以降、大幅に狂った計画をじっくり練り直すことにする。
安いのに良い料理。ここに駅があれば、戻ってきて、また泊まりたいくらい。
日が短いし、ブログアップに3時間は掛かる(これも疲れる)ので、1日30kmくらいが理想なのだが、宿の場所の関係で、なかなか思うように行かない。
今日も、後半の五戸と三戸の約20km間は山中のコースがほとんどで、途中に宿もないし、バスや電車も通ってない。頑張っても確実に暗くなるだろう。
そこで、今日は無理しないで、五戸までの半ドン休息日とした。
十和田市~13藤島宿
6:15、朝から雨の中の歩きは初めてだったが、まだ薄暗い中、ホテルを出る。気温は0℃まで下がったが、上下カッパを着たので、寒さはまったく感じなかった。コンビニのイートインコーナーで、簡単な朝食を摂り、藤島宿をめざす。
十和田市のアーケード街の県道145号を南下。
ピンク色のスーパー・アサヒの前に一本木の一里塚が現れる。西側の塚のみで東側は国道建設時に破壊されたと案内板にある。つい何年か前までは大きな欅が自慢の塚木だったらしい。今は切られたが、子供の幹が2本未来を向いて伸びている。
そこで県道と別れて街道を進み、奥入瀬川の手前で、再び県道に合流。
奥入瀬川に架かる御幸橋の手前に御幸橋由来の碑がある。明治9年の明治天皇の東北御巡幸に際し、それまで繰り舟渡しであったが急遽橋を架けたとのこと。
橋の袂の土手を右折して200mほど進むと舟渡場跡の標柱が川岸に現れる。
再び県道に戻って、あるはずの「明治天皇駐蹕之跡」碑を探す。あちこち行きつ戻りつして、県道から街道へ別れる入口の先にみつかった。
ここは小休所となった邸宅跡だとのことである。伝法寺宿と半月交代で継立業務を請け負っていたとのことなのだが・・・・。ここが、藤島宿の中心だったのだろう。
こんな狭い、いかにも昔の街道のまんまといった道もある。
13藤島宿~14伝法寺宿
藤島宿から伝法寺宿までのほとんどは、県道145号と別れて、林道に転用されたり、当時のまま残る部分もある山越えの街道だった。
その入口に庚申塚があった。
県道145号から別れた途端に雨で泥んこの林道となる。
途中に分かりづらい土饅頭のような一里塚があるというので、見落とさないように歩く。
土饅頭はなかなか現れないが、下り始めてから、ふと左手を見ると、深く掘れた、いかにも古道といった地形が続いている。
深く掘れ過ぎて、林道には転用できないので、それと平行して新たに林道を造ったのだろう。
林道から外れてその中を歩いていたらまもなく、両側に高い土饅頭が現れた。これに違いない。
右の塚の上に標柱があるらしいので登ってみたら、微かに「一里塚」と読めた。そこから左の塚を写した。しかし、説明板はないので、どこの一里塚かは分からなかった。
ほかの一里塚は下に標柱や説明板があるが、ここはその両方ともない上に見上げるほど高いので、見逃されやすい一里塚であろう。
深く掘れた街道跡は、国道にぶつかる手前の民家の裏まで続いていた。
民家の玄関先を通り抜けたら国道4号だった。
国道4号に出て右に少し進むと高いところに伝法寺館跡の標柱があった。これも通り過ぎて、戻って探してようやくみつけた。
ここに戦国時代の南部氏家臣、津村氏の居城があったとのことである。
9:45、その標柱の先の左に入る細い道が伝法寺宿への街道だった。
伝法寺宿は小さな村だったので隣村の藤島宿と半月交代で継立業務を行っていた。
宿場内の細い道が、微かな街道の面影か?
伝法寺宿を抜けて、国道4号を進む。
14伝法寺宿~15五戸宿
10:25、五戸町に入る。とたんに歩道がなくなる。前からくるトラックが怖い。
やがて、国道と別れ、五戸高校の前を通り、市街地へと入っていく。
「明治天皇 田の草取天覧御聖跡」の碑が現れる。天皇にとってはマイナーな農作業である草取りなどは珍し光景だったのかもしれない。
天皇陛下に見られて田の草取りをしたのは、ここだけであろう。それにしても、珍しい碑である。
その先で左折して進むと、今でも営業している「菊駒」の造り酒屋が現れる。
その先を右折すると、高菜を洗って漬け物の準備をしているおばちゃんがいた。珍しいので撮らしてもらった。
突き当たりの右の階段を昇る。
11:30、階段を昇りきったら、五戸宿の商店街に出た。この通りが昔の宿場の中心だったのだろう、
その先の右側に公園があり、立派な図書館と古民家が建っていたので行ってみた。
その古民家は代官所跡だった。盛岡南部藩28カ村を統轄した五戸代官所の設置年代は寛永12年(1635)ごろと推定されている。明治2年に廃止。現在の建物は当時の代官所の平面図を基に復元された。
町の文化財にも指定されている門は、文久年間(1861~1864)の建築と推定され、屋根と土台が老朽化したため修復された、と書かれている。
街道へ戻って、先へ少し進むと、天明年間(1781~89年)に飢餓救済事業の一環として建てられた江渡家住宅がある。
茅葺き屋根の大きなつくりで、外には立派な門構えがついた家だ。とても五戸代官の下役を努めた御給人(在郷武士)の家とは思えない造りだった。
11:45、ここを今日のゴールとした。再び、商店街に出て、1軒しかない食堂で昼食にする。
五戸名物桜鍋定食。地元名物に弱いが、これも旅の楽しみである。
そこで、宿の予約を入れた。もし11時前に着いたら、三戸まで進むかもしれなかったので、予約を入れてなかった。
昼食後は、立派で大きな五戸図書館でのんびりブログを打つ。
雨は午前中、降ったり止んだりをずっと繰り返していた。
宿は旅館さ・くら屋。2食付きで、うれしい6480円。安い割りには、比較的新しく洒落たペンション風の宿で、若いおねえさんの接客対応も感じが良い。これまで古い宿ばかりだったので、快適に過ごせそう。
「さ・くら」の点は、ゆっくり休んでいただきたいという意味合いだそうだ。
ブログも終えて、4時にチェックインしたので、珍しくのんびりできそう。明日以降、大幅に狂った計画をじっくり練り直すことにする。
安いのに良い料理。ここに駅があれば、戻ってきて、また泊まりたいくらい。