《15五戸宿~16三戸宿~17金田一宿(34.3km)9時間》※清水屋旅館(三戸)
9時間も爆睡し、明るくなって外を見たら、雪が降っていた。函館も昨日、気象観測始まって以来の遅い初雪が降ったらしい。まさか、ここで、1日違いの初雪を経験するとは思わなかった。雨に変わり、1時過ぎまで降り続いた。
今日は、ほとんどが山越えの道だったので、アップダウンが激しく、泥んこ道や草道なども多かった。登山モードで、この旅で初めてうっすらと汗をかいた。
しかし、五戸と三戸の間は「歴史の道百選」に選ばれていて、歴史的文化財も多く、奥州街道の標識もまめに設置されていて歩きやすかった。
急いで歩いたが、山道が多かったので距離の割りには時間が掛かり、ゴールは薄暗くなってしまった。
15五戸宿~16三戸宿
朝食を食べて、上下カッパを着て、折り畳み傘をさして宿を出る。昨日のゴール地点の江渡家住宅まで戻る。7:40スタート。これだけ着込むと寒さは感じない。
街道を進み、立体交差で国道を横切るとまもなく、奥州街道の標識があり、農道となる。分岐のこちら向きからの標識は初めてだ。このあと、まめに標識があり、安心して歩くことができた。
やがて、「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟」の石碑と案内板がリンゴ畑の隅に現れる。明治9年7月の東北巡幸に際して、八戸が巡幸のルートからはずれたので、八戸の人達はここで八戸のジオラマを作って天皇に見せたと解説されている。
すっかり葉の落ちた渋柿野色と雪の白のコントラストが美しい。
暫く進むと右手に一里塚の標柱が現れる。鳥内沢一里塚だ。標識がないと見逃す感じだった。
急な坂が多く、そのすべてに名前の標識が立っている。
暫く進むと右手に東家が現れ「十峰庵」の標柱が立っている。いわれの説明はなかった。
9:00、浅水の集落へと入っていく。浅水は間の宿だったところである。この集落の両側が峠越えの道なので、ここに間の宿ができたのだろう。
役場支所の前に「宿場坂」の標識がある。これはここが宿場であったという証拠になる。
今まで三厩の本陣以外に、どこの宿場にも、そこが宿場だったという痕跡や史跡はなかった。しかも、ここは、正規の宿場ではなく、間の宿というのが皮肉なものだ。
立派な塀を回した旧家。このほかにも、大きな家が多い。
街道は高山峠へ向かうが、その入口に、歴史の道のルートと史跡などの表示板がある。整備が行き届いた「歴史の道百選」を進む。
ここから先にも「奥州街道」の標識や坂の名前の標識が多い。
登りの途中に整備された「水梨清水」がある。昔から旅人の喉を潤し続けて来たのだろう。
落ち葉の上に積もった雪が滑る。この辺りから靴の中が濡れてくるが冷たさは感じない。
10:15、尾根道の街道を進んでいくと高山頂上の展望台がある。真っ白な展望台の広場に出ると明治天皇御駐蹕所の記念碑がある。
この高山峠からの下りは非常に急で車も走らないようで、草道だった。これまた滑る。何度か転びそうになった。
16三戸宿~17金田一宿
やがて、三戸の郊外へと入っていく。この三戸は「南部藩発祥の地」であるが、今は青森県である。
はじめは三戸に居城を構えていたが、豊臣政権の頃に領地が増えて、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。
街道なりに進んでいき、南部利康霊屋を見るために左折して進む。
1632年(寛永9)申の年に、南部27代太守利直公が、四男利康の死を悼んで創建された。
江戸時代初期の豪華絢爛なる桃山建築の様式がそのままに取り入れられ、華麗なること東北随一と賞されているそうだ。その写真が右手に展示されている。昭和28年に国の重要文化財に指定されたこともあり、敷地の中は立ち入り禁止。
道の左手には南部氏初代の南部光行が築き三戸南部氏の本拠地であった聖寿寺館跡が見えたが、標柱と敷地の配置図のようなものが掲示されているだけ。
町の方へ入っていくと、唐馬の碑がある。八代将軍徳川吉宗に献上されたペルシア(春砂)馬が盛岡藩に下付され、この馬を種馬として馬の改良を図ったが、9歳で死んでしまったのでこれを悼み1743年に碑を建て供養したとのことである。
13:00、三戸町役場前の商店街を通過。正面の山は、三戸城址。この辺りが宿場の中心地だったのだろう。
ようやく食堂を見つけて、ニラキムチ入り醤油ラーメンを食べる。スープが美味しくて飲み干した。
市街地から次の金田一宿へ向かう道は、こんな細い道?と驚くような狭い道だった。それは、そのまま未舗装の農道に変わる。
農道から国道4号に出る。しばらく国道を進む。しかし、右に入る道が見つからない。そのまま国道を進んでしまった。
参考にしているサイトの記録は、写真と説明文と地図を載せているが、その文章と地図が合わない。地図が間違っていたのかも?
ずっと国道を進み、別の道から街道に入ったが、すでに峠の上の籠立場も集落も過ぎたあとだった。
奥州街道の標識を見つけたところを左に曲がったら、未舗装の農道になっていた。
その先は、まさに昔の街道かそのまま残っているような道へと続く。
この先にも、奥州街道の標識が頻繁に出てくる。
わずかな距離だが、こんな藪に覆われた、残された街道といった感じのところもあった。ここを抜けたところでスマホがないことに気づく。藪の道に戻ってすぐに見つかった。
16:20、街道は金田一温泉駅前の家並みの中に下りていく。この金田一宿は岩手県である。どこに県境があったのか分からなかった。
16:25、今日のゴール、金田一温泉駅に到着。金田一温泉はどこも高く、おまけに遠い。
そこで、昨日のうちに、三戸駅前の方の宿を取っておいた。タイミング良く16:39の電車に乗って三戸駅へ。
16:50、三戸駅前の清水屋旅館に到着。靴も靴下もびしょ濡れ。雑巾を借りて足を拭いて部屋へ。素泊まりで4320円。
まずは、お風呂。広い浴槽に体を伸ばして、疲れを抜く。そのあと、夕食を食べに出ようと思ったら、靴の中に湿気とりの古新聞を入れておいてくれていた。
宿の向かいの洋品店で靴下を買い、近くの中華料理屋さんで、野菜炒め定食を食べる。戻ったら、古新聞がたくさん置かれていた。それと靴を部屋へ持ち込み、ストーブの前で靴を干し、中の古新聞を取り替えながら、ブログを打つ。
9時間も爆睡し、明るくなって外を見たら、雪が降っていた。函館も昨日、気象観測始まって以来の遅い初雪が降ったらしい。まさか、ここで、1日違いの初雪を経験するとは思わなかった。雨に変わり、1時過ぎまで降り続いた。
今日は、ほとんどが山越えの道だったので、アップダウンが激しく、泥んこ道や草道なども多かった。登山モードで、この旅で初めてうっすらと汗をかいた。
しかし、五戸と三戸の間は「歴史の道百選」に選ばれていて、歴史的文化財も多く、奥州街道の標識もまめに設置されていて歩きやすかった。
急いで歩いたが、山道が多かったので距離の割りには時間が掛かり、ゴールは薄暗くなってしまった。
15五戸宿~16三戸宿
朝食を食べて、上下カッパを着て、折り畳み傘をさして宿を出る。昨日のゴール地点の江渡家住宅まで戻る。7:40スタート。これだけ着込むと寒さは感じない。
街道を進み、立体交差で国道を横切るとまもなく、奥州街道の標識があり、農道となる。分岐のこちら向きからの標識は初めてだ。このあと、まめに標識があり、安心して歩くことができた。
やがて、「明治天皇八戸疑景天覧聖蹟」の石碑と案内板がリンゴ畑の隅に現れる。明治9年7月の東北巡幸に際して、八戸が巡幸のルートからはずれたので、八戸の人達はここで八戸のジオラマを作って天皇に見せたと解説されている。
すっかり葉の落ちた渋柿野色と雪の白のコントラストが美しい。
暫く進むと右手に一里塚の標柱が現れる。鳥内沢一里塚だ。標識がないと見逃す感じだった。
急な坂が多く、そのすべてに名前の標識が立っている。
暫く進むと右手に東家が現れ「十峰庵」の標柱が立っている。いわれの説明はなかった。
9:00、浅水の集落へと入っていく。浅水は間の宿だったところである。この集落の両側が峠越えの道なので、ここに間の宿ができたのだろう。
役場支所の前に「宿場坂」の標識がある。これはここが宿場であったという証拠になる。
今まで三厩の本陣以外に、どこの宿場にも、そこが宿場だったという痕跡や史跡はなかった。しかも、ここは、正規の宿場ではなく、間の宿というのが皮肉なものだ。
立派な塀を回した旧家。このほかにも、大きな家が多い。
街道は高山峠へ向かうが、その入口に、歴史の道のルートと史跡などの表示板がある。整備が行き届いた「歴史の道百選」を進む。
ここから先にも「奥州街道」の標識や坂の名前の標識が多い。
登りの途中に整備された「水梨清水」がある。昔から旅人の喉を潤し続けて来たのだろう。
落ち葉の上に積もった雪が滑る。この辺りから靴の中が濡れてくるが冷たさは感じない。
10:15、尾根道の街道を進んでいくと高山頂上の展望台がある。真っ白な展望台の広場に出ると明治天皇御駐蹕所の記念碑がある。
この高山峠からの下りは非常に急で車も走らないようで、草道だった。これまた滑る。何度か転びそうになった。
16三戸宿~17金田一宿
やがて、三戸の郊外へと入っていく。この三戸は「南部藩発祥の地」であるが、今は青森県である。
はじめは三戸に居城を構えていたが、豊臣政権の頃に領地が増えて、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。
街道なりに進んでいき、南部利康霊屋を見るために左折して進む。
1632年(寛永9)申の年に、南部27代太守利直公が、四男利康の死を悼んで創建された。
江戸時代初期の豪華絢爛なる桃山建築の様式がそのままに取り入れられ、華麗なること東北随一と賞されているそうだ。その写真が右手に展示されている。昭和28年に国の重要文化財に指定されたこともあり、敷地の中は立ち入り禁止。
道の左手には南部氏初代の南部光行が築き三戸南部氏の本拠地であった聖寿寺館跡が見えたが、標柱と敷地の配置図のようなものが掲示されているだけ。
町の方へ入っていくと、唐馬の碑がある。八代将軍徳川吉宗に献上されたペルシア(春砂)馬が盛岡藩に下付され、この馬を種馬として馬の改良を図ったが、9歳で死んでしまったのでこれを悼み1743年に碑を建て供養したとのことである。
13:00、三戸町役場前の商店街を通過。正面の山は、三戸城址。この辺りが宿場の中心地だったのだろう。
ようやく食堂を見つけて、ニラキムチ入り醤油ラーメンを食べる。スープが美味しくて飲み干した。
市街地から次の金田一宿へ向かう道は、こんな細い道?と驚くような狭い道だった。それは、そのまま未舗装の農道に変わる。
農道から国道4号に出る。しばらく国道を進む。しかし、右に入る道が見つからない。そのまま国道を進んでしまった。
参考にしているサイトの記録は、写真と説明文と地図を載せているが、その文章と地図が合わない。地図が間違っていたのかも?
ずっと国道を進み、別の道から街道に入ったが、すでに峠の上の籠立場も集落も過ぎたあとだった。
奥州街道の標識を見つけたところを左に曲がったら、未舗装の農道になっていた。
その先は、まさに昔の街道かそのまま残っているような道へと続く。
この先にも、奥州街道の標識が頻繁に出てくる。
わずかな距離だが、こんな藪に覆われた、残された街道といった感じのところもあった。ここを抜けたところでスマホがないことに気づく。藪の道に戻ってすぐに見つかった。
16:20、街道は金田一温泉駅前の家並みの中に下りていく。この金田一宿は岩手県である。どこに県境があったのか分からなかった。
16:25、今日のゴール、金田一温泉駅に到着。金田一温泉はどこも高く、おまけに遠い。
そこで、昨日のうちに、三戸駅前の方の宿を取っておいた。タイミング良く16:39の電車に乗って三戸駅へ。
16:50、三戸駅前の清水屋旅館に到着。靴も靴下もびしょ濡れ。雑巾を借りて足を拭いて部屋へ。素泊まりで4320円。
まずは、お風呂。広い浴槽に体を伸ばして、疲れを抜く。そのあと、夕食を食べに出ようと思ったら、靴の中に湿気とりの古新聞を入れておいてくれていた。
宿の向かいの洋品店で靴下を買い、近くの中華料理屋さんで、野菜炒め定食を食べる。戻ったら、古新聞がたくさん置かれていた。それと靴を部屋へ持ち込み、ストーブの前で靴を干し、中の古新聞を取り替えながら、ブログを打つ。