癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

奥州街道(松前道)歩き旅・9日目

2018年11月24日 | 登山・旅行
《小繋集落入口~20沼宮内宿~岩手川口駅(29.4km)7時間10分》

 今日のコースは、午前中歩いた一戸町小繋から岩手町御堂の13.3km区間は環境庁で「新奥の道」と命名し、東北自然歩道のハイキングコースに推奨している。それもあり、整備されているような感じだった。
 午後の沼宮内宿の前後は、あまり見るものがなかった。

 今日は、昨日より気温は高く、あまり寒さは感じなかった。登りの山道ではうっすらと汗ばんだくらい。

    
 6:30に用意してくれた朝食をいただく。この旅館はネット上の評判もよい。総合的に期待通りだった。幸い、この丹野旅館の前が奥州街道なので、不必要な荷物を預けて、背中を軽くして沼宮内駅へ。 

    
 東北新幹線が通ってからは、昔の東北本線は、青森県内は青い森鉄道、岩手県はいわて銀河鉄道になっている。それぞれの発着駅は青森県の八戸駅。

 7:18発の電車で、小繋駅へ移動。さらに、25分歩いて昨日のゴールの小繋集落入口へ。(この分は上の距離や時間には入れていない)

小繋集落入口~20沼宮内宿

    
 8:00スタート。道路には雪はあるが、それほど気にならない。

    
 小繋集落へ入る手前に、坂上田村麻呂の建立とされる長楽寺の地蔵堂が現れる。寺は江戸勤番往路の際には本陣ともなっていたのであるが、明治、大正の大火で全焼しわずかに地蔵尊を残すのみとなったと案内板に解説してある。
 本陣ということは、松前藩主もここに泊まったのであろうか?

    
 その手前の右手に小繋番所跡の案内板が現れる。ここの番所は「領内の物資と交通を監したとある。

    
 昨日と同じ一戸町の標識が充実している。道の分岐には必ず設置されているので迷うことはない。さらに、次の文化財までの距離も示されているのがうれしい。

    
 集落を抜けて、未舗装の街道を進む。小繋一里塚の道標があり、一里塚と案内板が現れる。盛岡から12番目の一里塚で、西塚のみ現存している。

    
 やがて、轍もない昔の街道のまま残っているような道となる。整備されているような感じだ。

    
 しかし、その先の長い登り坂は、ぬかるんだ感じで歩きづらかった。
 
 登り切って舗装道路に出たら、左手の標識には「よの坂」と書かれ、右手の案内板には当時からの悪路だったと書かれていた。また、「奥州街道のなかでもかなりの難所」だったようだ。また「周囲には一軒の家も樹木もないさびしい道」だったと脅している。これは今も同じだった。

    
 まもなくして、火行(ひぎょう)集落へと入っていく。

    
 集落の半ばに火行伝馬所跡の案内板がある。江戸時代、公用通行のための伝馬所が置かれていたとの解説がある。火行付近は明治になっても「山又山の果てしなき地」といわれていた地域だったらしい。

    
 街道の松並木かと思ったが周りに松林があるので、たまたまそのように見えるのかもしれない。

   
 中山一里塚は、今の道とは違う畑の中にあるらしいので、気を付けて歩く。標識があったが、そこには見当たらない。周りを探したら、やはり畑の中に見つかった。今は畑となっているところにこの一里塚があるということは、往時はここに街道が通っていたのだろう。
 片方は畑を作るときに、削られてしまったらしい。おまけに、この一里塚の所有者名まで書かれていた。この畑の所有者なのだろう。ということは、片方を削ってしまった子孫ということになる?

    
 その先、緩い上りが続くが、上りきったところに「欧州街道最高点484m」の標識が立っていた。もう、江戸まではここより高いところはないということだ。

    
 摺糠集落と馬場松集落を抜けると、御堂・馬羽松の一里塚が現れる。左右ともに健在だ。盛岡から10番目の一里塚とのことである。
 ここには、一戸町と岩手町の説明板があるところを見ると、この辺りが町境界なのかも知れない。
 昨日から、一戸町には多くの一里塚が残っていた。それは、「一戸町の国道が奥州街道を通らなかったから」と書かれていた。

    
 御堂集落の手前に、地名の由来となった御堂観音が現れる。この観音堂は坂上田村麻呂が祈願所として開基し源義家が堂を建立したと書かれている。 

 あとで分かって悔しい思いをしたが、境内へ昇っていけば、観音堂の右手に「北上川の源泉泉 流 弭(ゆはず)の泉」があったらしい。
 この泉は、1057年の安倍一族と源頼義・義家らの朝廷軍との戦いの折、源義家が打続く炎暑に対処するため大杉の根本の岩を弓弭で突いたところ清水が湧き出たところと言われる。
 岩手町は、北上川の源泉の町を謳っていて、その向かいに川の駅もあった。

    
 観音堂の下に、今日歩いてきた小繋から御堂までの13.3kmは「新奥の細道」として、東北自然歩道であるという環境庁と岩手県の案内板があった。

 やがて、国道に出て、南下する。ちょうど正午に御堂駅前に到着。周りには食べ物屋はない。駅舎へ入って、このような時のための背負っていた賞味期限切れのバナナ饅頭と大福を食べた。

 やがて、国道と別れ、県道を進む。
 少し奥まっているので寄りはしなかったが、沼宮内小学校は、当時郡の中心であった南部盛岡藩の沼宮内代官所跡だったらしい。

    
 13:10、街道は突然、直線の広い道となる。沼宮内宿の繁華街だ。街道筋の面影はなく現代的な町並みが続いている。

    
 しかし、その中に、歴史を感じる建物も多い。

    
 ここは上路旅館というしにせ旅館だったところで、二階のガラス窓の繊細な造りがそれを漂わせている。

 沼宮内の繁華街を抜けて、丹野旅館に寄って、預けた荷物を受けとる。

    
 街道は沼宮内駅の西口を通っている。

20沼宮内宿~岩手川口駅入口

 その後、国道や県道や昔の街道歩きを繰り返す。

 北上川が大きく屈曲するところを国道は直進しているが、街道はその外側を通っている。しかし、その入口を間違って早く入り、遠回りをしてしまった。やがて、街道とぶつかったところに「芦田内一里塚入口」の標識を見つける。その道が街道だったのである。

    
 民家の奥に、説明板もないが、片方だけ残っていた。しかし、その先の街道から国道に抜けようと思ったが、その先は崖になり、ぶっつりと切れていた。

    
 戻る途中から大きく屈曲する北上川をながめ、国道に出る。

    
 川口集落の手前に川口城跡の案内が現れる。川口氏は、祖を川村氏といい、1189年源頼朝の命によりこの地に移住し築城、川口氏と改名。1665年八戸へ移住、八戸南部藩主より400を賜り、後に家老となる、と案内板に解説されている。

    
 川口集落の中ほどに、このような大きな旧家があった。

    
 15:15、今日のゴールは、この岩手川口駅入口である。

      
 国道から5分ほどで、新しい奇妙な駅舎に到着。無人駅であったが、中は普通の駅の造りだった。

 今日の宿は、盛岡に取ってあるので、時刻表を見たら、わずか6分後の15:26の電車があった。素晴らしいタイミングだった。

 16:05にホテル盛岡ヒルズに到着。素泊まり4700円。
 無料の洗濯機と有料の乾燥機があったので、まず洗濯機を回す。バスタブにお湯を入れてのんびり疲れを癒す。

 いよいよ、明日は盛岡宿までのラストウォークである。あと残りは30km弱のはず。
 ブログも終わったので、これから外で夕食。

    
 盛岡名物じゃじゃ麺の美味しいところをホテルで訊いたら、駅の地下街にある盛岡一の有名店という白龍(ぱいろん)を教えてくれた。
 人気店らしく混んでいた。安くてボリュームはあるが、どうも自分好みではなかった。やはり冷麺の方が好きだ。明日はそっちを食べよう。