《西平内駅~9小湊宿~10馬門宿~11野辺地宿※藤川旅館(26,5km)8時間》
計画では、今日は小湊宿から七戸宿までだったが、距離が長い上に、雨予報なので、無理しないで、昨日と合わせて距離を短くすることにした。しかし、野辺地宿と七戸宿の間の24km以上は、町もなく、青い森鉄道と離れてしまう。仕方ないので、距離的には物足りないが、今日のゴールを野辺地宿にした。
夜中ずっと雨が降っていたが朝には止んでいた。しかし、いつ降られてもいいように、初めから雨具を着て出た。結局途中で脱いだが、午後から少し降られた。折り畳み傘でしのげる雨だった。
比較的暖かかったのと時間的余裕があったので、のんびり歩いた。
西平内駅~9小湊宿
7:16の電車で西平内駅へ。国道4号に出て、7:30、西平内郵便局からスタート。
国道4号に出てすぐ、左の旧街道と思われる家並みに入るところの国道に、こちらからすると反対向きだが、奥州街道の標柱がたっていた。
旧街道の面影を残す家並みを通り、再び国道へ。
国道沿いのたんぼに群れをなしている白鳥。すぐ近くの小湊の白鳥飛来地の沼から飛んで来たのだろう。幼鳥が非常に多かった。
再び山側の旧街道を進み、国道に出る手前の分岐に、やはり反対側だが、標柱が立っている。写っている道は歩いてきた道。
国道から、藤沢で右折して、旧街道を進み、暫くすると左手の土手の上に天明の飢饉供養塔と案内板が現れる。天明の飢饉(1782年~1785年)で平内でも沢山の人が餓死し、半数の357戸の家が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため1787年に東福寺住職が供養塔を建てたと記されている。大変な時代があったんだなと思い、合掌!街道は静かな道を進む。
狭い旧街道を進み、国道を横断して、さらに旧街道を進むと、商店街になる。この辺りが小湊宿の中心地だろう。
8:45、左手に平内町役場が現れる。敷地内の松の木の横に竹内家跡地の標柱があり、役場の玄関横には明治天皇行在所跡の碑がある。竹内家とは江戸時代の豪商竹内与右衛門の家のことで、明治天皇の2度の東北巡行の行在所ともなったことを示している。
その先で右折するのだが、大きな木があるので行ってみた。
巨木は「御家中の松と欅」で、松は400年、欅は500年(室町時代)の樹齢だそうだ。この付近一帯は、昔のチャシ(アイヌの砦)の跡で、藩政時代には代官所や武家屋敷があり御家中と呼ばれていた、と案内板にある。
その奥には、ここが生誕地である高橋竹山の碑や歴史民族資料館がある。資料館の前には平内代官所跡の標柱がある。
街道に戻って西に進む。この街道は県道9号だった。
国道に合流し、3kmほど集落のない国道歩きとなる。途中のゆとりの駐車帯に奥州街道の立派な石碑。立てた団体名は奥州街道歴史の道整備委員会となっていた。整備に力を入れているのだろうか?
その奥に、江戸時代のこの辺りの奥州街道の絵と説明板が設置されていた。
9小湊宿~10馬門宿
広口沢の集落で旧街道に入る。その後何度か、国道歩きと旧街道歩きを繰り返す。
街道歩きの経験からか、地図を見なくても、国道から斜めに別れている道はだいたい旧街道だと分かる。一応地図とGPSで確かめて進むが…。
その途中の国道沿いに「明治天皇野立之地」の石碑がある。ここのほかにも、御休所の碑もあった。明治9年と14年の2回通っているので非常に多く目につく。
狩場沢までの30分ほどは、歩道のない国道歩きだった。ここまでで初めてだ。危険きわまりない。
11:45、狩場沢地区の入口に、レストランカフェがあったので、昼食にした。頼んだメニューはぷりぷりのホタテとエビの入った磯ぞうすい。ボリューム的には物足りなかったが、体が温まった。
狩場沢の旧街道の坂道を抜けると、ここにも奥州街道の標柱がたっていた。この出口付近の民家の辺りに津軽藩の狩場沢番所があったそうだがそれを示すものは何もない。
10馬門宿~11野辺地宿
狩場沢を抜けると、野辺地町に入るが、その境界の海岸に、「藩境界塚(通称四つ森)の広場」が現れる。江戸時代の津軽藩と南部藩との境界に築かれたもので、二本又川をはさんでそれぞれ二基ずつ築かれている。
また海側にはそれぞれ「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」の標柱が建っている。往時はこの塚の間を街道が通っていたのであろう。
国道に戻ったら、南部藩の馬門御番所跡が復元されていた。人や物資の出入りをこの番所で監視していたのこと。
やがて、国道と別れて県道243号へ入ると馬門宿の入口となる。
馬門の海岸から今日のゴールの野辺地の町並みが見える。
13:55、馬門宿の中心地らしいところはなかったので、バス停の馬門のところの通りを写した。当時は寒村だったのに、戊辰の役の野辺地戦争で焼き討ちにあったらしい。
野辺地川の手前の浜側に、野辺地戦争戦死者の墓所が現れる。明治元年9月22日夜半に官軍側についた津軽藩180人が攻めてきた。南部藩・八戸藩連合軍はこれに応戦し撃退した。夜明けまで続いた戦いで津軽藩の軍勢は40余名の死傷者をだして敗走した。盛岡藩はその後伊達領白石に転封された。この墓は翌年に津軽藩が戦死者27人の名を刻んだ墓石を建てたものであると、案内板にある。
10馬門宿~11野辺地宿
野辺地川を渡ると、野辺地宿へ入る。海の方に常夜灯公園があるので寄ってみた。
当時の回船問屋野村治三郎によって建てられたもので、関西の橘屋吉五郎の協力をえて海路運ばれてきた。毎年3月から10月まで夜毎灯がとれされ、野辺地を行き交う船を見守ってきたと、案内板に記されている。
また、近くには江戸時代の航路や秋田・尾去沢から野辺地湊を通り大阪に運ばれた御用銅の道などの案内板がある。
右の船は、最近当時の弁財船を復元作成した「みちのく丸」。
公園手前の交差点に遠見番所跡がある。江戸幕府により外国との通商・交通が禁止されていたために外国船を監視する施設を南部藩が設けたものであると記されている。
県道243に戻って右折し、すぐに左折すると、繁華街へ入っていく。
15:05、質素な野辺地町役場。
役場の隣には明治天皇の行在所となった豪商・野村治三郎宅の離れと庭園が保存されている。
15:30、街道筋の藤川旅館に到着。早速足を伸ばせる風呂に入る。その点、ビジネスホテルより旅館の方が好きだ。
素泊まり3500円。2食付きをお願いしたが、夕方まで出掛ける用事があるので、朝食は用意できるが、夕食はできないという。
17時過ぎに、コインランドリーでの洗濯と夕食に出掛けたが、隣のスーパーで、割引値札の付いた惣菜等を買い込んで安上がりの夕食となった。
計画では、今日は小湊宿から七戸宿までだったが、距離が長い上に、雨予報なので、無理しないで、昨日と合わせて距離を短くすることにした。しかし、野辺地宿と七戸宿の間の24km以上は、町もなく、青い森鉄道と離れてしまう。仕方ないので、距離的には物足りないが、今日のゴールを野辺地宿にした。
夜中ずっと雨が降っていたが朝には止んでいた。しかし、いつ降られてもいいように、初めから雨具を着て出た。結局途中で脱いだが、午後から少し降られた。折り畳み傘でしのげる雨だった。
比較的暖かかったのと時間的余裕があったので、のんびり歩いた。
西平内駅~9小湊宿
7:16の電車で西平内駅へ。国道4号に出て、7:30、西平内郵便局からスタート。
国道4号に出てすぐ、左の旧街道と思われる家並みに入るところの国道に、こちらからすると反対向きだが、奥州街道の標柱がたっていた。
旧街道の面影を残す家並みを通り、再び国道へ。
国道沿いのたんぼに群れをなしている白鳥。すぐ近くの小湊の白鳥飛来地の沼から飛んで来たのだろう。幼鳥が非常に多かった。
再び山側の旧街道を進み、国道に出る手前の分岐に、やはり反対側だが、標柱が立っている。写っている道は歩いてきた道。
国道から、藤沢で右折して、旧街道を進み、暫くすると左手の土手の上に天明の飢饉供養塔と案内板が現れる。天明の飢饉(1782年~1785年)で平内でも沢山の人が餓死し、半数の357戸の家が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため1787年に東福寺住職が供養塔を建てたと記されている。大変な時代があったんだなと思い、合掌!街道は静かな道を進む。
狭い旧街道を進み、国道を横断して、さらに旧街道を進むと、商店街になる。この辺りが小湊宿の中心地だろう。
8:45、左手に平内町役場が現れる。敷地内の松の木の横に竹内家跡地の標柱があり、役場の玄関横には明治天皇行在所跡の碑がある。竹内家とは江戸時代の豪商竹内与右衛門の家のことで、明治天皇の2度の東北巡行の行在所ともなったことを示している。
その先で右折するのだが、大きな木があるので行ってみた。
巨木は「御家中の松と欅」で、松は400年、欅は500年(室町時代)の樹齢だそうだ。この付近一帯は、昔のチャシ(アイヌの砦)の跡で、藩政時代には代官所や武家屋敷があり御家中と呼ばれていた、と案内板にある。
その奥には、ここが生誕地である高橋竹山の碑や歴史民族資料館がある。資料館の前には平内代官所跡の標柱がある。
街道に戻って西に進む。この街道は県道9号だった。
国道に合流し、3kmほど集落のない国道歩きとなる。途中のゆとりの駐車帯に奥州街道の立派な石碑。立てた団体名は奥州街道歴史の道整備委員会となっていた。整備に力を入れているのだろうか?
その奥に、江戸時代のこの辺りの奥州街道の絵と説明板が設置されていた。
9小湊宿~10馬門宿
広口沢の集落で旧街道に入る。その後何度か、国道歩きと旧街道歩きを繰り返す。
街道歩きの経験からか、地図を見なくても、国道から斜めに別れている道はだいたい旧街道だと分かる。一応地図とGPSで確かめて進むが…。
その途中の国道沿いに「明治天皇野立之地」の石碑がある。ここのほかにも、御休所の碑もあった。明治9年と14年の2回通っているので非常に多く目につく。
狩場沢までの30分ほどは、歩道のない国道歩きだった。ここまでで初めてだ。危険きわまりない。
11:45、狩場沢地区の入口に、レストランカフェがあったので、昼食にした。頼んだメニューはぷりぷりのホタテとエビの入った磯ぞうすい。ボリューム的には物足りなかったが、体が温まった。
狩場沢の旧街道の坂道を抜けると、ここにも奥州街道の標柱がたっていた。この出口付近の民家の辺りに津軽藩の狩場沢番所があったそうだがそれを示すものは何もない。
10馬門宿~11野辺地宿
狩場沢を抜けると、野辺地町に入るが、その境界の海岸に、「藩境界塚(通称四つ森)の広場」が現れる。江戸時代の津軽藩と南部藩との境界に築かれたもので、二本又川をはさんでそれぞれ二基ずつ築かれている。
また海側にはそれぞれ「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」の標柱が建っている。往時はこの塚の間を街道が通っていたのであろう。
国道に戻ったら、南部藩の馬門御番所跡が復元されていた。人や物資の出入りをこの番所で監視していたのこと。
やがて、国道と別れて県道243号へ入ると馬門宿の入口となる。
馬門の海岸から今日のゴールの野辺地の町並みが見える。
13:55、馬門宿の中心地らしいところはなかったので、バス停の馬門のところの通りを写した。当時は寒村だったのに、戊辰の役の野辺地戦争で焼き討ちにあったらしい。
野辺地川の手前の浜側に、野辺地戦争戦死者の墓所が現れる。明治元年9月22日夜半に官軍側についた津軽藩180人が攻めてきた。南部藩・八戸藩連合軍はこれに応戦し撃退した。夜明けまで続いた戦いで津軽藩の軍勢は40余名の死傷者をだして敗走した。盛岡藩はその後伊達領白石に転封された。この墓は翌年に津軽藩が戦死者27人の名を刻んだ墓石を建てたものであると、案内板にある。
10馬門宿~11野辺地宿
野辺地川を渡ると、野辺地宿へ入る。海の方に常夜灯公園があるので寄ってみた。
当時の回船問屋野村治三郎によって建てられたもので、関西の橘屋吉五郎の協力をえて海路運ばれてきた。毎年3月から10月まで夜毎灯がとれされ、野辺地を行き交う船を見守ってきたと、案内板に記されている。
また、近くには江戸時代の航路や秋田・尾去沢から野辺地湊を通り大阪に運ばれた御用銅の道などの案内板がある。
右の船は、最近当時の弁財船を復元作成した「みちのく丸」。
公園手前の交差点に遠見番所跡がある。江戸幕府により外国との通商・交通が禁止されていたために外国船を監視する施設を南部藩が設けたものであると記されている。
県道243に戻って右折し、すぐに左折すると、繁華街へ入っていく。
15:05、質素な野辺地町役場。
役場の隣には明治天皇の行在所となった豪商・野村治三郎宅の離れと庭園が保存されている。
15:30、街道筋の藤川旅館に到着。早速足を伸ばせる風呂に入る。その点、ビジネスホテルより旅館の方が好きだ。
素泊まり3500円。2食付きをお願いしたが、夕方まで出掛ける用事があるので、朝食は用意できるが、夕食はできないという。
17時過ぎに、コインランドリーでの洗濯と夕食に出掛けたが、隣のスーパーで、割引値札の付いた惣菜等を買い込んで安上がりの夕食となった。