二十年以上前からお世話になってきたが最近お目にかかる機会の減っていたステーションの田村光男さんの訃報に茫然。昨年の正月だったか、青年劇場の人たちと新宿の居酒屋にいたら、偶然同じ店にいた田村さんが寄ってきてくれて、加わった。あれ以来また連絡を取り合うようになっていたのだが。
仕事の事情で時間が合わず、残念ながら中川安奈さんとのお別れの会には行けなかった。
高橋ユリカさんを偲ぶ会にはなんとか出られた(写真)。
彼女は下北沢という街の不毛な再開発に反対してどのような街づくりをするか考える先鋒に立っていた。「演劇の街」と言われることの多いこの街の未来について考える仲間であった。「小田急線上部利用の完成を見る」という彼女の目標は、生前には果たせなかった。
彼女はダム建設についての研究家でもあった。私は世田谷区長になる前の保坂展人氏と八ッ場ダムに行ったりしていた。彼女の紹介してくれた人脈と著書『川辺川ダムはいらない』をもとに私はダムについての劇『帰還』を書くことができた。恩人である。『帰還』が遺作になった大滝秀治さんも、大滝さんの最後の演技について熱く語っていた高倉健さんも亡くなった。
偲ぶ会で、まだ店頭に並ぶ前のユリカさんの著書『がん末期のログブック 患者になったジャーナリストが書き込んだ500日』(プリメド社)を初めて手にとり、この本を依頼されていた新聞の書評の対象とすることを決める。
本書は、書名と副題にあるように、ユリカさんが、がん治療・療養の様子をFacebookの特設枠に最期まで投稿し続けた内容をまとめた二年間にわたる闘病記録である。「落ち込んで、泣いて、怒って、凹んで、立ち直って、受容してゆく」、揺れ動くリアルタイムの病床からの壮絶な実況中継。だが時にたんたんと客観的に、他人事のようにも書いている。ネット文だから「顔文字」も多い。それをプリントアウトしたときの厚みは5センチ以上という。「書くこと」が病気と向き合い自分自身を支える装置だったのだろう。出版社側はこの物書きとしての「対象の距離感」を尊重し、あえて編集で手を加えることを最小限にとどめ、「学術書」として世に出すことにした。もとのフェイスブックと同じ横書きである。
最期の二ヶ月近くの間に、この書以外にも自分の書いてきたものを中心に本にまとめることを決意、もう一冊は下北沢についてである。「執筆するならすぐ始めなさい」と主治医に背中を押されたという。
彼女は最近大学院にも通ったりしていた。ほんとうに勉強と書くことに憑かれた人だった。
ガンとの「共存」という言葉がよく出てくる。もともと編集者であった彼女は35歳で初めて大腸がんになってから、『病院からはなれて自由になる』など、ガンや終末治療(ターミナルケア)についての本を幾つか書いた。ガンと向き合うのは今度が三度目だった。
国際的なデザイナーとなった息子さんの挨拶は立派だった。夫の高橋氏のやさしさにも胸うたれた。小林教授の思いも熱かったが、歌の選曲はまあ時代だなあと思った。あの頃の、つまりこの世代の青春期のヒット曲は、よく聴くとけっこう男尊女卑だったりするのだな。
本に出てくる家族揃っての最後の夜桜見物も感動的だ。彼女は親族や関係者の愛に包まれ、より恵まれた治療環境に転じていく。がん患者としては治療については経済的にも環境的にも恵まれていたのではないかと感じる読者もいるかもしれない。だが「ターミナルケアの段階に入ったと自覚した瞬間には武者震いする」と正直に記すとおり、病魔は著者を確実に蝕んでゆく。
彼女が最後に入所し亡くなった診療所は私も知っているところで、かつて『スペースターミナルケア』という「緩和ケア」をテーマにした俳優座への書き下ろし戯曲を書く際、先生方にお世話になった。この診療所は別の時にも人づてに終末治療の環境に悩む人を紹介したりしたのだった。
あれやこれや思い出ばかりが巡る。
仕事の事情で時間が合わず、残念ながら中川安奈さんとのお別れの会には行けなかった。
高橋ユリカさんを偲ぶ会にはなんとか出られた(写真)。
彼女は下北沢という街の不毛な再開発に反対してどのような街づくりをするか考える先鋒に立っていた。「演劇の街」と言われることの多いこの街の未来について考える仲間であった。「小田急線上部利用の完成を見る」という彼女の目標は、生前には果たせなかった。
彼女はダム建設についての研究家でもあった。私は世田谷区長になる前の保坂展人氏と八ッ場ダムに行ったりしていた。彼女の紹介してくれた人脈と著書『川辺川ダムはいらない』をもとに私はダムについての劇『帰還』を書くことができた。恩人である。『帰還』が遺作になった大滝秀治さんも、大滝さんの最後の演技について熱く語っていた高倉健さんも亡くなった。
偲ぶ会で、まだ店頭に並ぶ前のユリカさんの著書『がん末期のログブック 患者になったジャーナリストが書き込んだ500日』(プリメド社)を初めて手にとり、この本を依頼されていた新聞の書評の対象とすることを決める。
本書は、書名と副題にあるように、ユリカさんが、がん治療・療養の様子をFacebookの特設枠に最期まで投稿し続けた内容をまとめた二年間にわたる闘病記録である。「落ち込んで、泣いて、怒って、凹んで、立ち直って、受容してゆく」、揺れ動くリアルタイムの病床からの壮絶な実況中継。だが時にたんたんと客観的に、他人事のようにも書いている。ネット文だから「顔文字」も多い。それをプリントアウトしたときの厚みは5センチ以上という。「書くこと」が病気と向き合い自分自身を支える装置だったのだろう。出版社側はこの物書きとしての「対象の距離感」を尊重し、あえて編集で手を加えることを最小限にとどめ、「学術書」として世に出すことにした。もとのフェイスブックと同じ横書きである。
最期の二ヶ月近くの間に、この書以外にも自分の書いてきたものを中心に本にまとめることを決意、もう一冊は下北沢についてである。「執筆するならすぐ始めなさい」と主治医に背中を押されたという。
彼女は最近大学院にも通ったりしていた。ほんとうに勉強と書くことに憑かれた人だった。
ガンとの「共存」という言葉がよく出てくる。もともと編集者であった彼女は35歳で初めて大腸がんになってから、『病院からはなれて自由になる』など、ガンや終末治療(ターミナルケア)についての本を幾つか書いた。ガンと向き合うのは今度が三度目だった。
国際的なデザイナーとなった息子さんの挨拶は立派だった。夫の高橋氏のやさしさにも胸うたれた。小林教授の思いも熱かったが、歌の選曲はまあ時代だなあと思った。あの頃の、つまりこの世代の青春期のヒット曲は、よく聴くとけっこう男尊女卑だったりするのだな。
本に出てくる家族揃っての最後の夜桜見物も感動的だ。彼女は親族や関係者の愛に包まれ、より恵まれた治療環境に転じていく。がん患者としては治療については経済的にも環境的にも恵まれていたのではないかと感じる読者もいるかもしれない。だが「ターミナルケアの段階に入ったと自覚した瞬間には武者震いする」と正直に記すとおり、病魔は著者を確実に蝕んでゆく。
彼女が最後に入所し亡くなった診療所は私も知っているところで、かつて『スペースターミナルケア』という「緩和ケア」をテーマにした俳優座への書き下ろし戯曲を書く際、先生方にお世話になった。この診療所は別の時にも人づてに終末治療の環境に悩む人を紹介したりしたのだった。
あれやこれや思い出ばかりが巡る。