沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設現場付近で、大阪府警の機動隊員が抗議活動をしている人に「土人」と発言した問題について、8日、鶴保庸介・沖縄北方相は参院内閣委員会で田村智子氏(共産)の質問に答え以下のように答えた。
人権問題調査会というのが自民党内にございまして、私はそこの事務局長を長らく務めさせていただきました。
人権問題に関しての議論を大変深く、そして広範にわたってこれまでしてきた経験上、人権問題であるかどうかについて、第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険なことでございます。
言論の自由はもちろんどなたにでもあり、状況的判断もある。人権問題の一番のポイントは、被害者、差別発言を受けた方の感情に寄り添うことだが、その感情に対して、どうして、誰が、どういう理由でこれが差別であると判断するかについては、大変、喧々諤々の議論があるところであります。
そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず、いまもまだ議論は続いているという認識をしているからこそ、私はそういう発言をさせていただきました。
その上で田村議員が「土人やシナ人という言葉は、差別的な侮蔑用語として使われてきた。それ以外に使われたことを聞いたことがない」「事の重大性を薄めるような発言をするのはいかがなものか」と問うと、鶴保大臣はこう答えた。
いま委員が奇しくもご発言なさった、土人という発言が差別以外の何物でないとおっしゃったけれども、それこそが申し訳ないけれども、私は判断できるものではないと思っています。
過去に土人という言葉がでてきた歴史的経緯など、様々な考え方があります。また、いま現在差別用語とされるものであったとしても、過去には流布していた事例も歴史的にはたくさんございます。
そういう意味におきましても、土人であるということが差別であるというふうには、私は個人的に断定はできませんと、このことを強調しておきたいと思います。
また、鶴保大臣は、山本太郎氏(自由)の質問に答え、以下のように述べた。
この問題が県民感情を損ねているかどうかについては「県民感情を損ねていると、私が断定するものではない。申し上げる立場にない。」
もはやいちいち批判する気もない。
既に記しているので、私の二つのブログを見てほしい。
http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/806e73f9036a6163c4f88223bef13d9a
こちらでは鶴保大臣の直後の発言に対応している。
http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/c6c49dbcbc1e6adc418c3c8524e27b5d
「土人」が示すものが「沖縄」ではなく、「基地反対運動」である、という逃げも、無駄である。
鶴保沖縄相は、「そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず」「判断できるものではない」というわけで、沖縄の人や基地反対運動の人をこれから「土人」と呼んでもなんら差し支えないのだろうから、そうすればいい。
できないだろうし、やってみればわかる。
さて。
この機動隊員の言葉を正確に再現すると、
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」
である。
「土人」に、終助詞の「が」が付いている。
辞書的に言えば、
ののしる気持ちを表す。名詞を受ける。使用例=「この大馬鹿ものめ―」
この「大馬鹿ものめ―」の例でわかるように、
終助詞の「が」が否定的な意味で使われる場合は、前に付いている語は、だいた侮蔑の対象者を否定的な意味で決めつけた語となる。
文章でただ「土人」と置かれたわけではない。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」
である。
この機動隊員は、侮蔑の意図を持って、決めつけの「差別語」として、「土人」という言葉を使った。
疑いなく、そうである。
相手をステレオタイプで片付ける場合の「が」が付いている。
「土人一般」「だいたい土人というものは」ということである。
これはきちんと「差別」が成立している。
別な言い方をしようか。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。鶴保庸介が」は、鶴保庸介個人への侮蔑を示す。
同時に、「鶴保庸介的なもの」「鶴保庸介という言葉」への差別を開始している。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」は、土人への侮蔑を示す。
同時に、「土人」の意味を知らなかったとしても、「土人」への差別を開始している。
百歩譲って「土人」という言葉に、ほんらいなら「差別」の意味をおびないケースがあるとしても、この文脈で「土人が」とすれば「その言葉を使って」侮蔑していることになるし、「土人」というコトバ自体が「差別」の対象になるような意味ではないとぎりぎりがんばってみても、だとしたら、だからこそ、そこに、「ほんらい差別を意味する言葉ではない言葉」を「あえて侮蔑に使った」ことから、「ステレオタイプの構造的決めつけを新たにそこで創出した」=「新たな差別を生みだした」ということになる。しかし今回のケースは、鶴保の言い分を額面通りとっても、この場合は、「ほんらい差別的であることは知っていて、差別的ではないかもという意味にもとれるように振る舞いながら、結局は新たな差別を生み出すような形もふくみながら、しっかりと二重に差別していること」になるように思う。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。沖縄が」は、沖縄差別である。少なくともそこで差別をし始めている。言葉を発した者が「沖縄」という言葉を新たに差別語にしたのである。
また、「土人」の示す意味が「沖縄」ではなく「基地反対運動」が対象だったとしても、その仕組みは成り立つ。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。基地反対運動が」は、基地反対運動差別である。少なくともそこで差別をし始めている。
もちろん「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」は、土人差別である。少なくともそこで差別をし始めている。
「基地反対運動」を「土人」と言い換えることは、上記の二つを重ねて、「新たなステレオタイプの創出」を果たしており、
本来は重ならない意味を重ねることで、より確実に「差別語」を作り上げているからである。
あなたが、「基地反対運動に加わり、支援する者」は、「土人」と呼んでも差し支えない、と考えたとしよう。
しかも侮蔑的に呼ぶのである。
ではなぜそこで「土人」という言葉を選んだのだ。
鶴保大臣は辞職すべきである。
※写真は、機動隊と一緒だと影が薄い、ALSOK君である。
以下は、11/18の政府閣議決定を受けて。
↓
「土人」は「差別」ではないのだそうだ。
政府がわざわざ閣議決定したのだという。
「事実の詳細が明らかでない」というが、じゅうぶん明らかになっている。だから私も分析した。
今回のケースの「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」が差別でないのだったら、もう、日本語の成り立ち自体が狂ってしまう。
この問題、このままではすまない。
↓
政府は18日、東村高江周辺の米軍ヘリパッド建設に反対する市民に対する大阪府警の機動隊員による「土人」との発言を、「差別と断じることはできない」とする鶴保庸介沖縄担当相について、「内閣として発言の取り下げや謝罪などを求めることおよび、速やかに罷免することは考えていない」との答弁書を閣議決定したという。
金田勝年法相も「差別意識に基づくものかどうかは、事実の詳細が明らかでない状況の中では答えを差し控えたい」と述べているという。
人権問題調査会というのが自民党内にございまして、私はそこの事務局長を長らく務めさせていただきました。
人権問題に関しての議論を大変深く、そして広範にわたってこれまでしてきた経験上、人権問題であるかどうかについて、第三者が一方的に決めつけるのは非常に危険なことでございます。
言論の自由はもちろんどなたにでもあり、状況的判断もある。人権問題の一番のポイントは、被害者、差別発言を受けた方の感情に寄り添うことだが、その感情に対して、どうして、誰が、どういう理由でこれが差別であると判断するかについては、大変、喧々諤々の議論があるところであります。
そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず、いまもまだ議論は続いているという認識をしているからこそ、私はそういう発言をさせていただきました。
その上で田村議員が「土人やシナ人という言葉は、差別的な侮蔑用語として使われてきた。それ以外に使われたことを聞いたことがない」「事の重大性を薄めるような発言をするのはいかがなものか」と問うと、鶴保大臣はこう答えた。
いま委員が奇しくもご発言なさった、土人という発言が差別以外の何物でないとおっしゃったけれども、それこそが申し訳ないけれども、私は判断できるものではないと思っています。
過去に土人という言葉がでてきた歴史的経緯など、様々な考え方があります。また、いま現在差別用語とされるものであったとしても、過去には流布していた事例も歴史的にはたくさんございます。
そういう意味におきましても、土人であるということが差別であるというふうには、私は個人的に断定はできませんと、このことを強調しておきたいと思います。
また、鶴保大臣は、山本太郎氏(自由)の質問に答え、以下のように述べた。
この問題が県民感情を損ねているかどうかについては「県民感情を損ねていると、私が断定するものではない。申し上げる立場にない。」
もはやいちいち批判する気もない。
既に記しているので、私の二つのブログを見てほしい。
http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/806e73f9036a6163c4f88223bef13d9a
こちらでは鶴保大臣の直後の発言に対応している。
http://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/c6c49dbcbc1e6adc418c3c8524e27b5d
「土人」が示すものが「沖縄」ではなく、「基地反対運動」である、という逃げも、無駄である。
鶴保沖縄相は、「そうした重い判断を、私個人が大臣という立場でこれは差別だと断じることは到底できず」「判断できるものではない」というわけで、沖縄の人や基地反対運動の人をこれから「土人」と呼んでもなんら差し支えないのだろうから、そうすればいい。
できないだろうし、やってみればわかる。
さて。
この機動隊員の言葉を正確に再現すると、
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」
である。
「土人」に、終助詞の「が」が付いている。
辞書的に言えば、
ののしる気持ちを表す。名詞を受ける。使用例=「この大馬鹿ものめ―」
この「大馬鹿ものめ―」の例でわかるように、
終助詞の「が」が否定的な意味で使われる場合は、前に付いている語は、だいた侮蔑の対象者を否定的な意味で決めつけた語となる。
文章でただ「土人」と置かれたわけではない。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」
である。
この機動隊員は、侮蔑の意図を持って、決めつけの「差別語」として、「土人」という言葉を使った。
疑いなく、そうである。
相手をステレオタイプで片付ける場合の「が」が付いている。
「土人一般」「だいたい土人というものは」ということである。
これはきちんと「差別」が成立している。
別な言い方をしようか。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。鶴保庸介が」は、鶴保庸介個人への侮蔑を示す。
同時に、「鶴保庸介的なもの」「鶴保庸介という言葉」への差別を開始している。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」は、土人への侮蔑を示す。
同時に、「土人」の意味を知らなかったとしても、「土人」への差別を開始している。
百歩譲って「土人」という言葉に、ほんらいなら「差別」の意味をおびないケースがあるとしても、この文脈で「土人が」とすれば「その言葉を使って」侮蔑していることになるし、「土人」というコトバ自体が「差別」の対象になるような意味ではないとぎりぎりがんばってみても、だとしたら、だからこそ、そこに、「ほんらい差別を意味する言葉ではない言葉」を「あえて侮蔑に使った」ことから、「ステレオタイプの構造的決めつけを新たにそこで創出した」=「新たな差別を生みだした」ということになる。しかし今回のケースは、鶴保の言い分を額面通りとっても、この場合は、「ほんらい差別的であることは知っていて、差別的ではないかもという意味にもとれるように振る舞いながら、結局は新たな差別を生み出すような形もふくみながら、しっかりと二重に差別していること」になるように思う。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。沖縄が」は、沖縄差別である。少なくともそこで差別をし始めている。言葉を発した者が「沖縄」という言葉を新たに差別語にしたのである。
また、「土人」の示す意味が「沖縄」ではなく「基地反対運動」が対象だったとしても、その仕組みは成り立つ。
「どこつかんどんじゃ、ぼけ。基地反対運動が」は、基地反対運動差別である。少なくともそこで差別をし始めている。
もちろん「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」は、土人差別である。少なくともそこで差別をし始めている。
「基地反対運動」を「土人」と言い換えることは、上記の二つを重ねて、「新たなステレオタイプの創出」を果たしており、
本来は重ならない意味を重ねることで、より確実に「差別語」を作り上げているからである。
あなたが、「基地反対運動に加わり、支援する者」は、「土人」と呼んでも差し支えない、と考えたとしよう。
しかも侮蔑的に呼ぶのである。
ではなぜそこで「土人」という言葉を選んだのだ。
鶴保大臣は辞職すべきである。
※写真は、機動隊と一緒だと影が薄い、ALSOK君である。
以下は、11/18の政府閣議決定を受けて。
↓
「土人」は「差別」ではないのだそうだ。
政府がわざわざ閣議決定したのだという。
「事実の詳細が明らかでない」というが、じゅうぶん明らかになっている。だから私も分析した。
今回のケースの「どこつかんどんじゃ、ぼけ。土人が」が差別でないのだったら、もう、日本語の成り立ち自体が狂ってしまう。
この問題、このままではすまない。
↓
政府は18日、東村高江周辺の米軍ヘリパッド建設に反対する市民に対する大阪府警の機動隊員による「土人」との発言を、「差別と断じることはできない」とする鶴保庸介沖縄担当相について、「内閣として発言の取り下げや謝罪などを求めることおよび、速やかに罷免することは考えていない」との答弁書を閣議決定したという。
金田勝年法相も「差別意識に基づくものかどうかは、事実の詳細が明らかでない状況の中では答えを差し控えたい」と述べているという。