「デジタルで見られるなら処分も」地下駐車場美術品で大阪府特別顧問、という記事が出た。
毎日新聞大阪によれば、大阪府所蔵の美術作品105点が咲洲庁舎地下駐車場に置かれている問題で、府は18日、専門家らで作る「アート作品活用・保全検討チーム」の初会合を同庁舎内で開き、吉村洋文知事は、会議の冒頭で「今月中に地下駐車場の作品の移転に着手する」と表明した。
チームは今後、他のものも含んだ府コレクションの活用や保全について協議しており、府側からコレクションの収集経緯や現在の保管・展示状況などについて説明を受けたという。委員からは「展示が単体でされているが、その作品の重要性や今日性を伝える文脈を作らないと、見づらいのではないか」といった指摘が出されたそうだ。
105点の大型作品については、上山信一・府特別顧問が「作品をどこまで持ち続けていけばいいのかという根本的な問題が出てくると思う」と述べ、売却なども含め検討することを提案。これに対し委員からは「持っている作品を処分するという考え方は、特に公立の美術館では適用が許されない」と、反対意見も出たという。
府はコレクションのデジタルミュージアム構想を進めていることから、上山特別顧問は「デジタルで見られる状況にしておけば、(立体作品の)物理的な部品は処分してもいいというのはありえると思う」とも述べたが、山梨、鷲田両氏は「裏付けとして現物を持っていることは必要だ」と指摘した。
以上。
手作りの、生のアート作品について、「デジタルで見られるなら処分も」というのは、まったく、何もわかっていないに等しい。
「ナショナル・シアター・ライブ」があるから、生の舞台は観なくていい、となるはずなど、ないではないか。複製の映像で観たからこそ、オリジナルを生で見たくなるのだ。
維新は、文楽に対する差別・無理解も酷かったが、演劇や舞台芸術のことを「映像で観ればいいからじっさいに上演する必要はない」と言っているに等しい。
生の上演が難しくなったコロナ期に、演劇関係者からも「リモート演劇、ネット演劇の可能性」を声高に言う者が出てきた。「リモート演劇」じたいが新たな完成形の演劇と錯覚している者まで、現れた。
たまたまそういう人たちのいるClubhouse(そんなものがあったことさえ今は忘れている)に出て、「リモートはあくまでも代替であり非常手段でしょう」と言うと、司会者の「リモートで新しいことがやれる」と自画自賛している演劇人に逆ギレされて、呆れたことがある。たぶんトークについて自分が持っていきたい方向性があったのだろうが、まったく人のハナシを聞かなくなっていた。もちろん、その人が今も「リモート演劇、ネット演劇」をやろうとしている気配は、皆無である。
何かの試みや遊びはできるだろうけど、リモートのものはそれが生の「演劇」でないからこそ、皮肉なことができたり、批評的に、ふだんやれないことをできる範囲があって、ということである。「演劇」ではないからこそ、できることなのである。それを「演劇」と言っても仕方ないのである。
大昔、「優れたインスタレーション」を「俳優が出て来ない演劇」と、あえて言ってみせるようなこともあったが、それは「批評」である。「俳優が出て来ない演劇」は、「俳優が出て来ない演劇」でしかないのである。
写真は、昨日の渋谷。コロナ期を誰もが忘れている。まあ、もちろん誰だって、リアルよりもリモートで誰かと呑みたいなんてはずはない。