Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

ハノイにいます

2016-05-08 | Weblog
ベトナムに来ている。三度目のハノイ。
江戸糸あやつり人形結城座×ベトナム青年劇場 日越国際協働制作公演『野鴨中毒』上演のためだ。
レ・カインさん、グエン・タイン・ビンさんとは、東京公演千秋楽から四十五日ぶりに顔を合わせて、稽古。今日で三日め。
いろいろ打ち合わせ、多々。ホームグラウンドにいて本領発揮の、ベトナム・スタッフたち。継続して一緒にできるのは素晴らしい。
舞台仕込みは明日から。
葬列シーンにはベトナムからの出演者もいるため、並行して、結城座の皆さんがその方々にまず人形の指導をしている。

劇場の表には、縦4メートル超の、大看板。他にも別なデザインの大看板あり。美術のトゥアン氏の仕事。

もちろん、暑い。凄い湿度。はるか北にあるハノイの方が南のホーチミンより夏期は暑いという、衝撃の事実。早く言ってよ。
なんとか乗りきっていきます。


『野鴨中毒』ハノイ公演詳細は以下の通り
………………

江戸糸あやつり人形結城座×ベトナム青年劇場
日越国際協働制作『野鴨中毒』

原作:イプセン
脚本・演出:坂手洋二
人形美術・衣裳:寺門孝之
音楽・生演奏:太田惠資
出演:十二代目結城孫三郎、レ・カイン、グエン・タイン・ビン(ベトナム青年劇場) ほか

舞台美術:島次郎
照明:齋藤茂男
音響:島猛
舞台監督:森下紀彦

<ベトナム青年劇場スタッフ>
Dang Minh Tuan(舞台美術・舞台監督)
Nguyen Anh Tuan(音響)

国境や文化の境界を越えて、結城座+坂手洋二がイプセン最高傑作『野鴨』に挑む!

日本の古典文化のひとつ「江戸糸あやつり人形」を継承する結城座と、ベトナム青年劇場との国際協働制作による人形芝居。12代目結城孫三郎はじめ人形遣いたちが寺門孝之デザインの人形をあやつり、ベトナムの国民的大女優であるレ・カインと競演します。演出に現代演劇の旗手・燐光群主宰の坂手洋二を迎え、アジアの芸術力を結集し、イプセンの戯曲『野鴨』を再構築していきます。様々な要素が融合した今まで見たこともない舞台にご期待ください。


○ハノイ公演 

於 : ベトナム青年劇場

5月13日(金)20:00開演
5月14日(土)20:00開演
5月15日(日)15:00開演


http://www.youkiza.jp/sp/vietnam/
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『楽屋』フェスティバル 「ヒノカサの虜」上演 取りやめのお知らせ

2016-05-07 | Weblog
〈『楽屋』フェスティバル〉は、本日、以下の文章を発表しました。残念ですがご理解下さい。
「ヒノカサの虜」さん以外の公演は予定通り行われます。

燐光群アトリエの会『楽屋』フェスティバル参加の「ヒノカサの虜」さんの公演が中止となりましたので、お知らせいたします。経緯につきましては、以下をご参照いただけますと幸いです。
通し券を購入された方々、チケットを予約されていた方々、楽しみにしていてくださった皆様、誠に申し訳ございません(通し券につきましては、払戻等の予定はございません)。どうかご理解の程、よろしくお願い申し上げます。

・・・

来週の5月9(月)10日(火)に予定しておりました『燐光群アトリエの会主催·楽屋フェスティバル「楽屋~流れゆくものはやがてなつかしき~」』の公演を、苦渋の判断ではございますが、取り止めることとなりました。
 
 実は今回、女優A役で出演を予定していた丸山夏未さんが、4月30日に交通事故にあってしまいました。元々腰を患っていたところへ、事故の衝撃で更に腰を痛めてしまうこととなり、今回は舞台に立つことが不可能となりました。
ヒノカサの虜としましては、本人並びにメンバーと相談し、燐光群さんと様々な可能性を慎重に協議した上で、やむを得ず本公演を中止することにいたしました。
既にご予約をいただいているお客様方には大変なご迷惑をお掛けしてしまい、また、ギリギリまで上演のための検討を重ねたために、この決定が間際となりましたことも、ヒノカサの虜一同また役者一同、心からお詫び申し上げます。

本公演を楽しみにお待ち戴いておりました多くのお客様、また楽屋フェスティバルの関係者の皆さま方には、多大なるご迷惑並びにご心配をお掛けし誠に申し訳ありません。

今後ともヒノカサの虜をよろしくご愛顧のほどお願いいたします。

ヒノカサの虜代表 本城雪那
hinokasanotoriko@yahoo.co.jp
08069635353

…………

写真は〈燐光群アトリエの会〉による上演より。
http://rinkogun.com
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『楽屋』フェスティバル あと五日!

2016-05-06 | Weblog
御陰様で好評開催中の〈『楽屋』フェスティバル〉も、あと五日となった。
今からでも観ることができるのは「おででこ」「Womb 45」「さんらん」「ママーズ」「ピクニックの恋人」「とろんぷ・るいゆ」「獣神」「燐光群アトリエの会(三バージョンあり)」です。このうち四本以上観れば確実に安あがりな〈通し券〉(1万円)も、まだ発売しています。

これまで誰も見たことのない作品に特化した〈フェスティバル〉、ぜひぜひお見逃しなく!

http://rinkogun.com/index.html

…………

燐光群アトリエの会
『楽屋』フェスティバル
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~
木冬社上演台本より
作○清水邦夫
2016年4月27日(水)~5月10日(火) 梅ヶ丘BOX
18団体による『楽屋』の競演!

清水邦夫作『楽屋 ~流れ去るものはやがてなつかしき~』
1977年に初演されて以来、日本で最も多く上演されてきたこの名作を、愛し寿ぐフェスティバルを開催します!
木冬社出身の南谷朝子さんの協力のもと、18団体が入れ替わり立ち替わり、次々と登場。
音響・照明・セット、ほぼ共通のステージング。
今回この企画に賛同し、数多くの魅力的な顔ぶれが集まりました。
14日間、計61ステージ。2時間おきの連続上演。
こんな演劇祭は、史上初です!
まさに百花繚乱。花咲き乱れるあまたの『楽屋』をお楽しみ下さい。
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三本琢雄による燐光群創始期のチラシ・ポスター絵

2016-05-05 | Weblog
燐光群旗揚げから5本めまでのポスターとチラシには、三本琢雄の手によるイラストが描かれていた。大きいポスター。大きいチラシだった。がさつでも大きさで目立とうとしたのだ。それがそのような意図として汲まれ、受け入れられた。そんな時代。三十年以上前なのだ。
どんなイラストが描かれていたかというと、1983年の旗揚げ公演『黄色犬』は犬、次の『処刑空港』は鳥(空港=飛行機=飛ぶ=鳥という連想だろう)、いずれも白地に黒。翌年の野外劇『オルレアンのうわさ』は耳(噂を聞くのは耳である)で単色だが濃いピンクにした、次の『ヌートリアズ・バトル』は、そのヌートリア(戦後流入して岡山によくいて、実際よく見かけ、身近ではカワウソネズミ、とも呼んでいた。毛皮というか襟巻きの素材にもなる)で、茶色。次が『蝶たちの獄』で、劇中にも登場する「国蝶」オオムラサキの絵で、紫だった。要は動物の絵のオンパレードだったことになる。私が生きものに凝っていたのだ。たぶん。蝶以外の生きものの絵は、どこか三本君に似ていた。凝るといえば、旗揚げから数本は舞台の床にベニヤやパンチカーペットのような「いかにも演劇用のもの」を見せないように覆い隠したりすることにも凝っていた。『黄色犬』は土、『処刑空港』は一面のタイヤの山、『オルレアンのうわさ』は〈空中野外劇〉と称してホンモノの屋上のコンクリート、『ヌートリアズ・バトル』は、一面の葉っぱ、『蝶たちの獄』はどうだったかといえば、刑務所の話なので殺伐としたコンクリートだった。再演でツアーした京都大学西部講堂では、もともと講堂の真ん中近くにあったコンクリートのタタキというかステージを自分たちでセメントを捏ねて拡大した。当時私は工務店のバイトをしていた。あの頃私たちは東京の劇団なのに西部講堂連絡協議会に加盟していたのだ。拡大されたコンクリステージは今でも西部講堂に残っている。

三本琢雄は私の高校の同級生で、もともとは硬式テニス部だったが、私と家が近く、自転車通学で連れ立って通学するようになり、やがて彼は硬式テニス部をやめて、私が所属していた陸上部と映画部に入ってきた。私が見込んでジャンプ競技を薦めたのは正解で、彼の脚のバネがすぐれていることは確かで、実際、ハイジャンプでは県大会でいい記録を出した。ちなみに、というか余談だが、岡山県では先輩に当たる岸田敏志さんがジャンプの記録保持者だったが、当時上京して歌手デビューしていた彼がテレビドラマの挿入歌にもなった「君の朝」の大ヒットで人気者になったのには驚いた。まあとにかく、私のオルグが功を奏したのか、他の体育系の部から陸上部にやって来た者は多い。人間関係がうまくいかないとか、レギュラーになれなかったとか、今ひとつ記録がぱっとしないとかの事情のありそうな者は、軒並み私に誘われて陸上部に入ってきたのだ。そしてまるでその組み合わせ入部が決まりであるかのように大半の者が同時に私が一年生の時から部長をしていた映画部にも入った。のどかな時代であった。陸上部はトラックかフィールドに別れ、それぞれの中にも幾つもの競技がある。皆がそれぞれ独自に勝手に自分の領域のことをしていた。競技会の時の雑然とした雑居は快かった。考えてみると一番「劇団」に近い運動部が、陸上部だったかもしれない。

三本くんとはいろいろなことを一緒にやった。通学の自転車だけでなく、陸上部だからというだけでもなく、よく一緒に走った。三村君らと淡路島にキャンプに行った。高校時代以降でキャンプに行ったのなんてあれだけだ。登校途中になんとなく顔を見合わせ、そのまま学校をサボったこともよくあった。通学路はまわりは田んぼばかりで何もなかった。ときどき学校に行くのが虚しくなるのだ。よく話もしたし、長い時間を黙っていても互いに平気だった。何しろ田舎なので自然の中にいた。川沿いによくいた気がする。川を下っていくと、海に出るのだ。……映画部で私たちが初めて作った映画では、三本君が食い逃げする若者で、やはりバスケット部から、陸上部と映画部に来た森君がそれを追いかけ、とにかく登場人物が全篇走っていて、最後は海に入っていくのである。生徒会に掛け合って野球部と映画部の部費の著しい格差を糾弾し、映画部の予算を十倍にしてもらって創った映画だ。実際、生徒の持ち出しは1円もなかったのである。この時対応してくれた生徒会長が国塩恭で、彼は燐光群の旗揚げに加わり、その後ウィーンで会社を作り、ヨーロッパで活躍するようになるのである。

三本くんは絵が好きで、特に彫刻に目標を定め、大学は芸術学部に進んだ。1984年夏、かつてのバウスシアターの屋上で上演した『オルレアンのうわさ』では三本君にその技能を生かした等身大の人形を作ってもらった。30年以上前だが野外劇であるための雨対策だったためだったか本人のやってみたい気持ちからだったか忘れたが、最終的にFRP製になった。男の人形はヒッチコックのように腹が出ている造形だった。西洋人のニュアンスを表現しようとしたのだろう。女の人形は出演していた河上真理に似せたはずだがあまり似ていなかった。そういうものだ。三本君の想像力が勝ったのだ。『オルレアンのうわさ』は猪熊恒和の舞台デビュー作でもある。

その後三本くんは、たまには芝居も観てくれたが次第に疎遠になり、ごく希にしか会わなくなったが、こちらにもいつでも会えるという油断があったのだと思う。
彼がここしばらく体調を崩し、会社を辞め、酒を多く摂取する状態にあったことは、ちゃんと耳に入ってこなかった。葬儀は家族だけでと聞かされた。

とにかく、高校を出たあとの八十年代以降の彼とのつきあいは、彼が劇団に提供してくれた絵と人形に集約される。当時は、ばかでかいチラシ・ボスター、三本くんのイラストと、極端に太いゴナUイタリックの文字遣いを決めた。毎回それを踏襲し、宣材の印象を連続性で強めようとしたのだ。印刷は私が家庭教師をしていた先の親父さんの経営する神田の印刷会社にお願いし、私自身も版下を切り貼りして作った。「電算写植」という言葉が流通していた時代だが、経費を惜しんで、もっと安い旧版の字体を選んだ。

三本君は練習中のみならずふだんから水を飲まないようにしていた。運動選手にとって「給水」が大切とかいうことよりも精神論やフィーリングが勝っていた。そういう時代だった。
居酒屋もない田舎だしお金もない十代である、ひそかに彼も含め何人かで夜中の神社に集ってだべっていたこともあったが、彼はほんの少しのビールでも御機嫌になった。
仕草や身体の動きに特徴があって、それは今も思い出せる。
独特の声。口癖は「けなりいのう」だった。「けなりい」は岡山独自の言葉だろう。さいきん中津留章仁君から「大分での『よだきい』という感情」について何度か聞いたが、岡山では「けなりい」なのだ。とはいえ三本君は中学まで転校を繰り返して育ったはずだから、岡山弁のネイティヴではないのである。
思い出すのははにかんだような笑顔だ。あれは笑顔であると同時に、彼なりに世間との緊張関係を吸収する装置だった。

さようならとは言いたくない。そんなに遠くにいるような気がしないからだ。
八十年代のことを考える機会が増えている。『カムアウト』があったせいもあるが、三本くんとの別れがそのことに拍車をかけた。
別れと出会い直しは、紙一重だ。


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四月から五月へ

2016-05-04 | Weblog
気がついたら5月になっている。
『楽屋』フェスティバルも折り返し点に来た。劇団員もみんな総出でがんばっている。
『野鴨中毒』のベトナムツアーへの出発も間近だ。いろいろ変更事項がありたいへんだ。
4月はあっという間に過ぎたが、5月も早いだろう。

4月は多くの方が亡くなった月だった。
佳梯かこさんの訃報は小堀純さんから聞いたが、鄭義信さんになかなか連絡がつかないからと頼まれ、鄭さんに電話で伝えた。鄭さんとかこさんは誰もが認める同志、という感じだった。
先週は叔父が亡くなった。身体の悪いところは何もなかっただけに、本当に思いがけない不慮の事態だった。実感が湧かない。その他、家族・親戚の中でもいろいろな出来事が起きた月だった。

写真は自転車の駐輪場のツツジ。
この植え込みがいつも邪魔だと思っていたが、こうして咲くとありがたいと思う。種類はなんだろう。サツキツツジではなさそうだ。
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大分のマスコットは高崎山自然動物園の猿のシャーロット

2016-05-03 | Weblog
九州・大分を、ゆえあって訪問。
大分も地震被害に遭遇。ニュース映像にあったように湯布院駅舎のガラスが割れたりの他に、石垣が崩れたり、あからさまな傷跡もあるようだが、街は落ち着きを取り戻し、避難所はほぼ撤収を終えたという。
さて、佐藤樹一郎市長にいただいた名刺には、「高崎山自然動物園の猿のシャーロット」の写真が!
大分市の公認マスコットは、「高崎山自然動物園の猿のシャーロット」なのだ。
シャーロットの絵はがきセットも売られている。

大分市の高崎山自然動物園は、1500頭以上が生息するニホンザルの楽園。檻の中で飼育しているのではなく、高崎山にいる野生のサルを餌付けしている。
昨年3月、高崎山に可愛いメスザルが誕生。その年の初子ということもあり、動物園は赤ちゃんザルの名前を公募。「カタカナで2文字以上5文字以内の名前」「この1年で話題になった言葉や出来事にちなんだ名前」という条件つきで募集した結果、5月6日、「シャーロット」という名前に決定。
しかし、その名前が5月2日に英国で誕生した英王室のウィリアム王子とキャサリン妃の長女シャーロット王女と同じだったため、「撤回してほしい」と日本中から非難が集中。一時は撤回を表明するも、英国王室広報が「気にしません」とアナウンスした結果、当初のシャーロットに落ち着いているという。
動物に王室にちなんだ名前をつけることの是非はともかく、「権威」を気にしすぎる、当事者以外がつまらぬ茶々を入れる、日本らしいエピソードではある。
シャーロットは2つの派閥に別れたサルたちの抗争に巻き込まれたりしながら、すくすくと成長、サルの人気投票「選抜総選挙」でも堂々の一位になったという。

撤回騒ぎのためにかえって有名になったわけだが、熊本の「くまモン」といい、シャーロットといい、こうしたマスコットの存在は、人の心を和ませる。
熊本でない地域の人にも「くまモン」は人気がある。全国各地に地域にちなんだ「ゆるキャラ」が多数存在する日本は、諸外国から見れば、奇異であるとか、子供っぽい印象もあるようだが、有事に於いて確実に役に立ったわけである。

別な案件で、ある「ロゴ」の創案、選定に関わっている。できて定着してしまえば「あって当たり前」になる「ロゴ」だが、何ごとにも「はじまり」の段階はある。時流や初見の印象に惑わされず、皆に受け入れられることを考えるべきなのだろう。
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