黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その4(大胡氏時代の大胡城・大胡神社)

2022-10-27 15:23:52 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を北に出ます。

高縄の摩崖仏裏から、摩崖仏に行こうとしました。

あれえ、以前より参道を塞ぐ機材が増えてます

参道は、ちょっと通れません

ここのところ、また参道が塞がれていました。

今朝は、さらにパワーップです

摩崖仏のパワー、完全になくなっています

哀れな哀れな、桐生市指定重要文化財・高縄の摩崖仏です

 

ひめちゃんは、黄色い帽子の集団に気づきました

急いで岩神沼に避難です。

だーれもいないのは寂しいね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

大胡氏時代の大胡城は、現在の大胡神社のあたりだということです。

縄張り図の近戸出丸に、大胡神社はあります。

大胡神社も、『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

(2020年11月20日)近戸出丸の坂道を上り回り込んで、神社の駐車場に到着です。

 

 

紅葉のいい雰囲気です

ひとまず、一の鳥居まで階段を降ります。

階段の脇には、大きく大胡神社とあります。

ウィキペディアによれば、

大胡城の守りとして城の北側に位置する。明治中期まで近戸神社(ちかとじんじゃ)と称したが、明治中期に近隣の神社を統合して現在の形となった。

 

近戸神社があったので、近戸曲輪(近戸郭、近戸出丸)なのですね。

近戸の意味はよく分かりませんけど、「霊山赤城山への入り口」の意味という説もあります。

神社の脇を走る県道16号線を登ると、三夜沢(みよさわ)赤城神社に行き着き、更につづら折りの山道を登ると、赤城小沼に着きます。

最近、三夜沢赤城神社の脇を登り、県道16号線で赤城小沼に行ってきました。

 

崩壊危険区域の表示です。

主要地方道大胡赤城線が県道16号線です。

 

 

石の鳥居をくぐり、階段を登ります。

思ったほど大変ではありませんでした。

日頃ひめちゃんたちと歩いているおかげでしょう

手すりがあるのも有り難いです

 

 

二の鳥居は、白木の鳥居です。

左右の狛犬は、ちょっと個性的です。

 

 

一の鳥居を見下ろします。

秋の景色ですね

 

 

二の鳥居をくぐると、説明板があります。

ムクロジの樹齢300年以上の巨木があるのですね。

神社の由緒等の説明はないようです。

 

 

拝殿で、2礼2拍1礼です

さて、どれがムクロジでしょう?

注連縄(しめなわ)がある木があります。

これかな

 

見上げると、巨大です。

黄葉の大胡神社です

 

隣の紅葉と銀杏もコラボして、紅葉真っ盛りです

 

 

さて、本殿を確認です。

彫刻のあるりっぱな社殿です

 

 

本殿後ろの石宮も確認です。

たくさんの神様が合祀されています。

 

大胡氏時代の大胡城はここで、大胡氏の館跡は養林寺だということです。

深く浄土宗に帰依した大胡氏の記憶です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

 

そして、ここは赤城の神々の住む赤城山への入り口、近戸神社だったのです

 

 

(大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて 終)

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その3(晩秋のひまわりが似合う寺・金蔵院)

2022-10-23 19:18:13 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

昨日は朝から、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お出かけスタンバイです

「どこかへ行こうよ

でも、ひめちゃんは対人恐怖症の一面もあります。

最近はだいぶ良くなってきましたけど。

「じゃあ、膳八幡神社の隣のサザンカ園に行こう。朝散歩で歩いて、近くまで何度も行ってるし。」

 

車に乗ると、過呼吸になり落ち着かないひめちゃんです

サザンカ園に着いても落ち着きません

早咲きのサザンカがきれいです

 

ついでだから、八幡神社にも寄っていきましょう

八幡神社に着くころには、落ち着いてニッコリひめちゃんになれました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

大胡氏館跡の養林寺の北に、金蔵院(こんぞういん)があります。

金蔵院は、

明治以前は金胎寺といい、元亀年間(1570~1573)に祐慶上人が開山した。明治42年(1909)に大胡城内にあった玉蔵院や江木町にあった西方寺を合併し、寺号を金蔵寺と改めた

ということです。

 

大胡氏とは直接の関係はなさそうですけど、なにせ館跡のすぐ北、十分行動範囲です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねての一編です

(訪問は、2020年11月です。)

 

 

入り口がわからずウロウロしましたけど、脇から到着です。

駐車場の隅にひまわりが咲いています

気になるけど、後回しにしましょう。

 

どっしりとした山門です。

 

山門左に見える鐘楼堂も、同じようにどっしりと見えます。

 

山門をくぐると、大きな紅葉の木です。

 

全体に新しい雰囲気ですけど、六地蔵は古そうです。

落ち着いていい雰囲気です

 

山門を振り返ります。

桜の季節は、絵になりそうな雰囲気です

 

本堂で参拝です。

扉は堅く閉ざされていますけど、合掌

現代風の耐火建築ですね。

 

本堂脇には多くの石造物です。

赤城山も見えます

 

御朱印は桜の季節にでも、再訪したときにお願いしてみましょう。

人の気配のない、静謐な世界です。

 

鐘楼堂脇の銀杏の黄色も、一番きれいな時期だったようです

 

もう一つ気になる黄色がありました。

山門を出て、晩秋のひまわりに逢いに行きます

晩秋のひまわりが似合う寺です

 

さて、桜の咲いていない桜並木が通れそうです

こちらから出てみましょう。

 

門柱を出て信号を左折し、少しいくと、大胡城・近戸曲輪(郭)だったという大胡神社です

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その2(浄土宗・養林寺)

2022-10-18 16:02:33 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに岩神沼に到着です。

水は少し濁ってます。

逆さ赤城も映ってません。

水鳥の姿はありません。

みんな、どうしちゃったんだろう?

 

あれ、黄色い帽子の集団がやってくる

通過待ちで、ここからUターンです。

昨日いっぱい歩いたから、今朝はここで帰ります

 

マリーゴールドの道を帰ります。

 

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

大胡城の西に位置する浄土宗の養林寺は、大胡氏館跡と言われます。

(『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会1988)

先に訪問した長善寺の、ちょっと東になります。

 

山門から、参拝です。

(訪問は2020年11月です。)

大胡城→の表示があります。

 

山門脇に、説明板と石造物です。

この青面金剛がひときわ目立ちます

三面六臂ですね。

ちょっと古風かな?

この辺りが、大胡氏館跡の堀の名残とか

 

説明板を確認です。

「大胡太郎実秀が法然上人に帰依し、草庵を立て念仏修行をした。」とあります。

「天正18年、大胡太郎の旧跡であることを聞いた牧野康成が鷹林寺を創建した。」ともあります。

 

 

赤い目立つ山門です。

でも、もしかしたらかやぶきの屋根をトタンで保護してるのかな?

かやぶき屋根が似合う山門です。

 

 

さて、山門をくぐって本堂に向かいます。

ゴテゴテしていない、素朴ないい雰囲気です

ガラス戸の前で合掌

 

庫裏を尋ねて、御朱印をお願いします。

ご住職がお留守と言うことで、御朱印は又の機会にお預けになりました。

 

 

駐車場に向かう途中、大きな楠木です。

樹齢の記載はありませんけど、人々の興亡を見てきたのでしょう。

お疲れ様

 

ウィキペディア「大胡氏」によると、

大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。『法然上人行状絵図』によると、大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依したという。隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在する。これは浄土宗の基本文献でもある。また、金沢文庫所蔵の「念仏往生伝」第46によると、大胡小四郎秀村な念仏修行を篤く行い、正元元年(1259年)死去の5年前に仏が夢に現れたと伝えている。

 

最初に法然に帰依したのは大胡小四郎隆義で、子の太郎実秀も帰依し、隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っていたんですか

法然からの返答が「大胡消息」として存在するんですか

そうすると、『念仏往生伝」』出てくる大胡小四郎秀村は、孫と思われます

そして、彼は法然からの返事を亀鏡として大切にしていたのです

大胡氏は、小四郎隆義、太郎実秀、小四郎秀村と三代にわたり、深く浄土宗に帰依していたのです

 

(つづく)

 

 

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その1(大胡太郎の墓石)

2022-10-14 21:39:38 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今日、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、シャンプーやさん(ペット美容室)に行ってきました。

夕方、「ケンくんが来よ。」というお父さんの声に、ひめちゃんは大急ぎで裏の道に出ます。

でも、やって来たのは、ふたばちゃんでした。

「アタチの方が強いのよ

「何言ってんのよ

楽しく、いがみ合いました。

バイバイ、又ね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

『念仏往生伝』は、第卅八・比丘尼青蓮のあと第四十五・遠江国禅勝坊まで、しばらく欠落です。

遠江国はちょっと遠いです。

機会があれば、訪問したいけれど、ちょっと無理かな

でも、禅勝さんは行仙さんと深い係わりがあったようです

行仙さんは禅勝さんの弟子という説もあります。

いずれにしても、行仙さんは関東に下る時、東海道を下って遠江国を通過してきたようです

 

第46話は、大胡小四郎秀村です。

大胡は、車で15分から20分くらい、10km以下の行動半径内です

 

第四十六 上野国大胡小四郎秀村

大胡太郎孫子也。是人又以源上人消息亀鏡。一向念仏。昼夜不懈。或時夢想云。従四方大蓮花飛来。人答(告)云 。明日午剋得往生云々。以夢状語鎌倉南無坊。々々々合夢云。四十以後。可遂往生云々。夢後五年。生年四十二歳。十月之比。脚気更発。同五日丑剋。向空含咲。知識問云。何見境界。答云。仏来迎。其体如瑠璃。内外明暎也。 又聞音楽。勝人間楽之事。非其語之所及。其後十念七ヶ度。最後念仏。与仏字同息止了。于時正元々年<己未>


 

「大胡太郎孫子也」、大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

 

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です。

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします。

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれています。

 

中世の大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手には、水子地蔵の隣が気になります。

凝灰岩石仏?

なんよなく建長石仏のイメージです

 

線香立て付きの石殿です

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

 

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

(つづく)

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比丘尼青蓮の面影を訪ねて・その2(岩松山青蓮寺)

2022-10-12 20:32:13 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今日、タバサねーちゃんは、みどり市笠懸町吹上地区のひまわり畑に行ってきました。

ミツバチがいます。

妻沼小島のひまわり畑では、ほとんど見かけませんでした。

あたり一面のひまわりです。

イベントチラシでは、「20万本のひまわり」といってます。

楽しゅうございました

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

比丘尼青蓮の記憶を訪ねた記事は、続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ (goo.ne.jp)にあります。

ちょっと遠いカテゴリー(?)になりますけど、ご容赦下さいませ

 

 

9月15日、わが故郷・新田(旧新田郡尾島町)に出かけました。

青蓮寺にも、立ち寄ります。

古いながらも、しっかりした案内板です。

ただ国道354号線は格下げになって、県道142号線です。

地元のはずだけど、まだ行ったことのない所があります

そのうちに行かなくては

 

懐かしい風景です

でも、いちだんと古めかしくなってます。

 

日限地蔵尊霊場ですか

後ろに見えるあの方でしょうか?

合掌

 

懐かしい楼門です

昔、尾島中学校は、この寺のすぐ西にありました

和尚さんも、国語の先生として勤務されていました

仁王様いちだんと劣化が進んでいるようです

 

天井画がある

天女がいる

 

楼門の裏の方が劣化がウチバなようです。

 

さて、本堂に参拝です。

合掌

 

日限地蔵尊の説明もあります。

多くの人が訪れた時期もあったのです。

 

本堂の奥は庫裏かな?

自転車があります

以前来た時も、自転車でした。

奥から老人が出てきます。

「こんにちは

「何かようですか?」

「ここは御朱印でますか?」

「御朱印はやらないんだ。」

「そうですか。あのう、ここに昔K先生という方が居ませんでしたか?」

 

反応はなく、彼は草むしりを始めました。

あのときの先生は、ご存命ならば90過ぎかな?

和尚さんはちょっと若いかな

でも、自転車しか乗らない世代のようだし

 

「お邪魔しました。」

やむなく退却です

 

『念仏往生伝』に記された比丘尼青蓮、彼女は上野国のどこで生まれたか書いてありません。

武蔵国の何処に嫁いだかもわかりません。

でもここは武蔵国に近い上野国新田荘の青蓮寺です。

 

 

『念仏往生伝』 第卅八話 比丘尼青蓮 (びくにしょうれん)の確認です。
□は欠字です。

第卅八  比丘尼青蓮
□者上野住人也。後付夫縁。住武蔵国 。世□之隙。常読誦法花経。既満一千部了。夫夭亡後出家。其後五十九歳。自此以後。依善知識勧。一向称名。至七十三齢。夜見光明如日輪。自南方来照。其頂属疑□処。空有声□云。摂取光明。不簡所処云々。其後堅信心。然□不語外人。七十七歳之夏。五月之比始。語舎弟僧并子息尼。従同八月廿八日。老病□催。至九月七日。所悩平癒。粗得尋常。沐浴潔斎。語知識云。仏既来迎。僧問。仏在何方乎。病人指々空。又戌時四方有光明云々。或□指取数。或合掌□額念仏。至八日□時。自起居。取五色糸唱名号。毎声作礼。即十念十礼也。其後念仏三十返。如眠気止。于時建長三年九月八日。

あらすじです。

やがて比丘尼青蓮となる彼女は、上野国の住人でした。
結婚して武蔵国に住みました。

ひまを見付けては、法花経(法華経)を、声に出して読んでいました。
もうそれは一千部にもなりました。

夫が若くして亡くなり、その後出家しました。

その後59歳で、これから以降は善知識のすすめにより、ひたすら称名(しょうみょう)を続けました。

念仏一筋に生きてきた青蓮さんは、73歳になりました。

73歳のある日、光明が太陽のように、南方からやって来て彼女を照らしました。
その頂に何か付いていて、何だろうと思っていると、空から声がしました。
光明を摂取せよ、所に依って区別するな。(全身で受け取れの意?)
彼女はその後ますます信心に努め、この事は人には語りませんでした。

そして4年後、彼女は77歳になります。

比丘尼青蓮は、77歳の夏、初めてこの事を弟の僧と娘の尼に語りました。

そして8月28日から病気になりました。

そして9月7日です。

病気はほぼ良くなりました。
沐浴潔斎し、善知識(導いてくれる僧)に言いました。
「仏が、已に私を迎えに来ています。」
僧は聞きました。
「仏は、どちらにいらっしゃいますか?」
病人は空を指さしました。
また、戌の時(午後8時頃)四方に光明が来ていると指さし、合掌し念仏を唱えました。

8日の□時、自ら起き出して、五色の糸を取り、仏の名を唱え、唱えるたびに仏に礼をしました。
つまり、死に臨んでの念仏10回と礼10回です。
その後も念仏30回唱えました。
眠るように、彼女の息は止まりました。
時に、建長3年(1251)年9月8日の事でした。

 


青蓮は、仏教では大事なアイテムのようです。
けれども、実際に青い蓮の花は、存在しないようです。
インドで10本まとめて、寺院の参拝客に売っている蓮の花(つぼみ)は、どうも違う蓮のようです。
何度か、蓮の花を売っている光景を目にしたはずですけど、写真がありません(´・_・`)
日本のお寺も多くが、蓮池があったり、大きな鉢で蓮を栽培しています。

阿弥陀仏の手から渡した五色の糸を自分の手に握って死んでいくのは、現存『念仏往生伝』では、ここだけです
このシーンは、永井路子の小説『この世をば』に、藤原道長の臨終シーンにも描かれていました

比丘尼青蓮の臨終について詳しく書いてあるのに、彼女の素性については、簡単な記述に留まってます。
もしかしたら、行仙上人の身近に居た人かもしれません





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