黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

善・山上之事の謎(改訂版)

2024-07-03 20:09:43 | 山上保の物語・総集編

暑い一日でした

夕方のお散歩は、6時過ぎにやっと始めました

 

善さんが討ち死にしたという暗闇沢、その供養塔という五輪等群の写真を探していて見つけた、元気なひめちゃん家族です

お昼に、サツマイモ入りご飯を食べる獅子くんです

獅子くん、サツマイモも大好きだったね

 

 

 

由良文書「善・山上之事」をじっくり読んでみて、いくつかの謎を感じます
まず前半、由良成繁の曾祖父・横瀬成繁の時代の話です


根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、

管領馬廻衆とありますが、馬廻衆とは親衛隊のようなものだから、いつも管領様の近くにいなければなりませんね。

名目だけかな?

ほかにも馬廻衆がいそうだけど

なぜいつも善・山上とセットなのでしょう
普通に考えれば、兄弟のように近い親戚かな


南北朝期に、葛塚を領していた太田さんは、鎌倉幕府の実務官僚・三善氏の一族でした
三善が善になったのだとよく言われますが、太田さんが善に住んで善さんになったのでしょう

勢多郡粕川村の『粕川村誌』にも、善さんの記録はほとんどありません


太田さんがやって来た時、「おらっちは古りーウチなんだから」と言うことを聞かない一族(遺乱の輩)がいました
太田さんは、この違乱の輩を吸収合併してしまったのだと思われます
よくある手で、嫁や婿・養子を送り込むのです
古い山上の名字は残しておく方が都合が良かったのです

佐野大炊助先祖周防守と永禄10年(1567)にこの文書で言ってますから、(桐生)佐野氏の永禄10年の当主は佐野大炊助です。

この佐野大炊助の先祖周防守に、善さん山上さんは、元々居た山上の地を逐われたのです。
善さん山上さんは、五十子(いかっこ)にに3年間滞在し、由良さんがさらに奥沢と名付けられた地で戦い勝利してから、3年間番兵をおいて守らせ安心して名字の地に帰ることが出来ました。
えェ、合計6年じゃん
6年経って帰ってきた善さん山上さんを、人々は歓迎したでしょうか
五十子の陣は長禄3年(1451)に築かれ、文明9年(1479)に長尾景春の乱で攻撃されて焼亡します。
善さん山上さんは、長禄3年(1451)から文明9年(1479)の間のある時期に6年、五十子にいた事になります。
五十子の陣約20年の歴史の3分の1、いたのです


横瀬成繁は葛塚を取り返し、さらに奥沢と名付けられた土地で佐野周防守を破って3年間番兵を置いて守らせてから、善さん・山上さんを名字の地に還したという事ですが、ここで問題があります。

このころ彼は、まだ岩松氏の被官にすぎなかったはずだし?

ひ孫の由良成繁には少し昔の話です
勘違いとか、記憶が違いがなきにしもあらずです
また、意図的な創作も完全否定は出来ないでしょう
ここまでは、ちょっと検討の余地有りの記述です

先に見た赤堀文書「赤堀上野介宛上杉顕定書状」は、長享2年(1488)ですから、善さん山上さんは善・山上に帰っているはずです。
でも、佐野周防守を撃退した主力ではありませんでした
赤堀さんの応援がなければ、また逐われたかもしれなかったのです


それにしても佐野周防守、よく葛塚にやって来ますよね
佐野周防守が善さん山上さんを追い出した時は、奥沢にはいかなかったのでしょうか?
横瀬成繁は葛塚を取り返して、さらに奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)で戦い勝利を得るのです。


奥沢ではなく、奥沢と号する地(奥沢と名付けられた地)という表現がとても気になります
奥沢は早川の水源です
水がわき出る環境が注目され、命名されたかもしれません
戦いの場所ははどこか分かりませんが、寺や石造物のある所は可能性がありそうです

 

後半です。


以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯  


この部分の出来事は、ほぼその通りだと思います。
永禄10年(1567)、佐野に行く上杉謙信を裏切って善さん・山上さんは北条氏邦の所に駆け込みました
北条方になったはずです
ところが、元亀3年(1572)、下野小俣城(おまたじょう)の戦いで善城主善宗次は暗闇沢(くらみざわ)で討死します

 

暗闇沢は「くらみざわ」と読むんだそうです。

 

現地のおばさんに教わりました。
暗闇沢の西、桐生川の東にも桐生市があるのです

(かつては下野国だったようですけど



北条方の渋川義勝が小田原にいっている留守を狙っての攻撃でした。
善宗次の案内で暗闇沢から攻めのぼった上杉軍は、折からの暴風の中、城から落とした大岩や丸太の下敷きになって甚大な被害を受けました
この戦で、善宗次とその家中は討ち死にしたといいます


その供養塔という五輪等群が、暗闇沢の東南にある米沢薬師(足利市小俣町)にあります


住宅街の路地を入ったところにあり、ちょっと見つけにくいです。


道を教えてくれた地元のおじさんの話によると、かつては縁日には賑わったそうです
坊さんは、鶏足寺から来ていたそうです


このお堂の右手にある五輪塔群がそうです。




善さん山上さんは、永禄10年(1567)に、北条氏邦のところに駆け込んで北条方になったはずでした。
いつ心変わりしたのでしょう?
もちろんいつもセットの山上さんも一緒に心変わりしたはずです。
ところが、この時、山上さんについては何も語られません
山上さんはどうしたのでしょう?
今までの経緯から考えれば、当然運命を共にしているはずです。

老談記の類では、山上道及や山上氏秀などの活躍が語られます。

でも、これまでの経緯からすれば、善・山上は常にセットです

単独行動はあり得ないのです

 

上野国・山上(こうずけのくにやまがみ)が、人々にロマンを抱かせる地で、江戸時代になって、善さんが忘れられて、山上氏が物語の中でひとり活躍するようになったのでしょう。

今でも、全国から山上さんが父祖の地として訪ねてくるそうです

 

善氏・山上氏はセットのです

 

 

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由良成繁事書案(善・山上之事)・ひめちゃんち流読み下しと現代語訳

2024-06-28 09:25:29 | 山上保の物語・総集編

雨の朝です

ひめちゃんtタバサねーちゃんは、一日中おうち犬の予定です。

 

横瀬泰繁開基という龍得寺(太田市新田上江田町)の写真を探していたら、元気なひめちゃんと獅子丸の姿があります(2021年6月)

 

元気なヤギさん家族の写真もありました。

2人で、東の牧場のヤギさん家族に会いに行っていたんだね

 

 

 

善・山上之事、ひめちゃんち流で、全体の読みを確認して、現代語訳も確認です

 

由良成繁事書案
(端裏書カ)

善・山上之事書 中山被成之

善・山上之事

根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯              
(『群馬県史資料編7』より)

 

 

由良成繁事書案、「ひめちゃんち流読み下し」です

由良成繁事書案
(端裏書か)善・山上之事書 中山被成之(ちゅうざんこれをなさる)

根本は管領馬廻衆に候(こんぽんはかんれいうままわりしゅうにそうろう)

公方・管領御分目の剋くぼうかんれいおんわけめのみぎり)

管領方御うちは之時節(かんれいがたおんうちわのじせつ)

佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜(さのおおいのすけせんぞすおうのかみにざいしょをおしぬかれ)

三ヶ年五十子に致在陣(さんかねんいかっこにざいじんいたし)

還住之儀(かんじゅうのぎ)、雖致侘言候(わびごといたしそうろうといえども)

武蔵面依無御手透(むさしおもておんてすきなきにより)

拙者曾祖父信濃守成繁ニ(せっしゃそうそふしなののかみなりしげに)

彼両人ニ合力在所於令還(かのりょうにんにごうりきしざいしょにかえらしめば)

末代為同心之由(まつだいどうしんとなすのよし)

依被仰出(おおせいださるにより)

葛塚地お取立三ヶ年差置番手(くずづかのちをとりたてさんかねんばんてをさしおき)

剰於号奥沢地(あまつさえおくざわとごうするちにおいて)

佐野周防守与遂一戦得勝利後(さのすおうのかみといっせんをとげしょうりをえしのち)

両名字心易在所被致本意(りょうみょうじこころやすくざいしょにほいいたされ)

以来曾祖父信濃守(いらいそうそふしなののかみ)

祖父左衛門佐景繁(そふさえもんのすけかげしげ)

亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処(ぼうふしなののかみやすしげまでさんだいつつがなくつかまつりきそうろうところ)

天文十年辛丑年秋(てんぶん10ねんかのとうしのとしあき)

庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談(こばなわのりかた・なわぎょうぶたいふむねとし・うまやばしけんちゅう・なりたしもうさのかみ・さのすおうのかみかたがたあいだんし)

亡父へ取懸候剋(ぼうふへとりかけそうろうみぎり)

厩橋へ致心替候(うまやばしへこころがわりいたしそうろう)

以来離手候処(いらいてをはなれそうろうところ)

去庚申年属本意候(さんぬるこうしんのとしほいにぞくしそうろう)

然処北条厩橋旧同心由申致欤(しかるところきたじょううまやばしきゅうどうしんのよしもうしいたししか)

厩橋之事(うまやばしのこと)輝虎世ニも(てるとらよにも)

初者河田豊前守給置候(はじめはかわだぶぜんのかみおきたまいそうろう)

其以後喜多条丹後給置候へ共(それいごきたじょうたんごおきたまいそうらえども)

拙者依旧同心之筋(せっしゃきゅうどうしんのすじにより)同心仕来候(どうしんつかまつりそうろう)

然処去秋輝虎へ申合(しかるところきょしゅうてるとらへもうしあわせ)

拙者へ深致不儀候(せっしゃへふかくふぎをいたしそうろう)

越国之敗北之上(えつこくのはいぼくのうえ)

旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入(きゅうとうさのへむかいごちょうじんのじぶんうじくにごじんへかけいり)

依奉頼(たのみたてまつるにより)

従氏邦頻而御意見候間(うじくによりしきりにごいけんそうろうあいだ)

如何共不致得(いかんともえいたさず)

致参会候(さんかいいたしそうろう)

此才之條々(このさいのじょうじょう)

自氏邦可被御申立候(うじくによりおんもうしたてらるべくそうろう)  

永禄十年丁卯(かのとう) 


文書では善・山上でいつもワンセットで善さんが先ですね

 

 

現代語訳も、ひめちゃんち流でまとめてみます

善・山上のこと報告書

中山こと私・由良成繁が書きました。

(善氏・山上氏は)根本は管領馬廻り衆です。
古河公方と関東管領が争っていた時で、(善氏・山上氏が)関東管領方に付いているころ、
佐野大炊助祖先周防守に在所(善・山上)を逐われて
3年間五十子の陣にいました。


早く故郷に帰って住みたいとブウブウ言ったけれど
武蔵方面は、あっちこっち戦争状態でした(善氏・山上氏にかまっている余裕はなかったのです。)。

(そこで)私の曾祖父信濃守成繁に
かの両人(善氏・山上氏)に合力し、元の居住地に帰らせてやることができたなら、
末代まで(由良氏の)同心としようと、(管領が)おおせいだされたので、


私の曾祖父信濃守成繁は、葛塚の地を取り返して3年間番兵を置いて守らせ、さらに奥沢という地で、一戦を交えて勝利した後、善氏・山上氏はやっと心配なく故郷に帰る事ができました。

それ以来、曾祖父信濃守、祖父左衛門の佐景繁、亡父信濃守泰繁まで三代の間は同心してきましたところ、


(横瀬泰繁の開基、上江田の龍得寺)



(横瀬泰繁の墓といわれる龍得寺の五輪塔)

 


天文十年辛丑の年の秋、庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守たちが相談して、亡父を攻撃したとき、心変わりして厩橋(賢忠)に付きました。

それ以来手が離れていたのですが、
さんぬる庚申の年(永禄3年)に、元からのように由良の同心に戻りました。

これはつまり、北条厩橋(北条高広)が、おまえ達は由良の同心なんだから(由良に復帰せよ。)と言ったからでしょうか?

厩橋のことと言えば、輝虎時代に初めは城主として河田豊前守を置きました。
後に北条高広を置きましたけれども
私は元同心であったたことにより、ズーと同心してきました(上杉方でした)。

それなのに、昨年の秋、(善・山上は)輝虎に指示されて私を攻撃しました。
そして、越国敗北の結果、昨年の冬謙信が佐野へ向かって陣を張る時に、謙信と別れて、氏邦の陣に駆け込んだのです。


北条家の味方になりますとお願いしたので、
氏邦によってしつこく事情聴取がなされるので、
納得がいかないけれども
事情聴取に同席したのです。
これらの年のできごと(を記すのは)は、
氏邦の求めによるものです。

永禄十年(1567)丁卯



善さん・山上さんは、おそらくこの時北条氏邦と初対面でしょう
氏邦は「お頼み申す」と突然やって来た初対面の彼らを、即信用するわけにはいきません。
そこで由良さんが、「あいつらどんな奴らなんだい?」と報告書を求められたのでしょう

 

でも、この文書を丹念に読むと、いくつかの疑問点が出てきます

次回はこれらを検討しま

 

(つづく)

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.06.28

 

 

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由良成繁事書案(善・山上之事)・その3

2024-06-25 21:52:55 | 山上保の物語・総集編

暑い暑い一日です。

ひめちゃんは、最近は午後6時過ぎに夕方散歩に出ます。

南の方にずーっと下って、中学校の信号の西を一回り、時にはもう少し下って町組集会所を廻って帰ります。

夏の日のみんなの写真はあるかな?

探していたら、恋する乙女のひめちゃんが出てきました

2019年8月、ケンくんちによって、ちょっとご挨拶して、照れながら満足して帰るひめちゃんです

ケンくんの事、本当に大好きだったんだね

 

 

 

由良成繁事書案
(端裏書カ)

善・山上之事書 中山被成之

善・山上之事

根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、  

永禄十年丁卯              
(『群馬県史資料編7』より)

 

 

然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、
「然処(しかるところ)」、ここは逆接でしょうね
「そうしていたところが、そうしていたのに」
「去秋」は去年の秋、つまり永禄9年の秋
「輝虎へ申合」、輝虎は上杉謙信、善・山上氏は謙信と申し合わせて、謙信の指示に従ったのでしょう
「拙者」は私・由良成繁ですね
「深致不儀候(ふかくふぎをいたしそうろう)」、由良氏の配下の新田衆の一員として関東幕注文に名を連ねたのに由良氏を攻撃したのです
このころ由良さんは北条に内通していて、やがて北条方になるのです。
内通がばれていたのでしょうか



越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、
(善・山上さんは)越国の敗北の結果、昨年の冬(謙信が)佐野に向かって陣を張る時分に(北条)氏邦の陣に駈け入って

このころ(永禄9年から永禄10年にかけて)の状況がわかりにくいです
佐野市郷土博物館の図録、『上杉謙信がやってきた』(2015)から引用して、状況を把握します

永禄九年三月二十三日、上杉輝虎は千葉胤富の家臣原胤貞の下総臼井城(千葉県佐倉市)を攻撃するものの、北条家からの援軍が来ると敗北し、上杉軍は数千の死傷者を出した。~中略~八月二十四日、関東に出陣するため、府内を出発し、閏八月の中ごろ、六日町(新潟県南魚沼市)につき、越山ののち由良氏の金山城を攻めている。いったん帰国した輝虎は、十月一日、この年3度目の関東出兵を行っている。十一月八日、大胡(群馬県前橋市)に着陣し、九日には、北条家と戦い、高山(群馬県藤岡市)から深谷付近にかけて放火し、五十人を捕らえ本陣に帰っている。十九日には佐野へ軍を移動させ、金山城を攻める準備をしている。十二月、厩橋城の北条(きたじょう)高広が輝虎から離反する。~中略~永禄十年(1567),正月を佐野の陣で迎える。

「越国之敗北」とは、越後勢が下総臼井城で大敗した事でしょうか?
それにしても千葉県佐倉市にまで攻め寄せていたとは

藤岡から深谷にかけての放火もひどいですね
冬に焼け出された人々はどうしたのでしょう

前掲書でこのころ、北関東の国衆のうち上杉氏を支持する者は、佐野と桐生の両佐野氏と羽生城の木戸氏のみになってしまった。
羽生城の木戸氏はなぜ、上杉氏を支持し続けたのでしょう
7年後、彼らは善・山上の地に、羽生城を退去してやってくるのです
北条氏邦のところに駆け込んだ、善さん山上さんはどうなったのでしょうか
   

依奉頼、
(たのみたてまつるにより)

永禄9年秋、善さん山上さんは上杉謙信に従い、由良さんを攻撃したのでした。
謙信が、この年3月下総臼井城を落とせずに敗走すると、東関東の諸将は北条方へと離反しました
閏8月に再び越山するも、この流れに歯止めをかけることはできず、さらに皆川・由良・成田氏の北条方への離反を許す結果となりました
10月に越山したとき、藤岡から深谷に駈けて放火・略奪を働き、利根川を渡り新田に来て、11月19日に佐野に着陣します

この時、善さん・山上さんは、謙信から離れて、北条氏邦の陣に駆け込んだのです
善さん・山上さんも一緒に藤岡から深谷に放火し略奪していたことになりなす、そんな
まして、藤岡は関東管領の城があった所です


従氏邦頻而御意見候間、
(うじくによりしきりにごいけんそうろうあいだ)
氏邦によって事情聴取がしつこくなされるので

如何共不致得、
(いかんともえいたさず)
どうにも納得がいかないけれども


致参会候、
(さんかいいたしそうろう)
事情聴取に同席したのです
それは納得できないことです。
だって、去年攻撃されたばかりですから

此才之條々
(このさいのじょうじょう)
これらの年のできごとは

自氏邦可被御申立候、  
「自氏邦」(うじくにより)「御申立」(おんもうしたつ)
「被」は古文の助動詞「る、らる」に相当し下二段方に活用、直後に必ず活用語がきます。活用語が四段またはラ変の時は「る」、その他の時は「らる」と訓読します。直後の活用語は「(御)申立」は、「もうしたてーず」で下二段活用です。「る、らる」は未然形接続、つまり上は未然形になります。
したがって、「被御申立」は「おんもうしたてらる」
「可」は古文の助動詞「べし」に相当します。直後に活用語がきます。活用語がラ変の時は連体形、その他の時は終止形に接続します。直後の活用語は「被(らる)」で下二段型なので、「らるべし」
「可被御申立」は「おんもうしたてらるべし」
「候」は、活用語の連用栄に接続する補助動詞です。
「可被御申立候」は「おんもうしたてらるべくそうろう」

簡単に言えば、(これらの出来事を記すのは)氏邦の命令によるということでしょう

永禄十年丁卯  
永禄十年は1567年で、干支は「ひのとう」です。



ところで、善さん・山上さんが駆け込んだ氏邦の陣は、どこだったのでしょう?
氏邦と言えばその居城は鉢形城です

 

由良成繁の曾祖父、信濃守・成繁の生年は未詳、没年は文亀元年(1501)8月8日というのが通説のようです。

そして祖父は、左衛門の佐・景繁、父は、信濃守・泰繁です。

 

横瀬泰繁は、上江田(旧新田郡知った町上江田)の竜得寺の開基だそうです。

竜得寺には、泰繁の肖像画もあるようです。

実は、ここは親の実家の菩提寺でもあります

ご先祖は、殿様についてやってきた医者だそうです。

男子のみ相伝の秘薬があって、遠くからも買いに来たとか。

案内してお駄賃もらったという、超高齢の親戚もいます。

漏れ聞こえた所によると、カイコの糞と何かを混ぜたとかなんとか

利根川の向こうの、横瀬辺りから来たのかな?

 

(つづく)

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿  2024.06.25

 

 

 

 

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由良成繁事書案(善・山上之事)・その2

2024-06-23 10:53:18 | 山上保の物語・総集編

冷たい雨の朝です

雨雲レーダーは、12時頃に雨が上がるでしょう。

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、貧乏カッパでお散歩です

6月の、2人の貧乏カッパ姿を探しますけど、意外にありません

やっと、2020年6月、タバサねーちゃんと獅子丸の貧乏カッパ姿がありました。

犬用レインコートが装着が大変でかつ高価なので、ふとビニール風呂敷を2カ所結んでレインコートにすることを思いつきました

ただ、かわいい水玉のピンクのビニール風呂敷は、包装用品のお店に行かないと手に入りません

先日、また買い足しておきました

 

 

 

由良成繁事書案
(端裏書カ)

善・山上之事書 中山被成之

善・山上之事

根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯              
(『群馬県史資料編7』より)

 

本日の確認部分は、赤文字です。

 

 

天文十年辛丑年秋、

天文(てんぶん)10年は西暦1541年、干支は「かのとうし」。
横瀬泰盛・成繁は、享禄元年(1528)ころ、主君岩松昌純を殺し、実権を握っています

下剋上を成し遂げて13年後で横瀬氏の支配体制も安定したころです
天文十年辛丑年秋、やはり収穫が終わってからです
戦いだけでは領国経営は出来ません

旧新田町上江田の竜得寺には横瀬泰盛の墓と言われる五輪塔があります。







庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、
「庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守」といった方々が、みんなで一緒に亡父(泰繁)を攻撃した時

庁鼻和乗賢(こばなわのりかた)は、深谷上杉氏の6代目です。
庁鼻和城跡は国済寺になっています

那波刑部太輔宗俊(なわぎょうぶたいふむねとし)、刑部太輔はいってみれば法務省のナンバー2みたいなものですが、早くに実態はなくなっているようです
那波氏は鎌倉幕府の実務官僚大江広元の子孫です

厩橋賢忠(うまやばしけんちゅう)は、長野賢忠。
ウィキペディアによれば、戦国時代前期の上野国の武将。上野長野氏の一族。賢忠は法名(橋林寺殿節菴賢忠大禅定門)であり、実名は不詳。
えェ、橋林寺は常広寺の本寺です
もともとは長野さんの菩提寺だったのですね
長野さんと言えば箕輪城ですけど、厩橋にも一族がいたのですね。

成田下総守は、先のウイキペデイアでは、成田親泰としていますが、大永4年(1524)に死去していますから、ここは息子の成田長泰でしょう

佐野周防守(さのすおうのかみ)は、唐沢山の佐野昌綱としているものもありますが、山上・葛塚とのからみから判断すると、やはり桐生の佐野さんでしょう。

みんなでまとまって攻撃してきたのです
でも、金山城は落ちません。
金山城は、今まで行った事のある城跡で一番の難所だと思います

御城印も、不落の城です



厩橋へ致心替候
うまやばしへこころがわりいたしそうろう
善氏・山上氏は、由良さんを裏切って、厩橋長野さんに味方したのです。
そうすることによって何か得るものがあったのでしょうね


以来離手候処、
いらいてをはなれそうろうところ
縁が切れていたのです


去庚申年属本意候、
さんぬるこうしんのとしほいにぞくしそうろう
この文書の永禄10年の前の庚申の年は永禄3年(1560)です
永禄3年に由良陣営に復帰したという事です
永禄3年(1560)、善さん山上さんは横瀬(由良)の麾下(きか)に復帰します



然処北条厩橋旧同心由申致欤、
「然処(しかるところ)」は、つまり
「北条厩橋(きたじょううまやばし)」、永禄3年(1560)上杉謙信は越山(えつざん)し、小田原の北条家に奪われていた厩橋城を取り返します。

後に厩橋城主となる北条(きたじょう)高広のことでしょう。
「旧同心由申致欤」、きゅうどうしんのよしもうしいたししか?
普通に考えると、主語は「北条厩橋」、述語は「旧同心由申致」です

北条高広が善さん山上さんに「おまえたちは横瀬(由良)の旧同心なんだから横瀬に復帰せよ。」と言った受けとれます
いずれにせよ、この復帰には北条高広が関わっていそうです



厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、
「厩橋之事、輝虎世ニも」、厩橋城主は輝虎(謙信)の時代にも、
「初者河田豊前守給置候」、初めは河田豊前守を置きました。
「其以後喜多条丹後給置候へ共」、それ以後喜多条丹後(きたじょうたんご)つまり北条高広を置きましたが

上杉謙信は翌永禄4年(1561)3月、10万の大軍を率いて、小田原攻めをします。
その時に、「関東幕注文」が作られました

謙信は閏3月、上杉憲政から、鎌倉で関東管領職を受け継ぎます。
横瀬氏はこの時に由良に改姓したと言われてきましたが、最近はもう少し後と言われているようです
太田市HP「金山城略年表」では、永禄8年7月15日に、「この頃、横瀬成繁由良に改姓する。」と、あります
また、岩宿博物館『考古学から見た群馬の戦国時代』(2016)でも、「永禄7~8年 横瀬成繁が将軍足利義輝から供奉衆に加えられ、これを契機に由良を称す」と、あります



拙者依旧同心之筋、同心仕来候、
「拙者」は私
「依旧同心之筋(きゆうどうしんのすじにより)」、元同心であったということにより
「同心仕来候(どうしんつかまつりきそうろう)」、ずーと同心してきました。(ずーと味方してきました)
横瀬(由良)さんは、このころ上杉方だったのです

由良さんの主君岩松家純は、長尾景春の乱で五十子の陣が攻撃された時に、関東管領上杉憲顕と一緒に利根川を舟で渡り、武士城付近に上陸し、以後は疎遠になったと言われています。

でも、「太田市HPの金山城略年表」で、横瀬成繁に関係ありそうな事柄を抜き出してみると、

応仁3年(1469)2.25  金山城築城の地鎮祭
文明元年(1469)8  岩松家純、関東管領上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)を退きに金山城に入る
明応3年(1494)4.22  岩松家純没する(86歳)
明応4年(1495)4.13  横瀬成繁草津へ湯治に出かける
       12.18  古河公方足利成氏の仲介により、岩松尚純隠居、横瀬成繁父子を尚純子夜叉王丸(昌純)の名代とする和約が成立    
文亀元年(1501)8.8  横瀬成繁(73歳)没する。金龍寺に「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が造立される。

長尾景春によって攻撃されるより以前に、横瀬成繁は主君と共に五十子の陣を退去しています

通説より早く、関東管領とは、疎遠になっていたはずです

どうも由良氏に都合のいいように創作されている感じもあります



初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.06.23

 

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由良成繁事書案(善・山上之事)・その1

2024-06-19 21:49:17 | 山上保の物語・総集編

暑い暑い一日でした

今頃って、こんなに暑かったっけ

 

2020年の今頃の、ひめちゃんと獅子丸です。

ひめちゃん、モコモコです。

獅子丸が実家に帰ってから1年後、ヤギという生き物に遭遇してから1年後です

2人は、よく東の牧場に行きました

ヤギさんの家族が、増えていたのです

子牛用のハウスをヤギさんも使ってます。

このヤギハウスの向こう側は、鏑木川の深い流れです

 

 

 

新里では、山上氏は佐野周防守に逐われて五十子に3年間滞在したことになってます
その根拠になっているのが、この文書です


由良成繁事書案
(端裏書カ)

善・山上之事書 中山被成之

善・山上之事

根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、   

永禄十年丁卯              
(『群馬県史資料編7』より)




由良成繁事書案
(端裏書カ)

まだ、書き換える可能性はあったんですよね
「端裏書カ」
こんなメモがあるんですね
「案」の文字が気になります
まだ草案で決定稿ではないんですよね

 


善・山上之事書 中山被成之
「中山被成之」は、「ちゅうざんこれをなさる」「私・中山が之を書きました。」でしょうか
由良成繁の戒名は、鳳仙寺中山宗得居士です
桐生市梅田町の鳳仙寺に墓があります
墓石には、新田氏の大中黒の紋があります
由良氏は新田の後裔を自称していますが、そうではないことはよく知られています。
ええ、そうすると、この文書に創作が入ってる可能性はないとは言い切れませんよね

 


根本者管領馬廻衆ニ候
こんぽんはかんれいうままわりしゅうにそうろう
善・山上は、根本は関東管領の馬廻り衆であった
そうすると、親衛隊みたいなものですから、戦いの時にはいつも管領様の所に行っていなければなりません
山上の管理はどうしていたんでしょう



 公方・管領御分目之剋
公方の前に一文字空いています
これは公方に対する敬意からです
公方・管領御分目のみぎり、古河公方と関東管領が争っていた時

これは、古河公方と関東管領が争っていた時、享徳の乱の頃(1454~1482)の出来事です。



管領方御うちは之時節、
「善さん山上さんが関東管領に付いているころ」ということでしょうか?



佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜
佐野大炊助先祖周防守とは、赤堀文書によく登場する佐野周防守ですね。
在所お被押抜(ざいしょをおしぬかれ)、おしぬかーず、四段活用なので、被は「る」です。
佐野大炊助先祖周防守に在所(善・山上)を逐われてということです

 


三ヶ年五十子に致在陣、
3年間五十子の陣にいて、

 


還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、
還住は一度居住地をはなれたものが再び居住すること
還住之儀雖致侘言候(かんじゅうのぎわびごといたしそうろうといえども)早く故郷に帰りたーいとブウブウ言ったのでしょうか
武蔵面依無御手透、武蔵方面はあちこちで戦争状態で善さん・山上さんなんてかまっていられなかったようです。
いつのことかなあ

 


拙者曾祖父信濃守成繁ニ、
拙者は由良成繁(ゆらなりしげ)、彼の曾祖父も(横瀬)成繁、同名なのでややっこしい

 

彼両人ニ合力在所於令還
かの両人(善さん&山上さん)に合力し在所(もともとの居住地)に還らしめば、つまり、もし善さん&山上さんのために戦い彼らをもともとの居住地に還してやったならば、
まだ仮定の話です



末代為同心之由、依被仰出、
末代同心と為すの由、仰せ出ださるに依り

仰せ出ださったのは、関東管領です

善くん山上くんは、ずーと君んとこ(由良氏)の同心衆でいいよと、おっしゃったので


この話が事実とすれば、これは長尾景春の乱で五十子の陣が襲撃される(文明9年、1477)以前の話です

あれ、まだ横瀬氏は岩松家の家臣だったはずです


「太田市HPの金山城略年表」で、横瀬成繁に関係ありそうな事柄を抜き出してみます。


応仁3年(1469)2.25  金山城築城の地鎮祭
文明元年(1469)8  岩松家純、関東管領上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)を退きに金山城に入る
明応3年(1494)4.22  岩松家純没する(86歳)
明応4年(1495)4.13  横瀬成繁草津へ湯治に出かける
       12.18  古河公方足利成氏の仲介により、岩松尚純隠居、横瀬成繁父子を尚純子夜叉王丸(昌純)の名代とする和約が成立    
文亀元年(1501)8.8  横瀬成繁(73歳)没する。金龍寺に「義山宗那忠居士」銘の五輪塔が造立される。

長尾景春によって攻撃されるより以前に、横瀬成繁は主君と共に五十子の陣を退去しています

 

葛塚地お取立三ヶ年差置番手、
葛塚の地を取り立て、三ヶ年番手を差し置き、

「取り立て」は無理矢理取るんでしょうか、借金の取り立てみたいな用法があります。
差置はそのままにしておく
番手は城を守る兵士
そうすると、由良さんは葛塚の地を奪還し、3年間番兵を置いて守らせたんですね。

 

剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、
あまつさえおくざわとごうするちにおいて、さのすおうのかみといっせんをとげしょうりをえしのち
奥沢は新里町奥沢です
早川貯水池はまだありませんから、奥沢神社とか東昌寺のあたりが怪しいかも
剰(あまつさえ)は、物事や状況がさらに重なるさまです。
葛塚の要害を押さえて、さらに奥沢で佐野周防守を撃破したのです

 


両名字心易在所被致本意、
両名字(りょうみようじ)とは、善さん・山上さんのことですね
被の下には必ず活用語が来る、文語の「る・らる」に相当する。
致さーず、四段活用なので、「る」です。
被致本意は本意を致され、両名字心易く在所に本意いたされ
善さん・山上さんはやっと故郷にかえる事ができたのです。
そうすると、善さん・山上さんは6年間、五十子にいたことになります



以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、
それ以来、曾祖父の信濃守成繁、祖父左衛門佐景繁、父信濃守泰繁まで三代は、恙無く同心仕り来候うところ
三代の間はけっこう長いですよ
由良さんが五十子の陣から還ったのが文明元年(1469)、善さん山上さんが大変お世話になったのはもう少し前の話ですね
今・永禄10年(1567)に、この草案は書かれていますから、まあ百年前の話ということになります


善さん山上さんは、由良さんのおかげで善・山上に帰れました。
以来、信濃守成繁・左衛門佐景繁・信濃守泰盛三代の間は由良さんに同心してきました。

ところがです

(つづく)

 

初出 2019.06.01 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.06.19

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