黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

あじさいの大中寺・前編

2019-06-30 16:08:24 | 下野国
今朝はずーと雨が降り続いていました
ひめちゃんと獅子丸は、レインコートを着てお散歩です。
なんとなく諏訪神社に出て、山上城址公園のほうに行きました。
ついでだから、あじさいの名所を通ってみるか
咲いてはいましたけど、ちょっと寂しい桐生の紫陽花の名所です。
昔ながらの種類が一種類とガク紫陽花が一種類だけです。
寒さで花芽がやられたので、花も少なめです
下草刈りはやってありました。





一昨年の冬、大中寺を訪れました。
上田秋成によって書かれた青頭巾の寺・大中寺ということで訪問しました。
その後、隣村の龍源寺の本寺が大中寺と知りました
枯れたあじさいがいっぱいで、いずれあじさいの季節に訪問したいと思っていたのです。


先週の土曜日、今しかないと出かけてみました。
県道67号線をひたすら東に行きます。
下津原の信号脇のコンビニで、ホットコーヒーで一休み。
左折してしばらく行くと、大中寺の表示があります。
左折してまもなく大中寺です



あじさいが咲いています
駐車場はほぼいっぱい、なんとか駐車します。



やはり紫陽花の似合う寺です
山門は皆川城の裏門を移したとか。
帰りに「おおひら歴史資料館」で、皆川城主の皆川さんは、小田原城にこもったけれど、うまく抜け出してその後もしっかり出世したという話をききました


山門をくぐってまた階段です




階段のクラシック度が増してきます。




頑張って登り切ると、右手に紫陽花の似合うお堂があります。



説明板もあります。



本来は当寺の西南にあった真言宗園福寺に安置されていた「木造地蔵菩薩半跏像」だとあります。



前回もお会いしているはずですけど、まったく記憶にありません


ここから油坂が見えます。



大中寺七不思議が始まってます。

説明板によると、
ある学僧が燈火欲しさに本堂の灯明の油を盗んで追われてこの階段から転げ落ちたのが因で死んでからこの階段を登ると災いにあうという


通行禁止になってました
たしかに急勾配で手すりもないんですけど。


とりあえず脇の坂を登って本堂です。





さすがの彫刻です

大中寺の由来があります。



この寺の縁起は今昔物語、雨月物語の青頭巾の話として名高く、境内にある七不思議の伝説もまた広く知られているところである。



さて、青頭巾物語で鬼坊主の墓標として刺した藤が生長した「根なしの藤」の七不思議の一つです。
たしか、本堂の裏手にあったのですけど、フンスができてしまっていけません
イノシシが出没するのでしょうか?
残念


とりあえず、「雨月物語」青頭巾の話を復習しておきます

昔快庵禅師という諸国遍歴の修業をする高德の僧がいた。ある年奥羽に行く途中、下野の国冨田の里で日が暮れてしまった。ある裕福そうな家で宿を頼もうとすると、「山の鬼が来た。」と大騒ぎになった。家の主人によると、山の上の寺の住職は寵愛した少年の死を受け入れられず、ついには遺骸を食べ尽くしてしまい鬼になってしまったという。禅師は教え導いて元の善心にと立ち返らそうと、次の日山の寺に向かい、一夜の宿を借りた。鬼は禅師を食べようとしたが、禅師の姿はそこにいるのに見えなかった。鬼は観念し、あさまし悪行を捨て去るすべを教えてほしいという。禅師は自分が被っていた青頭巾を被らせ、二句の唱導歌を与えた。「江月照らし松風吹く 永夜清宵何の所為ぞ」この句の真意をよくよく考え抜くように行言って山をおりた。翌年、奥羽からの帰りにここを通り、山の寺に行ってみると、か細い声で「江月照らし松風吹く 永夜清宵何の所為ぞ」と唱える僧がいた。「そもさん、何の所為ぞ。」と一喝して禅杖で撃つと、そこには青頭巾と骨だけがあった。快庵禅師は里人に請われ、この寺の住持となった。


そして、鬼坊主の墓標として指した藤が成長したのがこの藤の木ということです。

『雨月物語』は怪談ですけど、何かほのぼの、人間の優しさみたいなものを感じたような記憶あります







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由良四天王高橋丹波守開基・瑞龍山祥雲寺

2019-06-29 20:56:40 | 群馬県・東毛
ひめちゃんたちは、ノミダニ予防のお薬ネクスガードをもらいました。
ひめちゃんとののこねーちゃんは、そのまますぐに食べました。
小次郎パパとタバサねーちゃんは、用心して食べません。
七海ママはまだお散歩からかえっていませんでしたけど、3名様用のお薬は朝ご飯のドッグフードの上にトッピングしました。
しばらくして覗くと、みんな完食していました
獅子丸は養家から、首の後ろにさすフロントラインが届いています。
明日あたり、さしましょう





栃木の史跡に行くときは、よく県道67号線を利用します。
県境近くの境野(さかいの)で、祥雲寺の表示を何度も見ています。
開基が由良四天王の一人高橋丹波守ということで、いつかは訪れたいと思っていました。
先日、桐生市内で用事を済ませた後、訪れました。

平日の昼間と言うことで、境内は静まりかえっています。

桐生仏教会の公式サイトによると、

戦国時代も終わろうとする頃、高橋丹波守橘英元は父政種と弟正直と共に、丹波国から関東足利に下向し、由良氏に仕えていた。そして、由良氏の桐生占領後は、広沢村にも地を賜わっていた。その後、由良氏は小田原城で敗戦の後、常陸国牛久へ転封させられ、家臣の大部分は武士の身分を捨て土着を余儀なくされた。英元も長子泰種と共に武士の身分を捨てて、境野の原野に土着して開墾を始め農事に従うことになった。英元は慶長3年(1598)に仏堂を立て、家来を出家させて住まわせた。そして英元の孫種景が17歳で出家、広沢村の大雄院の牛室大和尚の弟子になり、後に英元の旧領地の堀口村の正雲寺を移転して祥雲寺と改めて伽藍を整え、師の牛室大和尚を開山に勧請したのが寺名の興りである。





山門です。
六ツ足門ともいわれるそうです。

境野峰とあります。





山門の向こうは、元気に明るい赤の世界のようです。




真っ赤な鐘楼堂が見えます。



まっすぐ進むと、俗世の重荷を落として行くようです


落ち着いた品の良い本堂です



本堂の裏の墓地に高橋丹波守の墓があるとか、どこかで聞いたような気がします。
本堂の裏に回って見ます。
それらしき表示もありません

古そうな宝篋印塔を見ましたけど、どうも違うようです。







まあ、仕方ないか


本堂前に戻ります。



いろいろ有る割に、落ち着いた本堂です


ご本尊様も垣間見る事ができました、合掌




鼎(かなえ?)の向こうに、鐘楼堂が映っています





高橋丹波神のお墓(供養塔)は見つかりませんでした

でも、元気な今を生きるお寺です
御朱印をと思ったのですけど、余りに静かで誰もいないので、声をかけそびれてしまいました
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円空仏の寺・禅桂寺

2019-06-27 22:31:59 | 群馬県・東毛
円空仏の寺・松源寺と禅桂寺は、昨年9月にも訪問しています。
そのころ、ひめちゃんは、原則的に七海ママとお散歩していました。



ミニドッグランでママと遊んでから、お散歩にでることが多かったです。
ランのフエンスを飛び越えて居間に突進すると、十分遊んだサインでした。








円空仏は、本来は松龍寺が兼務している禅桂寺にあったものだそうです。
松龍寺のあと、大間々町浅原にある禅桂寺に寄りました。


円空仏が、こちらにあった名残があります。





大間々町誌棋士資料「大間々の社寺」によれば、

藤生氏の先祖である藤生丹波守善寿(藤生院善翁浄桂居士)は、由良五十人番頭の一人で、小田原城で戦死したと伝える。その四代目の子孫である金右衛門は、元和元年六月十四日に花輪の祥禅寺から開山家叟殊全を招き、藤生丹波守を開基として、その供養のために創建された。藤生の姓にちなんで藤生山の山号を持つ。昔は武士を開基とするだけあって立派な伽藍を誇っていたが、現本堂は近代的なコンクリート建築に変わっている。






藤生山と山号があります。


本堂の脇に円空仏の説明板がありました。



円空は江戸時代初期の美濃の国の生まれと伝えられる僧で、諸国を遍歴行脚して布教の傍ら仏像を刻んでいる。上野国(群馬県)を訪れたのは、延宝九年(1681)のころで、貫前神社に滞在した後各地で造像、大間々を経由して日光へ向かっている。~中略~寛政四年(1792)の同寺の過去帳には、「円空作薬師如来一体、施主富治郎母」とあり、この像を薬師如来と考えていたことが知られる。

円空仏はお寺に置いていったものではなく、藤生富治郎母がお寺に奉納したものということです
円空さんは、富治郎さんちに寄って円空仏を刻んだということになります

大間々町には、円空仏が二体あって、もう一体も禅桂寺と同じ道筋にあるようです。
この道筋は小平の鍾乳洞のある道です。
日光に行けるのかな?


近代的な本堂と、赤いおがけの六地蔵です。



裏手に墓地が見えます。



りっぱな宝篋印塔がいくつも見えます。


山門にもどると、脇のこの方が寂しそうに見えました。




禅桂寺前の道は、この先にパワースポットがいくつかありました

菅原神社、小平の鍾乳洞、小平の大杉、岩穴観音など行きました
そのうち、この付近も総集篇でまとめておいた方が良さそうです
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円空仏の寺・松源寺

2019-06-26 21:36:44 | 群馬県・東毛
獅子丸は超元気です



ひめちゃんも元気ですけど、獅子丸にお株を奪われています
獅子くん、たまったエネルギーを発散し終わったら、少しはおとなしくなるかな?





6月3日、薔薇の寺・善雄寺のあと、大間々町塩原の松源寺に寄りました。



あじさいの寺ということですけど、ちょっと早かったかな?
気のせいか花芽が少ない感じです。

境内の案内板があります。



しだれ桜もきれいそうです。

庫裏を尋ねて御朱印をお願いし、ついでに円空仏の拝観もお願いします。
この日はご住職不在という事で、書き置きの御朱印でした。

円空仏の拝観は2度目です。
昨年の9月1日にも拝観しています。



思ったより小さい方でした。
ガラス越しの対面がちょっと残念

同行者は何を勘違いしたのか、円空仏の隣の不動明王(?)を円空仏と勘違いして、しきりに感動しています



まあ、それなりに力強い像ですけど。

円空仏一体では寂しかろうと、現代作家の作品を、ご住職がはるばる飛騨の国まで行って、手に入れて来たのだそうです。



円空仏は今は松源寺にありますけど、実は兼務している禅桂寺にあったものだそうです。
無住の寺に置いておくわけにはいかないので、こちらに移したということです。



今回の御朱印です。



都合で右側がちょっと切れてしまいましたけど


前回の御朱印です。







紫陽花はやはり花芽の付いた枝が寒さの被害を受けて、けっこう枯れたということです。
枯れ枝はきれいに切って除いたそうです。

大間々町誌基礎資料「大間々町の社寺」によれば、
開基は桐生氏家臣の松島図書信次(光輝院白岩浄清居士)で、松島イッケの菩提寺である。松島氏は松島式部小輔の一族で、鳥海弥三郎を先祖とするという。本寺の龍源寺から的伝文当大和尚を招き、寛永八年(1631)三月に開山した。


黒川衆の松島さんが、帰農して開基したのですね

禅桂寺もさほど遠くないので寄ってみました






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薔薇の花盛りの寺 (醫王山善雄寺)

2019-06-24 22:32:53 | 群馬県・東毛
獅子丸は実家での生活に、まったく遠慮をしていません。



ひめちゃんは、落ち着いたいい子の印象になってます
元気いっぱいのおてんば娘だったのですけど、不思議です。
彼女なりに、新しい犬家族の状況を観察中なのかも知れません。




少し前になりますけど、6月3日みどり市東町にある醫王山善雄寺に行ってきました。
山上の常廣寺の大黒さんの実家の近くです。
大黒さんから、薔薇がきれいに咲いていると聞きました。

国道122号線をひたすら北上します。
国道の上で「目的地に到着しました。」とナビはいいます
そんなはずはありません。
寺の方に下りる道を探し、回り込みます。
なんとかたどり着きました

駐車場が見つからず、とりあえず境内に駐車です。




すぐ後から車がやって来て、松葉杖をついたおばさんが現れました。
「薔薇を見に来てくれたのですか?」
「はい、薔薇と御朱印と宝篋印塔です
「早咲きの薔薇の剪定をしていて、脚立から落ちてしまいました
「薔薇を見てから庫裏に伺います。」



薔薇の園を歩きます

羽衣かな?



ひめちゃんちにもあります。
早くからたくさん咲いてくれます

つるバラがみごとに咲いています














丹精込めてお世話された薔薇たちです
薔薇の園を夢見て果たせなかった人間としては、見事に薔薇の園ができましたと拍手を贈りたいです



庫裏によって御朱印を戴きます。





ここは窖薬師(あなやくし)の寺ということで、そちらへもお参りします。








説明板に、
「窖薬師」とは、当山二十二世堯慶和尚が文化十一(1814)年三月十二日行きながら入定して薬師仏となり人々の病気やけがれを掬うという悲願をたて、善雄寺の境内に穴を掘り、ここに入ったといういわれによる。
とあります。



窖薬師のそばに目的の宝篋印塔ありました。
常廣寺の大黒さんの実家のだそうです。
立派です





さて、善雄寺の山門はズーと下という事で、下りてみます。
境内を道路と線路が通っているのです




線路を渡るとたくさんの庚申塔です



はるばる山門に到着です



本来ならここから境内に入るのですね



説明板が見えなくなりそうですけど、本来の銅山街道はこの山門の前の道ということですね
善雄寺の門前を通って、足尾の銅が運ばれていたのです










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