黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

波志江の老女の面影を訪ねて・その1(波志江沼)

2022-08-27 17:57:11 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

諏訪神社に寄ります。

あれ、大灯籠に獅子がいる

左の大灯籠にも獅子がいます

今まで見落としていました。

ほんとうに大きい灯籠です

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

「念仏往生伝」第27話は、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母 です



第廿七 上野国淵名庄波志江市小中次太郎母

年八十二。建長六年(甲寅)春往生。兼十七日。高声念仏不懈。最後臨終。端座合掌。金色光明。遙自四方。徹葦墻二重而照。又人々見紫雲瑞 。莫不稱美。


まず、題名の人物名は、なんと読むのでしょう?
主人公は、上野国淵名庄波志江(こうずけのくにふちなのしょうはしえ)の人であるのはわかります。

波志江は、現在伊勢崎市です。
2020年の8月、波志江の風景が欲しくて、波志江沼(はしえぬま)に行ってきました。

付近は何度も通っていますけど、寄るのは初めてです。

下沼の南駐車場から散策開始です。



なんと沼のほとりの説明板に、上野国淵名庄波志江市小中次太郎母の話がありました



波志江沼が、いつごろ築造されたか不明ですが、波志江という地名の歴史は古く、神奈川県立金沢文庫に所蔵される『念仏往生伝野中に、「上野国淵名庄波志江ノ市小中次太郎の母、年八十二歳、建長六年(1254)に往生云々」と記述があり、その頃、この地域に市が立っていた事が知られます。

「波志江の市」ですか

まさか彼女の名を目にするとは思ってもいませんでした


下沼にかかるあの橋を渡ってみましょう
沼の向こうには、赤城山が見えます



あの山の麓・山上の窪井(くぼい)に行仙上人がいたのです

 

 

橋の上からは、赤城山がきれいに見えます

反対側(南側)には、さっきの説明板だと、弁天島です。

現在の島は、公園化に伴って、再構築されたとありました。

わー、何かいる

烏ではなさそうです。

祠もありそうです。

 

渡りきってから橋の名前を確認です。

「はしえふれあいはし」です。

 

今回は北半分を歩きます。

 

沼の畔をあるくと、広場があって、個性的な遊具がいろいろあります。

これはなんとなく童話の世界というイメージです。

こんな表示もあります。

気を付けましょう。

 

おや、シラサギかな?

沼の北方は蓮とか葦の類いが群生しています。

 

西側に回り込みます。

歩いています

今は水位が低いのですね。

人間だけでなく、野鳥にとっても、憩いの場であるようです

 

そのまま沼畔を下ります。

 

おや、石宮様がいっぱいです

薬師如来様もあります。

失礼します。

 

かなり古いお方のようで、お姿がわかりません

でも、『念仏往生伝』波志江の老女に思いを馳せながら、合掌

 

 

来て良かった波志江沼でした

おや、こんな表示も

ということは、犬の散歩OKですね

そのうち、タバサちゃんも一緒に、又来ましょう

 

 

(つづく)

 

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上植木の建長石仏

2022-08-24 15:05:20 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田の田んぼを歩きます。

2人の足は自然とケンくんちにむかいます。

ケンくん、いるかな?

ケンくん、気づいて出てきてくれました

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、シッポをフリフリご挨拶です

やっと逢えたね

また来るよ、バイバイ

 

 

 

 

『中世仏教思想史研究』(家永三郎 昭和51年改訂増補⒍刷 宝蔵館)の中の「金沢文庫本念仏往生伝考」によれば、

昭和八年十一月六日、鎌倉時代の念仏往生傳が熊原政男氏により金沢文庫で発見された。倭綴二折十四葉、凡そ十七八次詰七行書鈔本で、中間と首尾とを欠く残闕本に過ぎないが、これまで全く知られていなかった貴重な新資料であった。

『念仏往生伝』は、昭和8年に金沢文庫で発見されたのです。

本書は鎌倉時代の往生譚として現存する唯一のものであって、その点でも史家にとり貴重な文献と云わなければなるまい。またこの書が上野国という東国僻遠の地で著されてゐることも、文化史的に興味深い事実である。

 

現存する鎌倉時代唯一の往生譚が、東国僻遠の地・上野国山上で生み出されたのです。

では、その『念仏往生伝』の構成を確認です

(欠)
第廿四 (欠)嵯峨の正信房湛空
第廿五 禅門寂如
第廿六 武蔵国吉田郷尼
第廿七 上野国淵名荘波志江市小中次太郎母
第廿八 同国赤堀紀内男
第廿九 同国同所懸入道
第三十 同所毒島尼
(欠)

第卅四 上野国山上周辺の往生者
第卅五 信濃国小田切四郎滋野遠平
第卅六 伊豆御山尼妙真坊
第卅七 武蔵国阿保比丘尼
第卅八 比丘尼青蓮
(欠)

第四十五 遠江国禅勝坊
第四十六 上野国大胡小四郎秀村
第四十七 同国細井尼
第四十八 小松新左衛門尉国頼
第四十九 摂津国井戸庄小野左衛門親光〈法名成仏〉
(欠)

(テキストは、日本思想体系 『往生伝 法華験記』 岩波書店1974 )


往生の時期の確認

 宝治2年(1248)11月5日   信濃国小田切四郎滋野遠平

建長元年(1249)閏12月22日 上野国赤堀紀内男

建長3年(1251)6月2日    上野国赤堀懸入道

          9月8日    武蔵国比丘に青蓮

建長5年(1253)7月23日   嵯峨正信房湛空

          11月11日  吉田郷尼

建長6年(1254)5月23日   上野国山上周辺の念仏往生者

正嘉2年(1258)        遠江国禅勝坊

正元元年(1259)10月5日   上野国大胡小四郎秀村

文応元年(1260)夏       同国細井尼

弘長2年(1262)7月23日   小松新左衛門尉国頼

 

 

建長年間が多いですね

新編浄土宗大辞典によると、行仙上人の没年は弘安元年(1276)です。

往生の日がわかる最後は、小松国頼の弘長2年(1262)7月23日です。

あと16年、行仙さんは生きました。

もしかしたら、100人くらいの往生伝だったかな?

 

 

伊勢崎市上植木に、この建長年間(1249年~1256年)に建立された石仏群があります

改元が激しい時代に、ちょっとだけ長い年号です。

そして、上野国山上で記された『念仏往生伝』に、何人かの人が念仏往生している年号です

もしかしたら『念仏往生伝』の記憶かも

一昨年の2月、訪問しました。

 

 

住所・上植木本町996-5をナビに入れて出発です。

個人のお宅のような門柱に、「上植木建長石仏」の文字があります。

入っていいのかな?

ためらいながら車を乗り入れて、到着です。

振り返って門柱です。

 

駐車スペースもしっかりあります

こんにちは

 

説明板も、ちゃんとあります

右側の背面に建長三年(1251)の銘があるのですね

700年以上の歳月、人々を見守ってきたのですね

合掌です

 

 

隣に馬頭観音とお馬の親子です。

この親子に起こった出来事の碑があります。

かなりの要約です。

けがをした子馬を置いて、ママさん馬はご主人とお仕事に行きました。

子馬にお乳をあげたいママが綱をかみ切っておうちに戻ろうとしました。

その時、運悪く電車がやって来て、ママは電車にひかれてしまいました。

 

同行のおじさん、ウルウルです

 

歌があるのですね。

おじさん、さらにウルウルです

 

 

佐韋の花園(佐位郡の語源)です。

百合は古くは早由里ともいわれ、もっと昔はただ「佐韋」とも呼ばれた。粕川はかつて佐位川とも呼んで白百合が多く乱れ咲いていた。明治29年迄は、広瀬川より東は佐位郡と呼ばれその語源は佐位からとったもので、百合の郷であった。

そうだったんですか

 

上植木廃寺跡の礎石もあります。

そういえば、上植木廃寺跡も近くです。

上植木廃寺には、新里の雷電山付近にあった瓦工房の瓦が、使われたといいます

雷電山には、『念仏往生伝』の編者・行仙上人が居たかも知れないのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて2(椋神社に行ってきました2)

2022-08-20 14:30:40 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西側・東柴(ひがししば)の田んぼ道を歩いてきました。

道ばたの樹に絡まって咲く葛の花発見

ここは中世には葛塚村(くずづかむら)、葛の生い茂る古墳だらけの村だったのです

 

 

 

武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて(椋神社に行ってきました)、続けます

でも、その前に、吉田郷尼の往生の様子を、行仙上人の『念仏往生伝』現代語訳(ひめちゃんち流)で確認しておきましょう

 

かの尼は47歳で出家しました。

その後、念仏三昧に日々を送り、68歳になりました。

建長5年(1256)11月6日、持病が悪化、9日に息子の入道に向かって言いました。

「さる9月11日の暁、恒河聖衆(こうがせいじゅう)が私を囲みめぐりました。
夢か幻のようでした。また昨日からずっと青い蓮の花が見えてます。」

12月10日に言いました。
「眼をつむると、善導和尚が枕上にお立ちになってました。
また、青い蓮の花がみえました。
この時、心はますます清く澄んで、この身体もますます平安でした。
極楽浄土の青い蓮も見えます。」

戌剋(いぬのこく 午後8時前後)に、また言いました。
「今は臨終の時ではありません。
卯時(午前6時前後)がその時です。
そのために、仏や菩薩が少し離れて立っておられます。」

子剋(ねのこく 午前6時前後)に別の念仏を唱え、言いました。

「臨終いよいよ近し、仏が已にそばに来ています。」

吉田の尼は、その後声高に念仏を唱え続けます。
卯の刻(午前6時前後)に、その声は止みました。
でも、念仏を唱える口は、なお二十数回動きました。
そして、彼女は往生したのです。


 

そんな彼女のいた吉田郷、吉田郷の椋神社の訪問記続けます

 

 

椋神社の御由緒があります。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が道に迷ったときに、持っていた矛の先から一条の光がさして、その先に大きな椋(むく)の木があった。

そこには猿田彦大神が立ち、その導きで大勝を得た。

そこで、矛をご神体として、猿田彦大神を祀ったのが、創建である。

 

それで、椋神社なのですね

永禄12年(1569)、侵入した武田勢に焼き払われたとは

天正3年(1575)、鉢形城主北条氏邦が再建したのですか、よかった

 

 

さあ、本殿に参拝です。

赤い鮮やかな社(やしろ)です

 

狛犬も、さっきの山犬さまほどではありませんけど、ちょっとはクラシックです

 

木鼻の彫刻も見事です

 

拝殿で、2礼2拍1例礼で参拝です

 

 

脇にまわって、本殿を確認です。

さっき、御由緒に、脚元の細い蟇股(かえるまた)とありました。

確かに細い

 

 

隣の覆屋の中に八幡宮があります。

かなり古そうです。

でも、よく見ると見事な彫刻です

扉や壁には、かつては絵が存在したようです

秩父平氏が館の鎮守に勧請したものと、説明板にはありました

 

 

秩父氏が畠山に進出したときに、この椋神社を勧請したのが、畠山(深谷市畠山)の井椋(いぐら)神社だったのです

 

 

いただいた御朱印です。

竜勢の絵と山犬の絵があります

 

 

 

武蔵国吉田郷尼の往生譚、かなり詳しく書かれてます。

著者の上野国山上の行仙上人(こうずけのくにやまがみのぎょうせんしょうにん)と深い交流があったものと思われます

また秩父氏は平氏の流れなのですね

行仙上人も、その出自は平頼盛の孫と言われています(「新纂浄土宗大辞典」ウブ版)。

深い交流も納得ですね

 

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武蔵国吉田郷尼の記憶を訪ねて(椋神社に行ってきました)

2022-08-16 17:16:04 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

実は、ここを訪ねたときには、まだ『念仏往生伝』もよく読み込んでいなくて、吉田郷尼の記憶を訪ねるという気持ちはありませんでした。

でも、結果的に『念仏往生伝』の吉田郷尼が暮らしていたかも知れない吉田郷を訪ねたのです。

吉田郷尼のお導きかな?

 

『念仏往生伝』 第廿六 武蔵国吉田郷尼

彼尼生年四十七出家。念仏功徳。而間生年六十八。自建長五年(癸丑) 十一月六日。持病更発。同九日向子息入道語云。去九月十一日暁。恒河聖衆囲繞。如夢如幻。又自昨日。常合青蓮花在眼前云々。十二月十日又語云。合眼之時。善導和尚立枕上給。又見合青蓮花。此時心弥清澄。身倍平安。戌剋又云。臨終非只今。卯時是其期也。其故仏菩薩如常。迎請儀式尚遠立給故也。又子剋別念仏云。臨終漸近仏已近。其後高声念仏不退。卯始音止之後。念□之口猶廿余遍 。則気止了。在世之間。種々異相。不語外人。自記秘之。



この話の主人公、ヒロインは武蔵国吉田郷尼です。
名前は記されていません。
武蔵国は埼玉県、吉田郷ってどこだろう?

いろいろ検索すると、武蔵国秩父郡吉田郷で、秩父氏の館があったところです
ということは、吉田郷尼は秩父氏の女性と考えられます


2019年の12月、訪問した武蔵国吉田の椋神社の記録です。





(2019.12.12)朝ひめちゃんと獅子丸は、諏訪神社向こうの高台を歩いてきました。

 

帰り道、ひめちゃんが立ち止まりました

ちょうど小学生の登校時間に逢ってしまったのです

後ろ向きになって逃げようとします。

ちょっと待っていれば行っちゃうよ。

でも、不安でいっぱいです

 

ひめちゃんとののこねーちゃんはが、子どもが苦手です。

タバサねーちゃんと獅子丸は、平気です。

同じ両親から生まれたのに、どうして違うのかわかりません。

 

 

 

2018年の12月、深谷市畠山の井椋(いぐら)神社に行きました。

伊椋神社は、畠山氏が秩父の椋神社(むくじんじゃ)を勧請したものということでした。

 

嵐山紀行番外編総集編・井椋神社とうぐいすの瀬

 

では、椋神社へということでしたけど、やっと先日行って来ました

 

伊勢崎市役所の脇を通り、板東大橋で利根川を渡ります。

あれ、いつか通った道です。

関東管領の城・雉岡城の脇を通ります。

それから、ほとんど道なりだったような気がします。

途中からは、もちろんそれなりの山道でした。

途中のコンビニで一休みの予定でしたけど、なかなかコンビニがありません

おなじみのコメリがありました

コメリで一休み。

さあて、あれコンビニがある

まあ、そういうこともあります

 

 

やっと到着です。

黒い鳥居です

 

後ロの山には、不思議なものがあります。

あれが有名な農民ロケット・竜勢の発射台ですね

 

 

付近の観光案内があります。

ここは秩父市吉田です。

ちょっと見にくいけど、秩父市館跡や万葉歌碑も近そうです。

そのうちに行ってみましょう。

 

 

社務所を探します。

御朱印をお願いして、境内の散策です。

あの秩父事件の碑やらがいくつもあります。

 

 

 

そういえば昔、自由民権運動とのからみで大分注目された時期がありました。

秩父困民党三千余名は、明治17年(1884)11月1日、ここ椋神社の境内に集まって武装蜂起したのです。

 

 

赤い鳥居の方に行ってみます。

おや、狛犬がなんとなくひめちゃん似です

山犬(やまいぬ)なのです

「魅せられて山犬」とでもいいましょうか、この山犬風狛犬の写真をいっぱい撮りました

 

 

 そういえば、さっき社務所にこの山犬ふう狛犬のお札(ふだ)がありました。

 

鳥居を出て、入り直しです。

手すりはありがたい

山犬さんこんにちは

 

鳥居をくぐります。

この後ろ姿というか、背中の丸み、よく犬を観察しています

 

 

竜勢の見本でしょうか?

都合で2枚になってしまいましたけど、長いです

竜勢の説明板もあります。

 

最初に入った黒い鳥居のむこうの山に発射台がありました。

 

さて、いよいよ本殿に参拝です

(つづく)

 

 

 

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高縄の摩崖仏と上野国山上の念仏往生者2

2022-08-13 20:12:21 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

Gooブログ1年前の記事(2021-8-12)ということで、「高縄の摩崖仏と上野国山上の念仏往生者」の記事が届きました

獅子くんも、一緒に元気に出演しています

 

「高縄の摩崖仏と上野国山上の念仏往生者」の記事を、振り返ってみます

 

 

ひめちゃんは、獅子丸の用意が出来るのを待ってます。

 

2人は岩神沼に到着です。

カモさんが3羽います。

やっぱ、カモさんがいるっていいよね

赤城山は、全くその姿を見せてません。

 

沼の脇の田んぼに、雀よけのグッズ出現

効果があるといいね

 

沼の上の高縄の摩崖仏にも寄ります。

あれ、みんなのお姿がよく見える

 

ひめちゃんたちも、足下に気を付けて、摩崖仏の下まで行きます。

阿弥陀如来のお姿が浮かび上がっています

足下にも、仏様がいるような

半肉彫りですね

合掌

 

桐生市のHPに大きさがあります。

高縄の岩神沼から北へ約150メートルのところに、赤城山の泥流によって運ばれてきた大きな岩があります。最も大きなものは、高さ3.8メートル、幅は約4メートルもあります。その南面に阿弥陀如来(高さ56センチメートル)を中心に、脇侍として右に観世音菩薩(高さ50センチメートル)、左に勢至菩薩(高さ50センチメートル)が、半肉彫りされています。像が彫られた年代を明らかにする資料はなく、鎌倉時代頃と推定されています。岩の左側には、経文を納めた丸い穴が彫られています。

 

左側に経文を収めたという穴があります。

本日初めて中を覗きます。

けっこう大きいです

摩崖仏を彫り、経文を収める穴を掘り、かなりの信仰心がなければ出来ないことでしょう

もちろん、経文は自分で書写するんですよね。

 

 

ふと、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』の中の、上野国山上周辺の念仏往生者の存在が思い浮かびます

第卅四話 
(欠)六年五月之比。無其次俄来行仙房語云。為最期見参所参云々。其後臥病床。同五月廿一日。病者云。持仏堂仏。只今奉安極楽。看病不得意。同廿二日又云。明相弥現示。彼可還云々。既絶入。還生之時。人間云。見何境界。答云。聖人来言。行水可念仏云々。仍行水了。同廿三日又云。何聖御房遅来給哉。如此二反謂之。起居念仏。即逝去了。


この話の主人公は、(建長?)6年の5月、行仙房にアポなしで突然やって来て、「お会いするのは、今回が最後です。」と言いました。
そして、その後病に伏します。
5月21日に、病の彼は、「持仏堂の仏は、ただいま極楽に奉安しました。看病は望むところではありません。」
また「明相弥現示。彼可還云々。」と、22日に言いました。
(明相は意味が分かりません。でも、現示が啓示と同意とすると、仏の啓示があったのでしょう。
還(かえるべし)とは、まだ往生しないで俗世に帰るという事でしょうか?)
そして、気を失ったのです。
でも、彼は息を吹き返しました。
その、「還生之時」に、ある人が言いました。
極楽往生の世界の入り口で何を見てきましたか?
彼は答えました。
聖人が来て、「潔斎のために行水をして念仏を唱えなさい。」
行水を終わりました。
23日にまた言いました。
「どこの聖や御房様が遅れておいででしょう?だれも遅れてきたりしていませんね。みんな来てますね。」
二度こんな風に言って、起き上がって念仏を唱えて、往生を遂げました。

(テキストは『日本思想体系往生伝法華験記』、現代語訳はひめちゃんち流です。)

 

 

最初の部分に欠落部分があって、姓名等は分かりませんけど、山上周辺に住んでいて念仏往生を遂げた人の話です

行仙上人のところにやって来て、近々くる自分の念仏往生に立ち会ってくれるように頼みにきたのです

行仙さんはもちろん行ったことでしょう

 

行仙上人は、山上の窪井(くぼい)にいたことがわかっています。

そこはたぶん、現在は山上ではなく新川の雷電山付近だと言います。

雷電山にも、中世の阿弥陀三尊の笠塔婆があります

 

 

この摩崖仏を彫ったのは、『念仏往生伝』の彼ではないでしょう。

けれども、彼の強い信仰心を受け継ぐ人によって彫られた可能性を感じます

みなさんに合掌

 

摩崖仏の裏を通って帰ります。

おかあさん、転ばないでね

そうだ、この間この坂で転びました

まだお尻が痛みます

 

アマビエさんの前を通って帰ります。

 

 

 

 

実は最近、「上野国山上の行仙上人」という題で、論文の原稿依頼がありました

FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」で読み解いた行仙上人の著作『念仏往生伝』の記事をもとに悪戦苦闘、なんとか提出しました

依頼者に加筆修正してもらって、なんとか活字になりました

 

論文なんて、大学の卒論以来です

まさか、大学を卒業して○十年もたって、論文を書くなんて思いも寄りませんでした

 

でも強みは、『念仏往生伝』に登場する人物、行ける範囲(おおむね60km、車で2時間程度)の人物の面影を訪ねたことです

 

ひめちゃんⅢに、ほとんどの訪問記があると思います。

こちらのブログは、当分『念仏往生伝』の記憶を訪ねての記事を、総集編でまとめてみたいと思います

よろしくお付き合いくださいませ

 

今までと同じような、ひめちゃん達と史跡の訪問記は

続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ (goo.ne.jp)      にて続けています。

こちらもご訪問お待ちしています

 

 

 

 

 

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