ひめちゃんは、この冬は昼間も室内犬をしています。
なんとしても、お外のサークルに帰りません
タバサねーちゃんは16歳半で、この冬は室内犬です。
まあ、ひめちゃんだけお外というわけにもいかず、完全室内犬です
さらにファンヒーターの前に陣取ります
そういえば、小次郎パパもちょっと危険でした。
ひめちゃんはもっと危険、ひめの丸焼きができてしまいそうです
子供達が小さい頃は、ストーブガードがありました。
何処にやったっけ?
本日、ホームセンターでストーブガードを購入してきました。
動物は火を恐れるというはずだけど
2019年9月の黒柴家族です
獅子丸は実家に帰って3ヶ月です
七海ママ・小次郎パパも、まだ健在でした
野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1
去る程に、その頃小俣の城主は足利式部大輔義国公より三十二代の末胤、渋川相模守義勝公と申しけるは、近年北条の旗下になり、武命に随う故、頃は天正十一年癸未(みずのとひつじ、1583年)四月六日、小田原へ出仕せられけるに、
さる永禄七年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向、佐野に入り給えば、
桐生城主加勢の為に家老萩田備後守、桐生に遣わす時、
大前村松田川という所にて、小俣の家人萩田が手の者に対して狼藉の振る舞い、
萩田当座に遺恨をはらすべき所に、大事の加勢の門出なれば、後日に遺恨を達すべくむね、則ち小俣家人大沢伊八という者に断り捨て帰りけり。
あらすじです。
その頃の小俣の城主は足利式部大輔義国の32代の末裔、渋川相模守義勝であった。
近年北条の旗下になり、武命に随って、天正11年癸未(1583年)4月6日、小田原へ出仕した。
さる永禄7年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向し、佐野に入って、桐生城主加勢の為に家老萩田備後守を桐生に遣わした。
その時大前村松田川という所で、小俣の家来が萩田の家来に対して乱暴な振る舞いがあった。
萩田はすぐに遺恨をはらすべき所だったが、、大事の加勢の門出であったので、「後日に遺恨をはらす」と、小俣の家来・大沢伊八という者に言い置いて帰った。
膳備中守が討ち死にする、小俣合戦の発端です。
小俣領主渋川相模守義勝は、天正11年(1583年)4月6日、小田原へ出仕しました。
その留守を狙って、攻撃が始まるのですけれど、地元の菱(群馬県桐生市菱町)カルタと日付が違います
元亀3年(1572)です
11年も違います
あの右手の山が、かつて小俣城があったところです。
今はゴルフ場になっていて入れません
ゴルフ場の現在のオーナーは、あのシャトレーゼだそうです。
ことの発端は、さる永禄7年(1564年)の夏、約20年前の出来事です
初稿 2020.03.10
改稿 2024.12.30
(つづく)