黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

時に足利勢忽ちに城を攻め滅ぼして(飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事)

2025-02-28 18:38:04 | 桐生老談記の世界

寒さの和らいだ朝です。

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、岩神沼まで行ってきました。

母屋から離れた作業小屋の前に、ずっと繋がれているプーちゃんは、ひめちゃんの両親の世代のような気がします。

プーちゃんは立ち上がって、ひめちゃんに呼びかけます。

ひめちゃんは、完全シカトです。

プーちゃんは、この冬もたくましく生き抜けそうです

 

2020年2月の黒柴家族です。

5年前は、パパもママも健在だったね

岩神沼に行った写真は、これだけです。

やっぱり赤城山は白かったね

 



飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事

去る程に、極月二十九日の亥刻ばかりに、足利勢飛駒の城に押し寄せ、四方より火矢を打ちかけ、熊手を以て塀をたおし、矢鉄砲を打かけ、鯨波を作り込み入りしは、いにしえ土佐坊、堀川の御所へ夜討ちに向かいしも、かくやと思い知られけり。さて老若男女、おめきさけんで、あるいは井戸に落ち、堀に落ち、矢先に当たって死するもあり。猛火にむせて死するもあり。城中さながらあわてさわいで敵を防ぐ者もなし。かくて、大将兵部之介、病気以ての外なれば、乗り物に及ばず、仲間の肩に懸かり、近坂峠を越えて野上の方へ落ち給う。大将退けば軍を望む者なし。忽ちに落城したり。足利勢は四方の口を切りふせぎ、兵部之介が落足生け捕らんと、待ち掛けたり。されども近隣の百姓ども、城に火の手の登るを見て、常の出火と心得て、長柄、鳶口を持って先を争い、かけつけ、足利勢に渡り合い、城の勢と思い、誰殿はお変わりありませんか、誰殿は何方にと、知行の名主、組頭互いに家名を尋ね、名をなのり、近づきければ、寄せ手は城の後詰めと思い、1人ももらすなと切って廻れば、両方の間違いにて、百姓大勢討たれしは、あわれなる有様なり。時に足利勢忽ちに城を攻め滅ぼして、勝時(かちどき)作りて、下飛駒の城に引き取りけり。



あらすじです。


12月29日の午後10時頃、足利勢は飛駒の城に押し寄せて、四方から火矢を打ち込み鬨の声を上げて攻め込みました。
その様子はまるで、土佐の坊昌俊が、義経を堀川夜討ちした時もかくやというようでした。


城中は大慌て大騒ぎで、敵を防ぐどころではありません。


大将の小野兵部之介は病気なので、馬ではなく仲間(ちゅうげん)の肩につかまって、近坂峠を越えて、野上の方に落ちて行きました。


近隣の百姓達は、城に火の手が上がったので、戦ではなく普通の火事だと思って、駆けつけました。
そして、足利勢を城の人と勘違いして近づきました。
足利勢も、城の後詰めと思い「1人ももらすな。」と切って廻りました。
百姓は大勢討たれてしまいました


足利勢は彦間城を忽ちに落城させ、勝ち鬨(かちどき)を上げて、下飛駒の城に引き上げました。



本文中の「矢鉄砲」がわかりません。
でも、「堀川夜討ちもかくや」の状況だったということなので、鉄砲は登場していません
動画や絵画を見ると、弓矢と言うより刀を持ってい攻め込んでます

小野兵部之介は、どんな人かわかりません。
でも、「大慈山碧雲寺」(現在は桐生市梅田町)のサイトに、「天正12年(1584)、飛駒町屋、根古屋城の小野兵部の請に応じて」とあります
碧雲寺に関わりある人のようです

百姓達はなぜこんな夜中に城にやって来たのでしょう?
戦国時代は、城は地域の百姓の避難所だったという話もあります
そういえば、「のぼうの城」でも、百姓達が一緒に籠城していましたね

 

初稿  2020.04.25 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.28

 

(飛駒夜討ち、兵部之介病気、同落城、付けたり、百姓討ち死にの事  終 )

 

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上飛駒の城へ忍び寄せけり(長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 3)

2025-02-23 20:03:32 | 桐生老談記の世界

風の冷たい寒い日が続いています

でも、ひめちゃんはしっかりお散歩に出ます。

アブラナが少し伸びてきて食べられるようになりました。

今日の夕ご飯には、ゆでたアブラナが付きました

ひめちゃんもタバサねーちゃんも完食です

 

2021年3月、アブラナ大好ききょうだいのアーカイブです

ひめちゃんは、獅子丸から生のアブラナが食べられることを教わりました

タバサねーちゃんが、生のアブラナを食べることはありません。

でも、ゆでたアブラナは残さずたいらげます

 

 

 

長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 3

則長また仰せられけるは、

「もっともなれども、それはいにしえ摂州渡辺にて梶原が義経を諍(いさか)いし迷路の軍法に似たり。則長いまだ敵に向かはざる先に、味方城の要害を致すこと、小児に具足の支度をするに似たり。左様の逃げ道の軍法、用いるに足らざるなり。急に勢を揃えて、田浦坂の寄居に籠め置き、短兵旧に取り掛けて夜討ちして取りひしがん事なんとかあらん。」と。

仰せに依り、白石既に着到致し、白石豊後大将として、荒居、大沼、市川、久米、岡田、関口、小菅、湯沢、小柴、小林、三俣、丸山、川田、久保、名在る人々十四人以上は、百三十騎、田浦坂の寄居に酉の刻ばかりに催し、上飛駒の城へ忍び寄せけり。


ちょっとわかりにくい表現が続きます
荒いあらすじです

則長は言いました。
「敵を攻撃する前に要害の準備をするなんて、子どもに具足をつけるようなものだ。そんな逃げの軍(いくさ)はダメだ。急いで軍勢を整えて、田浦坂の寄居に籠め置いて、一挙に夜討ちして上飛駒の城を取ってしまおう。」」と。
白石は総大将として、荒居、大沼、市川、久米、岡田、関口、小菅、湯沢、小柴、小林、三俣、丸山、川田、久保の名のある人々は人々十四人、その他、百三十騎、田浦坂の寄居に酉の刻(午後6時前後)ごろに集合して、上飛駒の城へ忍び寄りました。



長尾則長(顕長)は、上飛駒の城を一挙に取っちゃおうとしています
飛駒は、上飛駒と下飛駒があるんですね。
上飛駒はどこら辺か?


須花のちょっと先、彦澗川の上流に根古屋森林公園があります。
その後ろの山が要谷山(ようがいさん)です。
ここら辺を想定しているようです

 

色々検索すると、上彦馬村は寛永10年(1633)に近江彦根藩領となりそのまま幕末にいたって、旧田沼町彦馬及び桐生市梅田町4丁目・5丁目だそうです。

桐生の本町通りを北上し、梅田湖を渡って、皆沢八幡宮を左に見て、県道66線をひたすら下ると、根古屋森林の少し下に出ます

皆沢八幡宮は、桐生市梅田超4丁目です


この県道66号線初めて通った時は、こんな恐ろしい道はないとい難儀に感じました
でも、桐生から足利を通らずに、田沼・佐野に行ける大切な道なのです

残念ながら、根古屋森林には行っていません。
目的地が唐沢城だったり、須花だったりなので、右折して下ってます。
そのうちに左折して、根古屋森林と要谷山の方に行ってみましょう

追記  まだ行けてません

 

 

 

初稿  2020.04.23

改稿  2025.02.23

 

( 長尾方彦間責め勢揃えの事 ・終 )

 

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宗綱程の短気の大将、片時も待ち居るまじ(長尾方彦間責め勢揃えの事・その2)

2025-02-20 11:44:54 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です

ひめちゃんは赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、堀之内の西を歩いてきました。

プーちゃんは朝日を浴びて、元気にひめちゃんに呼びかけます

この冬も、生き抜けそうだね

 

2020年2月、獅子丸が実家に帰って8ヶ月の頃の黒柴家族です。

 

この2月は、常広寺のインドツアーに参加しました

少しだけインドの犬たちです

各自が自由に生きているようでした。

まれにヒモで引かれている子もいました。

 

 

 

長尾方彦間責め勢揃えの事・その2

白石承まわりて曰く、「されば新田より桐生を乞い給いしより以来、新田、足利に対しては佐野殿これを承まわりなば、立腹は必定なり。この度また飛駒落城に及びなば、宗綱(佐野領主)程の短気の大将、片時も待ち居るまじ。唯、雷の落ちるが如く、出陣は必定なり。先達って桐生、小俣、新田に御内談なる所に、味方を集め、城の要害を拵え(こしらえ)、その以後思し召し立ち給えば、是れ敵を居かから討ち戦いするもの、はかり事と存じ候」と、礼儀を正して言上す。



この部分は、よく意味が分かりません
この作者は、自分だけ分かって、話を続けてしまう傾向があります
事情を知らない者には、何が何だかわからないということがよくあります



まあ、おおざっぱなあらすじです

(足利城主・長尾則長は、12月29日に白石豊後を呼んで、明日がチャンスだから飛駒の城を夜討ちにしようと提案しました。)
白石豊後は、「飛駒が落城すれば、佐野宗綱がすぐに出陣してくるでしょう。桐生や新田や小俣とも連携して、十分準備をしてから出陣するのがよいでしょう。」と、言上しました。

 


足利側でも、戦いの準備をしていたということになりますね
現在は、足利から佐野へは、須花トンネルを抜けていきます


須花トンネルは、明治のトンネル・昭和のトンネル・大正のトンネルと3本並んであります。
左側の明治のトンネルは、なんと手掘だと言います

明かりの向こうが足利なのです

真ん中の昭和のトンネルが、現在使用されています
昭和のトンネルの向こうが、大正のトンネルです。


その大正トンネルの上に、佐野宗綱討ち死の地があります。



天正13年(1585)正月、佐野宗綱は足利の長尾顕長(則長)と戦うために出陣して、ここで討ち死したといいます。

(訪問は2017年の1月です

 

 

初稿  2020.05.01   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.02.20

 

 

(つづく)

 

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飛駒の城を夜討ちして(長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 1)

2025-02-15 20:06:25 | 桐生老談記の世界

暖かい一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、大室公園にお出かけです。

今日は北側の駐車場に入り、小二子古墳の廻りを歩いて来ました。

タバちゃんを見ている、赤柴を連れたおばさんがいます

「こんにちは

「自分で歩いてるね うちにも18才まで生きた黒柴がいたんだよ

「それはすごい タバちゃんも、頑張ろうね そちらは男の子ですか?」 

「女の子だよ。」

「じゃあダメだ

その子はひめちゃんに「ワンワン、アタチの方が強いんだぞ

「何言ってるのよ

「バイバイ

 

2021年2月の黒柴家族です。

小次郎パパも獅子丸もいます。

東の牧場には、ヤギさん家族がいました。

ひめちゃんと獅子丸は、よくヤギさん家族に会いに行ってました

 

 

 

 

 

『桐生老談記』 手に汗にぎるわくわくした場面もなく、長い期読んでます
意味不明の表現にも泣かされます
でも、あと少しです。
残りは佐野宗綱関連の話がいくつか、宗綱の死で本編は終わります。
あとは、家臣団の名簿です。
もう少し、お付き合い願います



飛駒の城を夜討ちして(長尾方彦間責め勢揃えの事 ・ その 1)

去る程に、其の頃足利の城主は、長尾下野守則長と申しけるは、新田城主由良信濃守成重公の御舎弟、足利に入られて、長尾の御名跡を続かせ給う。

頃は天正十一年(1583)の極月(12月)二十九日に、御家臣白石豊後を召され仰せられけるは、「先年より下彦間は、当家の領地たれども、上彦間は佐野の支配なり。ねがわくは当家の一領になさんと、多年の望みなりしに、この度よき時節到来せり。その頃上彦間の城主小野兵部之介、大病気におかされ、家中数日かん病に疲れ、城内油断多かるべし、幸い明日は元日の儀式を調えんと、人の気づかざるこそ幸い、宵、密かに勢を催し、飛駒の城を夜討ちして、多年の恨みを達せん」と仰せられければ、


あらすじです。

その頃足利の城主は、長尾下野守則長です。
新田城主由良信濃守成重公の弟で、足利に養子に入って長尾の御名跡を継ぎました。
天正11年(1583)の12月29日に、彼は家臣の白石豊後を呼び出して言いました。
「先年から下彦間は当家の領地だけれども、上彦間は佐野家が支配している。当家の領地にしたいものだ。長年の望みだったけれどチャンス到来だ。ちょうど上彦間の城主・小野兵部之介は大病で、家中は看病に疲れて、城内は油断しているだろう。幸い明日は元日の準備で忙しいだろうから、飛駒の城を夜討ちして、多年の恨みを晴らそうとおっしゃったので、

 



あれ、一般的には佐野宗綱が元日に戦を仕掛けたんですよね。
足利側(長尾則長)が、元日に仕掛けるような書き出しです

それに、足利長尾氏に養子に入った由良成繁(成重)の弟は、顕長(あきなが)でしたよね

領地にしたいという「望み」が、いつの間にか「恨み」になってます

この戦いの舞台・須花(すばな)は何度も行きました。

須花(すばな)


ここは足利領と佐野領の境目だったのです。

 

 

初稿  2020.04.17

改稿  2025.02.15

 

 

(つづく)

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膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事

2025-02-10 17:19:29 | 桐生老談記の世界

一昨日降った雪は、だいたい溶けています。

でも日陰には残っていて、注意が必要です。

赤城おろしがきつい寒い一日です

近所にキツネが出没するとの話を聞きました

カバ丸をさらっていこうとしたのは、もしかしたらキツネかも

カバ丸は獅子くんの大切なお友達、土に帰って一緒に眠るのです。

キツネさん、邪魔しないでね

 

2020年2月の黒柴家族です

雪の朝の写真がありません

雪は降らなかったかも

 

 

 


膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事

去る程に、渋川の一旗は其の日、午の刻ばかりに膳の城に取り懸かり、鯨波のどっと作りけり。

されども城中しずまり、何の音もせず。

さて城内を見渡せば、空虚になり、「察するにこの城無勢なれば、越後勢と一所なるとまくりきりにせん、はかりごとなるべし。女渕の城に押し寄せん」と既に評定ある所に、

女渕の城代より、萩田はさる二十一日に直ちに越後へ帰国の由、告げ来たり。

しからば寄せ手の者も手持ちを失い、膳の城に火を駆けて、さんざんに焼き払い、無益の陣を引きにけり。


あらすじです。

渋川家中は、その日の午の刻(12時ごろ)に膳城にたどり着き、鬨の声をあげました。
しかし、城中は静まりかえっています。
「城が空であるのは、越後勢と一緒になっての作戦らしい。女渕の城に押し寄せよう。」と作戦会議をしていたところに、女渕の城代から使者がきました。
「萩田備後守は、(小俣から敗走した翌日)21日に越後に帰国しました。」と告げてきたのです。
小俣勢は膳城に火をかけて焼き払って、引き上げていきました。



膳城の落城は、あっけないものでした
城主・膳備中守の最後も具体的には描かれていません。
もう少し、具体的な描写がほしいところです。


女渕城の位置付けも曖昧ですね
膳城主・膳備中守は、上杉謙信の家来萩田備後守に従って、小俣城を攻めたのです。
なのに、奥方と嫡男は三河の徳川家康を頼って落ちて行ってます

作者の思考がちょっと混乱しているようです
それにしても、膳城と別城一郭といわれる山上城については、何の記述もありません
山上城は、江戸時代の桐生では、無名だったのでしょう

 

初稿  2020.04.14

改稿  2025.02.10

 

 

( 膳城兵火の事、付けたり、渋川勢帰陣の事  終 )

 

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