黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

小田原へ出仕せられけるに(野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1)

2024-12-30 20:46:49 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、この冬は昼間も室内犬をしています。

なんとしても、お外のサークルに帰りません

タバサねーちゃんは16歳半で、この冬は室内犬です。

まあ、ひめちゃんだけお外というわけにもいかず、完全室内犬です

さらにファンヒーターの前に陣取ります

そういえば、小次郎パパもちょっと危険でした。

ひめちゃんはもっと危険、ひめの丸焼きができてしまいそうです

子供達が小さい頃は、ストーブガードがありました。

何処にやったっけ?

本日、ホームセンターでストーブガードを購入してきました。

動物は火を恐れるというはずだけど

 

2019年9月の黒柴家族です

獅子丸は実家に帰って3ヶ月です

七海ママ・小次郎パパも、まだ健在でした

 

 


野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 1


去る程に、その頃小俣の城主は足利式部大輔義国公より三十二代の末胤、渋川相模守義勝公と申しけるは、近年北条の旗下になり、武命に随う故、頃は天正十一年癸未(みずのとひつじ、1583年)四月六日、小田原へ出仕せられけるに

さる永禄七年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向、佐野に入り給えば、

桐生城主加勢の為に家老萩田備後守、桐生に遣わす時、

大前村松田川という所にて、小俣の家人萩田が手の者に対して狼藉の振る舞い、

萩田当座に遺恨をはらすべき所に、大事の加勢の門出なれば、後日に遺恨を達すべくむね、則ち小俣家人大沢伊八という者に断り捨て帰りけり。


あらすじです。

その頃の小俣の城主は足利式部大輔義国の32代の末裔、渋川相模守義勝であった。
近年北条の旗下になり、武命に随って、天正11年癸未(1583年)4月6日、小田原へ出仕した。
さる永禄7年(1564年)の夏、越後の上杉謙信関東に下向し、佐野に入って、桐生城主加勢の為に家老萩田備後守を桐生に遣わした。
その時大前村松田川という所で、小俣の家来が萩田の家来に対して乱暴な振る舞いがあった。
萩田はすぐに遺恨をはらすべき所だったが、、大事の加勢の門出であったので、「後日に遺恨をはらす」と、小俣の家来・大沢伊八という者に言い置いて帰った。

 



膳備中守が討ち死にする、小俣合戦の発端です。
小俣領主渋川相模守義勝は、天正11年(1583年)4月6日、小田原へ出仕しました。
その留守を狙って、攻撃が始まるのですけれど、地元の菱(群馬県桐生市菱町)カルタと日付が違います



元亀3年(1572)です
11年も違います

 



あの右手の山が、かつて小俣城があったところです。
今はゴルフ場になっていて入れません

ゴルフ場の現在のオーナーは、あのシャトレーゼだそうです。

 

ことの発端は、さる永禄7年(1564年)の夏、約20年前の出来事です

 

初稿  2020.03.10

改稿  2024.12.30

 

 

(つづく)

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松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

2024-12-28 19:52:44 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です

ひめちゃんは1人散歩で岩神沼まで行ってきました。

沼には薄氷は張っています

凍っていない芦原の付近には、カモさん達の姿がありました

でも、足音が聞こえたのでしょうか

あっという間にみんな飛び去っていきました。

 

2020年7月は、沼田城や沼田榛名神社など沼田方面に行ったようです

その頃の黒柴家族です。

ひめちゃんは小次郎パパとお散歩しています

タバサねーちゃんも元気に獅子丸とお散歩しています

 

 



松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事

去る程に、松嶋式部少輔此の事を、真田弾正方へ早速に申し談ぜん為、同六日に発足して沼田にへ帰着して、先年の例を以て桐生の旗下になるべき由、理(ことわり)を尽くして申し渡しければ、

真田答えていう。去る永禄九年(丙寅、1566)に桐生城主当家にかしづきしより、この方今新田の支配たりというとも、桐生の武役は今当家に勤め来たり。去るによって、向後各々桐生の旗下というとも、なんぞ当家に別心あるべからず。

ねんごろに申されけるによって、式部は暇乞い久留川に帰り、上下喜悦の思いをなし、子孫繁栄したり。



あらすじです。


(黒川衆は人質をだして新田に和睦しました。)
松嶋式部少輔は、沼田の真田弾正へ、さっそくそのことを報告にいきました。
黒川衆は桐生の領主が由良氏になっても今まで通りに桐生の参下でいる理由を説明しました。
真田弾正は、「永禄九年に桐生城主桐生氏が真田の配下になってから、黒川衆はずーっと真田に武役を務めてきた。桐生では新田に従うといっても、真田に逆らうつもりなどあるはずがない。」と理解してくれました。
式部はお別れを言って黒川に帰りました。
黒川衆はみんな大喜びで子孫は繁栄したということです。



 

こんなことは、ありえないでしょう
黒川衆は、由良と真田、両方に従っていて、真田が理解を示すなんて
それに、真田氏の沼田攻略は、天正8年(1580)です
今は天正6年(1578)10月6日です
つい先頃まで、黒川衆は上杉謙信後押しのある里見兄弟を支援していたのです。

どうも作者は、武田びいき、真田びいきのところがあります
なんとかつながろうとして、支離滅裂になっている感あります

松嶋さんも何人もでてきて、混乱しそうです

 

沼田へのルートは、黒川鄕(旧勢多郡黒保根村)からだと、赤城山の北を巡る県道62号線(沼田大間々線)でしょう。

深沢城の少し先、下田沢で国道122号線に別れを告げて左折すると一本道のようです。

かつて途中まで行きましたけど、不安になって引き返しました

 

2020年7月、赤城山の南から西を行く、国道353号線&国道17号線メインのルートで沼田城に初登城しました

天空の城・沼田城跡

 

 

初稿  2020.03.08  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.28

 


( 松嶋式部沼田行きの事、付けたり、久留川城静まる事 終 )


追伸
これから小俣合戦のことで、また膳さんが登場します



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新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事

2024-12-25 19:09:52 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、ここのところしっかり室内犬をしています

誰もいないときには、おかあさんのベッドの上でいびきをかいて寝ているようです

おかあさんがいると、しょっちゅうやってきて、つまらないよ

夕方のお散歩も早めに行って、そこらまでの夜散歩もしています。

 

2020年3月の黒柴家族です

あれ、もしかして獅子くんも左利きだった?

 

ママが雪だらけです

3月の雪だったのでしょう

ひめちゃんの本名「風の衣通姫(かぜのそとおりひめ)」にちなんで植えた、椿の衣通姫と桜の衣通姫にも雪です

 

 

 


新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事


さるほどに、漸く合戦止みければ、同巳ノ下刻(午前11時)に松嶋弥太郎参着して、和睦の趣通じければ、

藤生・金谷伺い状をしたため、江原余右衛門を以て、午ノ上刻(正午)に新田へ早打ちを飛ばしける。

同酉の下刻(午後7時)ばかりに、早打ち陣所に帰り、

御返状のいう、久留川和睦においては子細これなく、三十日替わりに人質を渡すべきと相極め、その地退陣せしむべしとの上意にて、則ち松嶋与四郎・高草木内蔵之助両人を人質相定め、それより誓詞相済み、弥太郎は人質にして、両家の大軍引き払いけり。



あらすじ(大意)です。


ようやく合戦が止んだので、巳ノ下刻(午前11時)に、松嶋弥太郎は由良方の陣に到着して、和睦を申し入れた。
由良方の大将の藤生・金谷は、江原余右衛門を使者にして馬を走らせ、新田(金山城)に指示を仰いだ。
至急の使者は、酉の下刻(午後7時)に帰ってきた。
その返事は、「黒川衆との和睦は何も問題はない。人質を出させるように決めて、あとは陣を引かせるように。」という由良国重の指示だった。
そこで、松嶋与四郎・高草木内蔵之助の二人を人質とすることを決め、誓約書を作った。
とりあえず、(松嶋)弥太郎は人質となり、両家の大軍は引き上げた。



松嶋弥太郎は1人で来たのでしょうか
昨日3人で来た由良方の使者は、結局高草木兵庫たちに殺されてしまいました
ちょっと危険が伴いますね


午前8時に始まった戦いは、約3時間で決着がつきました。
由良方は金山城に指示を仰ぎました。
黒川方は、松嶋弥太郎に全権委任だったのでしょうか

「三十日替わりに人質を渡すべきと相極め」、よく意味が取れません
いずれにせよ、黒川方から人質を出すことが求められたのです。

「松嶋与四郎・高草木内蔵之助両人を人質相定め」とありますけど、松嶋与四郎は松嶋弥太郎でしょう。
松嶋弥太郎と・高草木内蔵之助が、人質に決まったのです

そして、松嶋弥太郎は帰らないで、人質として残るのです。

黒川の本城(深沢城)へは、誰が連絡に立ったのでしょうか?

 

 

 

初稿  2020.03.06

改稿  2024.12.25

 


( 新田へ早打ちの事、付けたり、和談調う事  終 )

 

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引太鼓を討って漸く勢を引きまとい(奈良坂合戦の事、同止まる事)

2024-12-22 20:17:06 | 桐生老談記の世界

風の冷たい一日です。

ひめちゃんもタバサねーちゃんも、一日中おうち犬(室内犬)です。

 

2020年3月の黒柴家族です

ママも元気尾末っ子たちとの(そこらまでの)ちい散歩です

元気はつらつタバサねーちゃんです

小次郎パパ、まだ尻尾が上がってます

 

 

 

 

奈良坂合戦の事、同止まる事


去る程に、和談の使者の立つ事は、其の日の辰ノ下刻(午前九時)なれば、敵味方とも知らざりけり。

かくて寄せ手の両大将、時日の使者を討たれ、無念止む事をえず、これによって、桐生勢、塩原の陣を引いて奈良阪に集まり、新田勢と一所になりて、「この上は短兵急に取りかかり、さんざんのうちに勝負をけっせん」と夜もすがら軍談まちまちなり。

暫くして高草木の一旗は夕方敵の使者を討ち取り、手合わせの合戦に打ち勝ち、重ねて三百騎ばかり催し、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、逆寄せにこそ寄せにけり。

寄せ手の大将藤生・金谷大きに怒り、「夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあう事、かたがた以て味方の油断、大将の軍慮の不足なる所なり。敵河を越させては油断の上のおくれなり。此方より押し渡り、一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡り、渡良瀬川を五度も八度も懸けつかいしつ、花火をもちらし寄せ手の両勢、殊に使者を遺恨をはらさん」と、

新手を入れ替え、追いつまくりつ、いきおもつかずして、三時計り責め立てけり。

或いはくんでおちるもあり。川に流れ水におぼれて死するもあり。

討ち取り、生け捕り、手負い、死人さんざん乱れあり、さまざまなり。

合戦最中なる所に、山中より和睦を乞う由告げ来たり。所に谷々ちり乱したる勢なれば、軍はさらにやまざりけり。

敵味方の大将、引太鼓を討って漸く勢を引きまとい、暫くいきをつきけり。

 



あらすじです。

意味不明の表現もあるので、大意です。

和談の使者の出発はその日(10月3日)の辰ノ下刻(午前九時)だったので、敵味方とも知らなかった。
寄せ手の両大将(藤生紀伊守、金谷因幡守)は、塩原に派遣した使者を討たれ無念このうえなかった。
この事件によって、桐生勢は塩原の陣を引いて奈良坂に集まって新田勢と合流して、「一気に襲撃して勝敗を付けよう」と一晩中あれやこれや相談していた。

高草木兵庫の軍は、夕方に由良勢の使者を討ち取り、手合わせの合戦に勝ち、さらに300騎ほど召集して、明五ツ時(午前八時)に渡良瀬川の岸まで、先手を打って打ち寄せてきた。
寄せ手の大将藤生・金谷は大いに怒った
「夕べには使者を討たれ、朝には逆寄せにあうなんて、油断が過ぎる。渡良瀬川を渡らせたら、とんでもないことだ。由良勢は一千余人の軍兵とも一度に川を押し渡って戦って激戦し、使者の遺恨をはらさそう」と、新手を入れ替えて、ずっと三時ほど責め続けた。

或いは取っ組み合って川に落ちる者あり
川に流れ水に溺れ死ぬ者もあり

討ち取られたり、生け捕られたり、けが人や死人がたくさん出た


合戦の最中に、黒川の本城(深沢城)から、和睦を願うことを告げてきた。
けれども、戦いはなかなかやまなかった。
両陣営とも、大将が引太鼓を打って、やっと戦いがやんだ

 


奈良坂とは、どこでしょう?
神社仏閣ではないので、『大間々町誌』の地図にもありません
『大間々町誌・別巻7石造物編』をつたつら眺めていると、第五章伝承と祭りのある石造物に、「馬持講中の馬頭観音と風の神 所在地塩原字楢坂」とありました

楢坂は奈良坂でしょう


道の一番登りつめたところは、塩原と隣村黒保根村八木原の境になるこの道は、日光・足尾への街道で、銅山街道が設けられる前は、一時足尾から馬の背で銅も運ばれていたときもあり、生活物資なども運んだ重要な街道であった。

桐生からやって来た藤生紀伊守が陣取ったのは、塩原神明社のあたり、新田からやって来た金谷因幡守が陣取ったのは、更に北の奈良坂だったのです。

渡良瀬川を渡って、黒川谷に行ける場所なのです。
だから陣を張ったのですね

高草木兵庫さん、上からの指示ではなく、勝手に戦ってます
戦国の戦いのルールから、はずれているのでは

急に300騎も召集するのは、さぞかしたいへんだった事でしょう。
あの新田義貞だって、生品神社で挙兵した時は150騎でした

明五ツ時(午前八時)って、ちょっと時間的にゆっくりな気がしますけど

渡良瀬川で大乱闘になっていたのですね。

渡良瀬川の東、塩沢(みどり市大間々町塩沢)の奥に、地図では楢坂城跡があります。

大分前に、塩沢の奥から八木原に抜けようと山道を走行してみましたが、途中で道がなくなり、引き返してきたことがあります

地図上では、深沢城から楢坂城まで直線距離で、2kmくらいです。

楢坂城跡から渡良瀬川まで、直線距離で600mくらいです。

 

大乱闘の最中に、和睦を願う使者がやって来たのです
和睦を願う使者が来ることを、両陣営とも知らなかったはずですけど、よく両陣営の大将は引太鼓を打ちました
引太鼓で引き上げるのは、戦国の戦いのルールに従っていますね

 

 

初稿  2020.02.09 & 2020.03.04  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.22

 



( 奈良坂合戦の事、同止まる事  終 )

 

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松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり(久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3)

2024-12-20 20:25:48 | 桐生老談記の世界

あれえ、カバ丸が居ない

朝のお散歩が終わって、ちゃんたちの朝ご飯も済んで、ガーデンパトロールにでたおかあさんが発見しました。

しばらく前に、七海地蔵の後ろの土中から、獅子丸と一緒に埋めたぬいぐるみのカバ丸が出現しました。

ここには、七海ママ&小次郎パパ&獅子丸が眠っています。

チューリップの求婚を埋めてビオラも植えました。

カバ丸は、獅子丸のお部屋に連れ帰ろうか散々迷いましたけど、やはり獅子丸のそばに居るのがいいと判断しました。

ところが、居ない

足跡もない

付近を見ると、50cmくらい離れた、バラアーチの根元にうつ伏せに倒れています。

何者かが、ここまで運んだのかな

疵も付いてなくて良かった。

獅子くんのそばの定位置に戻しました。

 

今日は2019年12月の獅子くんアーカイブです。

実家に蹴って半年、実家の生活を謳歌していたね

 

 

 

 

久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事・その 3

当家の知行は、天喜五年戌酉(1057)、源義家公の御教書を以て拝領せしより此方歳霜五百八十年が間、誠に何方よりも拝領せられたる事なし。

しかしながら桐生は近国の領主なれば、数代桐生の武名に従い来たりし候。

尤も桐生は武田の旗下なるに、尚また其の旗下に随はんこと、心外なれども、古代の例を以て従わんに何の悔やむ事あるべからず。

いらざる我慢の旗を揚げて、大軍を引き請け、数代の家を破滅せしめん事、無益なり。

然るべきは和睦を請い、今度の大軍止めなば、当家繁栄たるべし。」と申されければ、阿久沢どのを初め上下の感心限りなく、松嶋弥四郎を和睦の使者にたてられけり。



あらすじです。

(松嶋式部が)
当家の知行は天喜5年(1057)年に、源義家公の御教書を以て拝領したものです。
それから現在まで580年の間、どこからももらっていません。
しかしながら、桐生は近くの国の領主なので、数代の間は従ってきました。
今桐生は武田の支配下にあるのに、またその下に従うことは心外なことですが、古代の例を鑑みるとたいした問題ではありません。
へたに籠城して滅亡しても無益です。
和睦を願って、今回の大軍を止めましょう。
そうすれば、また当家の繁栄があるでしょう。」と、いう。

阿久沢氏を初めとして、身分の上の人も低い人も、みんな納得して、松嶋弥四郎が使者にたてられた。



黒川衆の領地は、天喜5年(1057)年に源義家の御教書を以て拝領したとされてきました。
しかし、最近はそれは嘘であるという説の方が、一般的になりつつあるようです
黒川衆が、独立性を保つ為に造られた嘘だとか
戦いに敗れ流罪になる安倍宗任(あべのさだとう)に、奥州から上州の黒川谷まで何百人も付いてこれる訳はありません

桐生が武田の支配地になったと、作者は度々いいます。
実際はどうなのでしょうか?
現在の桐生市街にその記憶はないようです

ここでは、黒川衆は、しっかりまとまった一つの家中のように描かれています。
しかし、実際は、もう少しゆるやかなまとまりだったような感じを請けるのですけど


初稿  2020.02.23

改稿  2024.12.20

 

( 久留川一家評定の事、付けたり、和睦使者の事  終 )

 

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