黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

ひめちゃんちの真夏の花々コレクション

2019-08-30 14:36:27 | 日記
七海ママは、朝一番でお散歩に出ました。
あ、ケンくんだ



ななちゃーん



ケンくんが駆け寄ります。



親密なご挨拶を交わしました。
ななちゃん、ケンくんに逢えてよかったね






猛暑というより、酷暑という夏でした
でも、ひめちゃんちには、暑さにも負けずに咲いてくれた花々がありました


オレンジのリコリスです。
遠目にもインパクトがあったようで、「あれ何ですか?」と聞かれました。





黒アゲハがよく来ていました
なかなかシャッターチャンスを捕まえられませんでした



白のリコリスも咲き始めました。





雑草にもめげずに咲いてくれたクレマチスです。





お世話も行き届かないのに咲いてくれた真夏の薔薇です







玉あじさいです。





絞り咲きの桔梗(ききょう)です。





変わり葉のフジバカマです。



葉に斑が入るだけで、花は同じだと思いますけど。



花ではありません。
実です



峨眉山犬枇杷(がびさんいぬびわ)です。
中国の峨眉山に生えている犬枇杷だそうです。
日本の犬枇杷より小さいようです。
濃厚なイチジクという味です。



紫陽花(あじさい)の剪定は7月中にせよという話をききますけど、これから咲く花芽がどんどん上がっている紫陽花です



繰り返し咲きというか、二季咲きというか。



ヒオウギアヤメです。



今年は大きな実も付けました。
種が取れたら撒いてみようかな



今年唯一返り咲いたジャーマンアイリスです。



今日、長野に注文してあったジャーマンアイリスの球根が届きました
みんなの居場所を作るため、草むしり頑張ります
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桐生川紀行総集編(水没した飛駒今倉から移転・大慈山碧雲寺)

2019-08-29 13:52:16 | 桐生川紀行
タバサねーちゃんが動きません。
小次郎パパも付き合います。



しばらくすると、ひめちゃんと獅子丸がやって来ました。



パパ&タバサねーちゃん、ひめちゃん&獅子丸の4名の大軍団(?)で堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台をお散歩します



西の方に、かすかに榛名山が見えます
榛名山の姿が見えるのは、本当に久しぶりです

赤城山は青く見えています



もうキャベツの苗が植えてありました



秋の足音が聞こえます






栖松寺の墓地に地続きという感じで、大慈山碧雲寺(だいじさんへきうんじ)があります。

桐生市仏教会のHPによると、
もともとは上野国山田郡梅田村字二渡の戦場(いくさば)にあった。後に栃木県安蘇郡田沼町大字飛駒字今倉に移った。県境変更により、群馬県桐生市になり、ダム建設により昭和55年現住所に移転した。(非常にわかりにくい記述なので概略です。)


桐生川のこちら(右岸、西側)にあったのが、あちらに移り、またこちらに移転したのですね。
戦場(いくさば)は、桐生川ダム(梅田湖)のほとりにあります。



ここを左に上り県道66号線に出ると、戦場(いくさば)というバス停がありました。
バス停があることは、とてもすばらしことです
新里は桐生市に合併してから、バス路線が廃止になり、それに伴ってバス停も消滅しました



碧雲寺は山の側面をうまく利用して建てられています。






石造物も、持ってきたのでしょうね。




六地蔵は新しそうでした。
不動堂(?)に新旧の不動像がありました。
中央の新しい不動像です。



「桐生川ダム建設移転記念」とあります。
ねずみ取り用の毒団子がおいてあります
まさかお不動様はお菓子でできてるわけではないですよね


本堂には、大わらじが奉納されていました。



桐生市仏教会のHPによると、これは平成6年3月に奉納された、2mのわらじということです。
わらじを奉納することは、足腰の健康、ひいては体全体の健康を願うことのようですね


ご本尊は釈迦牟尼仏ということです。





本堂脇には、白山さまがありました。



それなりの歴史がありそうな白山さまです。

すぐ近くに根本山神宮も引っ越してきてるのですけど、まあ今の時代心配いらないのでしょう。
根本山信仰、白山信仰、ともに修験道だったと思いますけど。
御朱印をいただこうと声をかけましたが、誰もいないようでした



近くを少し散策してみました。



何年か前に柄杓山の本丸跡に登りました。
もしかしたらここを上ったのかな?
城山入り口はここですものね。
でも、根本山神宮も栖松寺跡石仏群も碧雲寺も、まったく記憶にないのです
何年か前でも、やっと通れる感じでした。
車を止めて、あるかなきかの山道を登りました。
何が出てもおかしくないです

桐生市にとって、柄杓山は大切な史跡だと思いますが、ちょっと忘れられている感があります。

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桐生川紀行総集編(栖松寺跡・石幢と子安観音堂)

2019-08-28 23:05:54 | 桐生川紀行
夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、久しぶりに東の牧場の方に行きました。
あれー
ヤギさんたちの姿がありません。
代わりに、りっぱな牛舎が建っています
しばらく前、獅子丸と来た時には、確かにヤギさんがいたのです。



古墳の石はそのままありましたけど、ヤギさんたちの姿がありませんでした






根本山神宮の道の向こうに、古いお堂が見えます



道を横断し、石段を登ります。
栖松寺石幢と白いポールがありました。







桐生市HPによると、6地蔵に阿弥陀如来が一面あるということですけど、ちょっとわかりません。





大永2年(1522)の銘があるとありますが、わかりません。
大永2年は壬午(みずのえうま)です。
昭和49年に盗難にあったが、平成に発見されに現在地に戻されたともあります。
誰が持ち去ったのでしょう
まあよくぞご無事で



石幢の前には、もしかしたら鳥居のようなものがあったかしれません。



礎石が左右にあります。
たくさんの人が、祈りを捧げた場所だったのでしょう



石造物群の脇を上ります。





子安観世音の額がかかります。





石段を上がりきってすぐ右に、子安観音と思われる石像があります。



まるで聖母マリア像のようです



お堂の奥まったところに、子安観音の仏像はおいでのようです。



今のように生まれたこどもが健康に育つのが当たり前ではなかった時代には、人々は必死で祈りを捧げたのでしょう



栖松寺とはどんなお寺だったのでしょう?
大永2年(1522)の銘があるということは、このあたりに栖松寺かどうかはわかりませんけど、仏教的な何かがあったのでしょう
享徳の乱・長享の乱が収束し、関東管領上杉氏と古河公方の影響力が低下し、小田原北条氏が台頭し始めたころです


(昨年10月29日の訪問です。)

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桐生川紀行総集編(黒弊の天狗の里宮・根本山神宮)

2019-08-27 15:14:33 | 桐生川紀行
小次郎パパは、この夏13歳になりました。



最近足腰が弱ってきたようで、あまり遠くには行きたがりません。
タバサねーちゃんは、もの静かだけど、強い意志を持ってます。
パパとタバねーちゃんのお散歩は、タバねーちゃんがリードすることが多いです。
先日、久しぶりに、諏訪神社裏の元蓮田に行きました。
何年も蓮の花の田んぼと親しまれてきましたけど、今年はうなわれて、田植えがされました。
どうなったかな?



蓮田復活とまでもいきませんけど、蓮の花が咲いていました
蓮は強い生き植物です





桐生川右岸の史跡もいくつも訪ねてあります

先日(2018年10月29日)、梅田の碧雲寺(へきうんじ)目指して出かけました。
地図を検索すると、すぐ近くに根本山神宮と栖松寺石仏群があります。

県道66号線を北上しカインズホームを過ぎてしばらくして、碧雲寺の表示で左折します。
大きなカーブを曲がると、神社が出現しました
駐車場らしき場所はありません。
隣のNTTの交換所にちょっと失礼します。



社殿は山の方を向いています。

個性的な粉犬です





どちらも口を開いているように見えます。
どちらも子供を抱えているように見えます。



向拝には龍がいます



根本山の額がかかります



あ、天狗です



こういう世界がまだあったんですね
しっかり二礼二拍一礼でお参りしました。



邪鬼が灯籠を支えていました。



お疲れ様。



南に見えるのは柄杓山方面でしょうか?





左手を下がると石の鳥居がありました。



本来は下から参詣するようです。
今日は裏口から参詣してしまったようです



社の裏手に「大山祇神(おおやまつみのかみ)」と大きく刻んだ石造物がとありました。
大山祇神は、山をつかさどる神様です。



今までまったく知らなかったのですが、この神社は江戸時代後半に盛んだった根本山信仰の根本山の里宮だそうです


桐生の民話「黒弊の天狗」では、
この神社は由良氏との合戦に敗れた桐生氏の将兵が自刃した奥方様や戦いに散った同輩たちの冥福を祈って、天正元年(1573)に創建したもので、弘法大師登山の伝説をも残している
とあります。

あらすじは、
ある夜、村の居酒屋に男が現れ一升の徳利に三升の酒を所望した。不思議な事に一升の徳利に三升の酒が入った。男は、自分は黒弊の天狗である。今から江戸の大火を消しに行くところだと言った。黒装束に身を固めた男が大活躍をして人々の難儀を救った。


里宮として設立された大正院は、桐生川ダム建設で現在地に移転したということです。
もともとの里宮は水没してしまったのですね。
そうだったのですか


「コラム58根本山信仰の跡を辿る」では、
根本山神社の歴史は古く、鎌倉末から室町期に桐生城の北の守りとして祀られていた山神が、その発祥であろうと伝えられている。戦国末期の天正年間に天台宗派修験の霊場として開山され、別当として大正院が置かれた。~中略~明治以降は、神社の社地も、その信仰も縮小したが、興味深い話としては、根本山では博打が盛んにおこなわれたということである。



そうだったのですか


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桐生川紀行・根本山への道

2019-08-26 14:56:26 | 桐生川紀行
朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て高縄の集会所を廻って帰りました。
集会所の近くで、獅子丸がしつこく吠えました
バイクに乗ったおじさんがやって来て、追い越していったのです。
獅子丸には、不審者にみえたのでしょう。



ひめちゃんは、反応しませんでした。

おじさんは、田んぼの見回りをしていたのです。
田んぼの稲も、次のステージに行きそうです
案山子(かかし)が出現したのは、まだ一ヶ所だけですけど。





石鴨天満宮の駐車スペースに戻ります。



この道をはるばるとやって来たのです
まだ上流に山道は続いているようです

どこに行く道でしょう?

もう少し車で行けるかな
でもデータ不足、お天気も心配、ひめちゃんたちのお昼も心配

捲土重来を期して、ひとまず退却です。



心細いながらも帰りは気持ちの余裕があります


お寺があります
小さいながらも、きちんとしているようです。



山号は読み取れませんけど、長谷寺とあります。

脇の石造物もそれなりの品格です。



本堂もこじんまりして落ち着いた品格です。
本堂に続いている庫裏はしっかり閉まっています
無住のようです



本堂脇の山際には、朱色のキツネノカミソリが見えました



さて、また山道を下ります。

梅田の民話があります



蛇留淵はどこでしょう?
三境山はどこでしょう?

近くだと思いますけど、とりあえずここの桐生川です。





けっこう激しい流れです


やっと梅田ふるさとセンターです
ちょっと、一休みです。


付近の地図があります





この道の行く先は、根本山(ねもとさん)だったのです。

ウィキペディアによれば、
根本山神講(ねもとやまがみこう)は、由良氏との合戦に敗れた桐生氏の残党の手によって、天正元年(1573)に起こされた講である。根本山を神体とし、本地仏に薬師如来を迎え、大山祗命・大山咋命の山神を祀る。根本山の山気に浴して山霊を鎮魂することで神通力を得、心身の苦難を排除できるという民間信仰である。江戸時代には参詣案内所が発行され、関東から東北方面にかけて広く信者が集うほどの盛んな講に発展した。



「由良氏との合戦に敗れた桐生氏の残党の手によって」は、ちょっと疑問符がつきそうです。
でも、江戸時代には、この道を根本山目指して多くの人が登っていったのです
だから、道祖神があったり、石造物があったりしたのです

今度は根本山への道という意識で、捲土重来を期します

根本山の里宮には行った事があります

桐生川紀行の左岸の世界は、総集編としてほとんどアップしました。
右岸の世界も、yahooブログにいくつもあります。
消えてしまう前に、桐生川右岸の世界もアップしておきましょう

次回は、「桐生川紀行総集編(黒弊の天狗の里宮・根本山神宮)」です










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