黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その4(この三人の封印なき書類通披見すべからず)

2024-08-29 14:31:24 | 桐生老談記の世界

雨雲レーダーの予報は、振り出し時間がどんどん遅くなります。

最近、ワガママ全開のひめちゃんは、「アタチ挟まってまふ」をしそうな雰囲気です

なんとかしてテラスのサークルから出ようとして、頭は出ても、どこかが挟まってしまうのです

 

2020年の8月、ひめちゃんは獅子丸と、岩神沼によく行きました。

まだ演技派女優も開眼前です

 

県道の東の僕所にもよく行ってました。

黒毛和牛の牧場だけど、ヤギさん家族が暮らす一角がありました。

いつのころだったか、何か毒物を与える人がいたらしく、ヤギさん家族は絶滅してしまいました

 

 

 

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その4(この三人の封印なき書類通披見すべからず )

同十九日藤生紀伊守、縁者斉藤丹後方へ内通され、即ち津久井和泉も同心にて、

同二十一日、津久井、斉藤ひそかに新田老中彦部加賀、中里若狭、関口尾張こ三人に引き合わせ、内談極め桐生の家中、岩間甚五兵衛、中嶋弥右衛門、野口主馬この三人は津久井、斉藤が為、親類二心なき者なれば、兼ねて内談内通の役人に定め、たとえば如何様なる急用あるとも、この三人の封印なき書類通抜披見すべからずと堅く約束をいたし宛て、各々暇乞いして立ち別れ、時をうつして待ちたりける。



あらすじです。


(6月)19日に、藤生紀伊守は親戚の斉藤丹後方に内通しました。


津久井和泉も一緒に内通するというので、21日に、津久井と斉藤は、ひそかに新田老中の彦部加賀・中里若狭・関口尾張の三人と
逢いました


岩間甚五兵衛・中嶋弥右衛門・野口主馬の三人は、親類で二心(ふたごころ)のないものであるので、内談内通の役人にしようと決めて、「どんな急用があっても、この三人の封印なき書類は通したり披露したりしないようにしよう」と、固い約束をして別れ、じっと時が来るのを待ちました



元亀3年(1572)6月16日に、暑気払いで集まって、藤生紀伊守に桐生家中の親類への内通指示が出ました
19日に、藤生紀伊守は親戚の斉藤丹後に「ひそかに桐生家を裏切って由良家の見方になって」と連絡しました。
津久井和泉も一緒に由良方に内通すると言うことで、斉藤・津久井とひそかに新田老中の彦部加賀、中里若狭、関口尾張と会談したのです
まあ、迅速な行動でしょうか
またその席で、岩間甚五兵衛、中嶋弥右衛門、野口主馬の三人は斉藤・津久井の親戚で信用できる者だから、内談内通の役人にしようと決めました
そして三人の封印なき書類は没にすると決めたのです
この三人を通して、さらなる内通者を受け入れたのでしょうか?

官途名の付いた人名がいっぱい出てきました
藤生紀伊守、斉藤丹後、津久井和泉、彦部加賀、中里若狭、関口尾張。

斉藤さん津久井さんは、桐生氏から官途名をもらったのでしょう。
彦部さん中里さん関口さんは由良さんから官途名をもらったのでしょうか?

もちろん正式な官位ではなけれど、いちおう家中では箔がつきます
戦国時代は、同じようなことがどこの家中でも行われていたということです


「三人の封印」ということが、どういうことかよくわかりません
戦国時代の文書もむき出しではなく、封筒ではないけれど、似たような状態に紙に包まれて届けられたはずです。
けれども、文書は残っていても、包んでいた紙は見かけません
どういう風に封がしてあったのでしょう

 

前章「里見系図付けたり落城のこと」で、

里見入道が石原兄弟をつれて仁田山城を去った後、大貫佐兵衛をはじめとした人々は、「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々を喜ばしめん」と、桐生勢を待ち受けた

とありました。

でも、まったく違う価値観の世界です。

由良氏に内通して生き残ろうとした人々こそ、本当の姿に近いでしょう。

 

 

初稿  2019.07.31  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.29

 

( 由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・終 )

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その3 (御茶の会、酒宴事終わりて)

2024-08-28 20:43:04 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんには、最近「演技派女優」なんて、陰口がささやかれています

寒くないのに震えたり、たいしたことないのに行きも絶え絶えの演技をするのです。

5年前、7歳のひめちゃんは天真爛漫だったようです

でも、6月に7年間養子に行っていた獅子丸が帰ってきて、ちょっと考える犬になっていたかな?

 

 

 

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その2

 

則長公これを聞き、

「それがし兼ねて左様に存じ候えども、佐野と一家のことなれば、後日に必ず兵乱を起こし、国の難渋に及ばん故、延引いたしよく思案なされてしかるべし」と、おおせられければ、

折節、御一門には横瀬勘九郎、由良能登守、桃井内膳正、岩松千代、脇屋三右衛門佐、

御次には、大沢下総守、林越中守、鳥山伯耆守、高橋隠岐、彦部加賀、御医師方には、荻野養意、田中隆庵いずれも御持成し成の為に、相詰めたる折節なれば、

大沢下総守申されけるは、「紀伊守は桐生に縁者候えば、内通の儀、仰せられ然るべし」と申し上げけるに、直ちに紀伊守へ仰せつけらる。

斯くてその日、晩景に及び御茶の会、御酒宴事終わりて各退出なられけり。



あらすじです。

由良成重(成繁)は、暑気払いで一家や重臣が集まった席で、桐生又次郎を追放して桐生を手中に収めようと作戦会議をします。


弟の(長尾)則長は、「自分もかねてからそう思っていたけれども、桐生氏は佐野家と一つの家なので、追放した後、佐野勢を連れて巻き返しにでて、こちらが苦戦しそうなので、先延ばしにしてよくよく考えたほうがよいでしょう」とおっしゃったところ、

ちょうどご一門では横瀬勘九郎、由良能登守、桃井内膳正、岩松千代、脇屋三右衛門佐がいて、

御次には、大沢下総守、林越中守、鳥山伯耆守、高橋隠岐、彦部加賀がいて、

御医師方では、荻野養意、田中隆庵ともに患者がいなかったので、ちょうど此の席にいたところ、

大沢下総守がいいました。「藤生紀伊守は桐生に縁者がいるので、内通の儀を仰せつけるのがいいでしょう」と。

そこで、ただちに藤生紀伊守に内通作戦を実行せよとの命令がくだった。

かくてその日の夕方、お茶会と酒宴が終わって、みんな退出された。

 



酒宴だけでなく、お茶会も開かれていたのです

戦国武将は茶の湯を好んだといいます。
由良家中も、例外ではなかったのです

 

今年の6月6日、最終回の鄕右衛門忌がありました。

上野国山上、赤城山常広寺の開基・本橋院殿(山上鄕右衛門顕将)の命日に、ささやかなイベントが続いていました。

とりあえず今回で最終回と言うことで、常広寺と縁の深い銘酒「七ッ梅」の利き酒も行われました

さて、その容器に困りました。

そこで、我が家にあった、紫陽花の抹茶茶碗を使用しました

二胡の演奏に来てくれた1人が、利き酒の後、「私は新潟の生まれで、お酒大好きです。」と言って飲み干してくれました

その後、いろいろあって、抹茶茶碗の事は忘れてしまいました

先日、常広寺に行ったとき、「忘れもの茶碗どうする?」

大黒さんは、「私のお茶の先生は、90歳だけど、お茶のおかげで元気です。兄弟がみんな糖尿病なのに、彼女だけ、お茶をやっていて元気です。お茶は身体にいいみたいよ。うちでも時折点ててます。」

「喜捨します

我が家には、使ってない抹茶茶椀が結構あります。

我が家も、簡単お茶席しようかな?

 

 

初稿  2019.07.26  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.28

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その2 (新居、茂木に内通し)

2024-08-26 21:44:35 | 桐生老談記の世界

朝は小雨の中のお散歩でしたけど、昼間はカンカン照りになりました

今日もお風呂場で簡単おうちシャンプー(行水)です。

夕方のお散歩は、日が落ちての6時過ぎになりました。

 

2019年の8月、獅子丸が実家に帰って2ヶ月が経ってます。

獅子丸はひめちゃんと仲良くお散歩しています

 

 

 

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その2(新居、茂木に内通し)


成重は仰せられけるに、

「まことに短気の振舞いかな。定めて又次郎殿、野心思い急に兵乱に及ばんこと気の毒なり。尤も当時桐生の家中、新参古参あらそいにて、家中騒動に及び、津布子、山越が非道の仕置きに依って、上下別心なる由、あらましその聞こえこれあり。近国にその隠れなければ、自然と沼田、館林より手を出さば、悔いてもかいなし。其の程も心もとなし。新居、茂木に内通し、事の子細を聞き届け、既に桐生を追放し領分にいたし申すべし。此の方より許し置くとも、左程家中騒動に及べば、滅亡には近かるべし。おのおの此の席に軍慮を廻らし申すべし」と仰せありければ、


あらすじです。

成重は言いました。
「桐生又次郎のとった行動は、まことに短気の振る舞い、思慮に欠けるものであった

今桐生家の家中は、新参の家臣と古参の家臣が争って、家中騒動になり、津布子、山越の非道の仕置きに依って、上下の心が分かれているということは、かねてから言われている。近隣の国もみんな知っているので、沼田や館林から手を伸ばされれば、悔やんでも仕方の無いことだ。少しの間も心配な事だ。

新居、茂木に内通し、事の子細を聞き届け、桐生又次郎を追放し、由良の領地にしてしまおう

ほおっておいても家中で騒動が起こったら、まもなく滅亡するだろう

皆の者、この席で戦略を廻らそう」と、おっしゃったところ、

 



暑気払いの宴会の席が、急遽軍事作戦の会議になりました
「新居、茂木に内通し、事の子細を聞き届け、桐生又次郎を追放し」とあります

桐生家の家中の、新居さんと茂木さんは、由良さんに内通していたのです

茂木さんは、どの茂木さんかわかりません
もぎさん?もてぎさん?

新居さんは、桐生六郎の子孫の新居さんですね。
主人足利俊綱を謀殺し源頼朝に首を届けたけれど、御家人に列することはかなわず断罪されたといいます
桐生氏は桐生郷をとする本貫とする秀郷系藤原氏で、戦国期に佐野一族が入部して桐生氏を称すと新居を名乗ったといいます
しっかり生き抜いてきたのです



『群馬県の中世城館跡』(群馬県教育委員会1988、no214丸山の砦)に、桐生市堤町の新居屋敷があります。



右の方に新居屋敷があります
左の渡良瀬川から新川堀が引かれています。
丸山の砦のあたりには、現在、白鬚神社(しらひげじんじゃ)があります

桐生六郎の記憶(白鬚神社と新居屋敷)

新居屋敷のあたりは住宅地です。
この縄張り図のあたりは、時折通ってます

 

初稿  2019.07.13 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.26

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その1 (元亀3年6月16日)

2024-08-22 22:32:56 | 桐生老談記の世界

強い日差しはありませんでしたけど、暑い暑い一日でした。

こんな日は、雪の日のひめちゃんに登場してもらいましょう。

2022年の2月18日、ひめの10歳のお誕生日は大雪でした。

 

 

 

 

大雪の中を、タバサねーちゃんと元気にお散歩しました

 

 

 

 

由良長尾会合の事付けたり水論注進の事・その1 (元亀3年6月16日)

前章の最後でいきなり武田信玄が出てきました。
まったく信玄関係なく、次の章が始まります

去る程に、其の頃、足利、館林両城は長尾但馬守平秋長領地なり。然るに男子なくして、由良家より養子をもらい請け、長尾新五郎平則長と改め、足利に据え置き、後に下野守と受領す。扨(さて)但馬守、館林に在城なり。元亀三年(壬申、1572)六月十六日、甚暑の振舞いとして則長公、新田へ御入りなられ、御揃いなるさ最中の折、藤生紀伊守、高橋丹波参仕し、関の水論の初中後を訴えければ、上下人々驚きにけり。



あらすじです。

そのころ、足利城・館林城は、長尾但馬守秋長の領地でした。
ところが彼には跡継ぎとなるべき男子がいませんでした
そこで由良家から養子を迎え、長尾新五郎則長と名を改め、足利に在城させ後に下野守を名乗らせます
そして但馬守自身は、館林城にいました。
元亀三年(壬申、1572)六月十六日、甚暑の振舞い(暑気払い?)のために、新田(金山城)へお入りになった
みんながそろっているところに、藤生紀伊守、高橋丹波が参上して、関の水論のいきさつを語ると、身分の上下にかかわらず驚いたという事であった



前章では、藤生紀伊守・高橋丹波守が派遣されたのは、元亀2年です



足利城とは、観農城のことですね。
2018年の9月に行って来ました
足利長尾氏の居城・観農城は、渡良瀬川沿いにありました
県道67号線でひたすら東に行き、福寿大橋を渡ります


山腹には観農城跡のポールと説明板があり、なんと赤城神社がありました

 

 

 

初稿  2019.07.08 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.22

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見系図の事付けたり落城のこと・その9 (永禄九年桐生も武田信玄の手入り)

2024-08-20 22:03:32 | 桐生老談記の世界

ここのところ、ひめちゃんちの近所でもイノシシが出たと騒ぎになってます。

狐が出た、鹿も出たという話もあります。

暑すぎて「山に食べ物がないのかなあ」なんて声も聞かれます。

暑すぎる日々ですけど、ひめちゃんもタバサねーちゃんも、しっかり食べています

 

雪の日の写真を探していると、ひめちゃんが大好きだったケンくんちに寄った写真が出てきました(2020年1月)。

ひめちゃんの忘れられない恋の記憶です

それ以上のことはなかったけれど、ひめちゃんは大満足でした

 

 

 

里見系図の事付けたり落城のこと・その9 (永禄九年桐生も武田信玄の手入り)

誠に強き勢いに止む事を得ず、天正五年(丁丑1577)正月十六日、境野村三津掘にて廻り合い、荒巻、高橋互いに瞋言(しんげん)一思いの強き火を起こし、ともに刃に命を投じ、名を末代に残さんと互いに魂魄(こんぱく)を永く修羅のちまたにあらそうこそあさからざりし因果かな。

伝に曰く、新蔵と申すは荒巻式部が父伝蔵が妹婿なり。風間伊之助が次男なり。然るに風間、類家多し、荒巻は類なきにより、母方の所望にまかせ、荒巻を更しさらに五貫文の地を分地を与えて、類家の分ひらかするという。また荒巻、佐下橋の腹ともいう。非なり。是れ実せつなり。また新蔵と申すは、茂木馬之丞が婿なり。

永禄九年(丙寅、1566)に桐生も武田信玄の手入り、翌年春、軍役に依って伝蔵甲州へ渡る。

信玄の家中、荒巻田舎共に手詰まりに打ち勝つ事、信玄の御恩に預かり、誠に小家より出て世にしられたる勇士なりと云う。



あらすじです。

天正5年1月16日に、境野村三津堀で、荒巻と高橋が命を懸けて火花を散らしたのは、誠に浅くない因果でした。

記録によると、荒巻新蔵とは、荒巻式部の父伝蔵の妹婿です。風間伊之助の次男です。風間家は親類が多く、荒巻家は親類が少ないので、母方の希望によって、荒巻を名乗りさらに五貫文の土地を分け与えて、開拓させたそうです。また、荒巻は佐下橋家の出だともいいますが、そうではありません。こちらが本当です。

また、荒巻新蔵は茂木馬之丞の婿です。

永禄9年(1566)に桐生も武田信玄の支配下に入り、翌年の春、荒巻伝蔵は甲州に行きました。信玄の家中で活躍したということです。

 


「風間、類家多し、荒巻は類なきにより、母方の所望にまかせ、荒巻を更しさらに五貫文の地を分地を与えて、類家の分ひらかするという。」ということは、本来だったら風間を名乗るはずですけど、荒巻家を増やしたいということで妻の苗字を名乗ったのです。

「また荒巻、佐下橋の腹ともいう。非なり。」
佐下橋(さげはし)という苗字はめずらしいですね
そして、なんと群馬県桐生市に多いんだそうです

「また新蔵と申すは、茂木馬之丞が婿なり。」
荒巻家出身の妻の死後、再婚したのが茂木馬之丞の娘だったということでしょうか?

「永禄九年(丙寅、1566)に桐生も武田信玄の手入り」
こんな話初めて聞きました
この事実はないですよね
永禄9年9月、武田信玄は、箕輪城を攻略し長野家を滅亡させていますけど。
作者には武田信玄に対するあこがれのようなものがあるのでしょうか?

でも、あの里見兄弟の父・里見入道は

武田信虎に横領せられ、天文三年甲子の春、桐生に浪人なられし所、桐生殿日頃御念頃になられ、殊に新田の□伝お頼もしく思し召して、桐生搦手の押さえの為に、赤萩へ在城せられ

とあったように、武田信玄に元の領地を追われ、桐生へやってきたのでした


「翌年春、軍役に依って伝蔵甲州へ渡る。信玄の家中、荒巻田舎共に手詰まりに打ち勝つ事、信玄の御恩に預かり、誠に小家より出て世にしられたる勇士なりと云う。」
桐生から甲州に行って活躍した荒巻伝蔵、ウーン、ありえない話だと思うんですけど

里見兄弟の話に、なかなかたどりつきません
ストーリーが見えなくなってきました

 

 

初稿  2019.07.04 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.08.20

( 里見系図の事付けたり落城のこと  終 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする