黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

国重公立腹して久留川責め軍評定の事・その 1

2024-11-29 21:04:00 | 桐生老談記の世界

今朝ひめちゃんは、久しぶりに赤柴のラッキーくんに逢いました。

でも、あっさりとご挨拶しただけでした。

ひめちゃんは、今でもケンくんが好きなようです。

 

2020年の1月のある日、ひめちゃんはケンくんちに寄りました。

基本的に獅子丸とお散歩していたと思いますけど、この日は一人散歩だったのかな?

ひめちゃん大満足の寄り道でした

 

 

 

『桐生老談記』新しい章です。

国重公立腹して久留川責め軍評定の事・その 1

去る程に、由良国重公老中を集めて仰せられけるは、

「近年久留川の阿久沢、松嶋は武田に隨身仕り、即ち武田の代官真田方へかし付き候由聞こえこれあり。先年は桐生の旗下なる所に当家より桐生を乗っ取りしより以来、この方の武功を軽しむる段きつたへ(?)わへなり。先年の例を以て当家の旗下に着くべき」と仰せられしかば、老中の内に紀伊守、承って云う。


あらすじです。

そうしているうちに、由良国重公は、重臣達を集めて言った。
「最近黒川衆の阿久沢と松嶋は武田に隨身して、武田の代官真田にかしづいているというではないか。
以前は桐生の旗下だったのに、当家(由良家)が桐生を領有してからは、桐生領主を軽く見ている。
桐生の領主たる当家(由良家)に随うべきなのに。」とおっしゃったので、
重臣の中の、藤生紀伊守が答えた。



老中とは、江戸幕府の職名です。
まあ、国務大臣くらいの感じでしょう
藩によっては、家老のことを老中といったということですから、ここは重臣くらいの意味でしょう

独立性の強い黒川衆は、由良氏に容易に随わなかったのです。
上杉謙信の死の翌年、天正7年5月6日、北条氏政は由良国繁にこれまでの由良氏の協力をねぎらって、深沢・五蘭田・高津戸・膳・赤堀の五ヶ所の城を預け置いた(『大間々町誌通史編上巻』)といいます

あれ、山上の山上城がありません
これは、大変です

 

初出  2020.01.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.29 

 

 

(つづく)

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久留川城主系図の事、付けたり、武田に随見の事

2024-11-27 21:55:13 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はお外のお部屋(サークル)でひなたぼっこです

暖かい日差しで、ひめちゃんはお昼が配られても気がつかないほど、熟睡していました

 

2020年1月の黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って半年です

実のママ・七海と再び暮らせたことは、獅子丸にとっても楽しかった事でしょう

 

 

 

『桐生老談記』、新しい章です。
久留川城主系図の事、付けたり、武田に随見の事

去る程に、其の頃上州勢多郡久留川の城主、阿部頼時の次男栗谷川次郎貞任末孫、阿部能登守平正住と申しける。

同鳥海弥三郎宗住が末孫、松嶋式部少輔と申しける。

此の両家は先年より桐生の旗下なりしが、新田領分となりしより出仕不参いたし、諸役も務めずして、武田の代官沼田城主真田弾正方へ隨身して、今勝頼の代まで武役を務めかしづき給いけり。

 


あらすじです。

そのころ、上州勢田郡久留川の城主は、阿部頼時の次男栗谷川次郎貞任の子孫、阿部能登守平正住と申しました。
また、一方の城主は、鳥海弥三郎宗住の子孫、松嶋式部少輔と申しました。
この両家は、かつては桐生の旗下でしたが、新田領分となりてからも出仕しないで、諸役も務めないで、武田の代官沼田城主真田弾正方へ隨身して、今の勝頼の代まで武役を務め随っていました。



久留川(くるかわ)は黒川(くろかわ)です。
渡良瀬川上流、現在のみどり市東町・桐生氏黒保根町には、黒川衆とよばれる人々がいました
小さいながらも独立した勢力でした

彼らは、
源義家に投降した阿部宗任が京都に送られるとき、旧主を慕って蝦夷数百人がここまで着いてきた。
義家は阿久沢・松嶋ら90人だけを京都と奥羽の連絡のためという名目で黒川山中に残し、他は帰国させた。
そんな伝承を持っていました。


ところが、それは創作であったようです
彼らが独立した勢力であり続ける為に、他の勢力に対するために創作されたとか。

確かに何百人もの蝦夷の移動なんて許されるはずもなく、なぜここに京都と奥羽の連絡役を置くのかもよくわかりません。
でも、最近までというか今でも多くの人が信じています
『桐生老談記』の作者も、もちろん信じていたのでしょう。

戦国時代、黒川谷にはいくつかの城があり、その中の代表格が阿久沢氏と松嶋氏でした
ここでは、阿久沢氏は阿部貞任(あべのさだとう)の子孫、松嶋氏は鳥海弥三郎の子孫と書かれています
ここでは、鳥海弥三郎とは阿部宗任(あべのむねとう)という解釈のようです。
鳥海弥三郎と阿部宗任は別人ともいいます。

 

黒川谷には、阿部宗任を祀った鳥海(ちょうかい)神社があります

黒川谷の鳥海神社

隣には大蒼院があります。

獅子丸が7年間養子に行っていた元獅子丸家が開基という常広寺の実質的開山・常広院殿が、若き日に開山した寺です。



黒川谷は、上杉謙信の越山の通り道になります。
厩橋(前橋)を通らずに、関東平野にでられるのです
さまざまに関わりをもったのは、武田ではなく上杉です



( 久留川城主系図の事、付けたり、武田に随見の事  終 )

 

 

初稿  2020.01.02   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村」

改稿  2024.11.27

 

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里見兄弟の物語総集編・高津戸ろまん

2024-11-25 20:33:30 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、今朝は久しぶりに諏訪神社の向こうの高台を突き当たりまで行って、山上城跡公園を廻ってきました。

朝ご飯の後、二度目の朝散歩をして、お外のお部屋(サークル)に帰ります。

外のお部屋で、暖かい日差しに熟睡です

寒くなったけれど、日光浴はなるべくしようね

 

2019年4月の黒柴家族です。

獅子丸かと思いきや、ひめちゃんです

獅子丸はまだ実家に帰っていません。

ひめちゃんは、けっこうタバサねーちゃんと行動していたのです。

どこかと思ったら、ひめちゃんちの畑でした。

5年前、ふたりとも若かったね

 

 

 

里見兄弟の物語まとめです。

里見兄弟の物語総集編・高津戸ろまん

里見兄弟の墓といわれるものが、高津戸城址の少し下流にあります。


古い説明板です。



山田氏については、よくわからないようです
山田川も流れ、山田郡も長いこと存在したのですけど
高津戸城趾のある大間々町は、この間まで唯一の山田郡の自治体でした

「仁田山里見氏を頼ってきた、房総里見氏の里見上総介勝広」とあります。
仁田山里見氏なんていたっけ
里見パパは甲州の人でしたね

「里見兄弟は、天正5年(1578)5月、上杉謙信の援助で高津戸城を再興した。」
ええ、違います
彼らは、天正5年9月2日に、黒川郷にやって来たのです。
黒川衆の阿久沢さん松嶋さんが援助して、天正6年春、高津戸城が完成したのでした

『桐生老談記』では、9月17日に、新田桐生の由良連合軍が、高津戸城を攻めてます。
その夜、里見勢が用命砦を攻めています。

参考にした資料が違うのでしょうか?


『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)では、

このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。


はっきり言うと、里見兄弟の話は創作だという事になりそうです
いわば、「高津戸ろまん」なのです。
大間々歴史博物館でも、最近は里見兄弟のビデオは上映してません。

ろまんろまんを生んでいくようです。
里見兄弟の戒名が刻まれている供養塔です



理王院殿高誉勝政大居士、義光院殿勝安大居士?
変だぞ、名前がそのまま戒名に入ってる

ここ阿弥陀堂の縁日には、中の阿弥陀様をご開帳するようです。



いつかその時に参拝したいものです

(2024年4月7日、行ってきました

高津戸・阿弥陀堂祭典



阿弥陀堂のそばには、「高津戸の渡し」がありました。



高津戸村と大間々村は、渡し船によって結ばれていたのです。
今よりズーと多い水量だったことでしょう。
渡良瀬川を渡って攻めるのは難しそうです

高津戸城址は、人々に「高津戸ろまん」をかきたてる場所なのです
ひめちゃんちのある山上も、人々に「山上ろまん」をかきたてる場所なのです。

あれそういえば、『桐生老談記』に上野国山上の山上氏は、まだ一度も登場していません
このあと、膳氏は何度もでてきます
山上さん、登場するかな

 

初稿  2019.12.28   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.15

 

 

( 里見兄弟の物語総集編・終 )

 

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里見兄弟の物語総集編・その 2

2024-11-23 20:23:10 | 桐生老談記の世界

昨夜は、小次郎パパの夢を見ました

コジくん、会いに来てくれたんだね

ありがとう

小次郎パパが16歳と5ヶ月で逝ってから、もうじき2年です。

 

本日は、2020年12月、小次郎パパのアーカイブです

パパは14歳半、まだまだ元気でした。

 

 

 

里見兄弟の物語総集編続きです。
(里見入道は石原兄弟を連れて仁田山城を落ちます。)

「大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎」など、大貫を中心に、約20名が籠城です。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」と、待ち構えます。


桐生勢が辰の刻(午前8時前後)に打ち寄せます。


里見入道が攻められる理由は、「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意」です。
死もの狂いで戦っても勝ち目はなく、大貫一家が討たれて敗戦が決定してしまいます。

総大将の山越は勝利を喜んで、桐生親綱の御前に参上し合戦の様子を報告します。
親綱は「和睦の道もあったのに戦を戦死者が出たのは残念だ。大貫一族は大剛のものなので、生け捕った源左衛門は首をはね、一族みんな獄門に懸けよ。里見入道には自害を申しつけよ。」と指示します。


家臣たちは指示に従い、源左衛門は荒戸村鷺沼の岸で首をはね、親子兄弟の首は桐生峠にて獄門にかられました。
其の日の夕方(酉の刻)に、清水喜太郎を御使者、森下森下作弥御見使として、里見入道に自害が申し付けられました。
首は石原兄弟がもらい受けて供養ということにします。


入道は仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきであったのに、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事は世間でいわれても恥ずかしきことでありました。
石原兄弟は桐生家の直臣になり、養命の出城をまかされました。

その後、桐生氏は渡良瀬川の水争いがもとで、由良氏に責められ、柄杓山城を退去させらます。

越後に行った里見入道の子ども、里見随見勝正と兵四郎勝安は、桐生騒動の話を聞いて、たいそう無念でした。
この上は、まず故郷に帰って、父の仇を討とう思いました。
思っているだけでなく、浪人百人と、君臣三世の約束をして、時を待ちました。。


こうしているうちに、黒川衆の頭、松嶋・阿久沢氏から、早々に帰国するように連絡があります。
松嶋・阿久沢氏は兄弟と昵懇(じっこん)で、越後方も黒川衆に内通していたのです。
謙信公に暇乞いをして、馬具・金銀等をもらいます。。
譜代の家来と契約した家来をかれこれ引き連れて、天正5年(1577)9月2日に桐生黒川にやって来て、松嶋・阿久沢氏に対面しました。

里見兄弟は、松嶋・阿久沢両氏から、高津戸の先の古城を使うようにアドバイスされます。
ここは山田氏が居城していたけれど、観応2年(1351)に桐生国綱に亡ぼされています。。
それから長い年月がたったけれど、石垣も崩れず要害です。
黒川衆の協力で、天正5年9月から翌春まで普請して完成です。

兄弟は直ちに籠城し、武具や兵糧もしっかり準備ました。


また、桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父です。
また、飯篠長閑は、里見の元舅で今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守の妹です。
先年細川攻め時、津布子・山越の讒言に依って軍功が立てられなかったことを悔やんで、共に西上州小幡の尾張守に仕えました。
縁者の誼(よしみ)で今回の兄弟の帰国に力を添えるため、桐生家中小曽根安芸に内通しました。
安芸も同心、先年の朋友に回文をまわしました。

天正6年(1578)の春、前年から普請していた高津戸城が完成しました。
兄弟はおおいに喜びます。
越後の上杉謙信もよろこんで、西上州伊勢崎を高津戸の知行とします。
里見家の栄花は二度花開いたのでした。


けれども、兄弟は父の仇を討たなければ本望であろうか。
先ず、讒言をした津布子刑部に恨みを晴らそうとしました。
天正6年4月5日、下野国佐野に赴いて様子をうかがったけれど、思うような情報は得られなかった。
そのころ秋山(佐野市北部)に遠藤織部という者がいました。
彼は以前から昵懇(じっこん)の仲だったので、彼の家に寄り、津布子に仇討ちをすることを語ります。
遠藤は、「津布子は難病を患って人前に出られない。どうか許してやってくれ。」と、たって頼みます。
兄弟は、「それが本当ならば、そうしよう。」といって帰ります。

里見兄弟は、津布子刑部を討とうとしたけれど、遠藤のいさめによって諦めました。


そうこうするうちに、高津戸城に越後勢が応援にやって来ます。
兄弟は大喜びして、石原一家を打ち亡ぼし父の恨みを晴らすのだと言って、森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順など合計三十人の兵を連れて、天正六年(1578)五月二日に、用命の砦に夜討ち押し寄せました。
石原石見は、兄弟が近くに居住しているのを不審に思い、油断なく物見の番人に見晴らせていたのです。
だから、報告を受けて、夜討ちが来ないうちに逃げ去ったのでした。

里見兄弟は、石原石見の屋敷の門を蹴破って乱入したけれど、石原の家族は逃亡した後でした。
残って居た家来に尋ねると、「今夜の夜討ちの事を聞き、夕方にどこかに落ち延びて行かれました。どこへ行ったかはぞんじません。」という。
石原石見の屋敷には、取るに足りない者ばかりが残っていました。
その後石原は妻子を連れて、足利の栗崎にいる四男の所に、しばらく忍んでいたといいます。
さてさて、せっかくの知行を捨てて、臆病者とあざけりをうけたのは、まことに恥ずかしいことです。




「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」とは、筆者の時代の価値観ですね。
戦国時代の価値観とは違うようです

親綱に「和睦の道もあったのに」と言わせています。
自分で戦を仕掛けておいて、ここれはひどい
自害させられた里見入道の首は、石原兄弟がもらいました。
供養されても喜ばないでしょうに
その後7年、桐生氏は桐生から退去します。

そして里見兄弟の帰国と言うことになるのです。

ここで、兄弟の母のことが唯一出てきます
「桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父」とあります。
兄弟の母は、桐生家中安西氏の娘でした
甲州の人ではなかったのです

いずれにせよ、仇討ちは失敗でした

 

 

初稿  2019.12.25

改稿  2024.11.23

 

 

(つづく)

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里見兄弟の物語総集編・その 1

2024-11-22 22:41:00 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは久しぶりに山上城まで行ってきました。

帯郭のモミジは、まだ紅葉していませんでした。

 

2019年12月、ひめちゃんと獅子丸は、落ち葉がいっぱいの山上城に行きました

帯郭のモミジがきれいに色づいていました

隣にある常広寺の銀杏も鮮やかな黄金色でした。

残念ながら、この銀杏の木はもうありません。

 

 

 

里見兄弟の物語総集編・その 1

里見兄弟は、父の仇を討つことなく、無念の死を迎えました
何故か、釈然としない終わり方でした
でも、桐生近辺ではつい最近まで史実と考えられていました
ストーリー(あらすじ)をもう一度しておきましょう



里見兄弟の物語総集編・その 1

仁田山城主である新田大炊之介(新田義重)の三男・里見太郎義俊の26代目の子孫里見義広は、もとは甲州山梨郡の人であった。
武田信玄にもとの領地を取られ、天文3年(1534)、浪人して桐生にやって来て、桐生殿とねんごろになり、桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って、里見勝弘を桐生搦手の押さえのために、赤萩へ在城させて、仁田山・八木原を知行させた。
赤萩に住んで間もなく、随見勝平、平四郎勝安という2人の子供にも恵まれ、息子達は文武に勝れた人となり、里見家の家臣には大貫一族、石原兄弟、これらは譜代の人々であった。

この頃里見勝広は、又次郎殿(親綱)の非道の御政道に諫言状を認めて再三意見した。
けれども、親綱は勝広の諫言をまったく聞かなくて、勝広も此の人はだめだと見限って、越後の上杉謙信と日頃懇ろなので、息子二人を託す事とし元亀元年(1570)3月13日、桐生城主に挨拶もなく、越後に派遣したのは、里見家の運が尽きる発端であった。

子供達を越後にやったことは隠しようもなく、3月15日津布子、山越登城して、「勝広入道が当家に知らせないで息子達を越後にやったことは何を考えているのかわからない。謙信に頼って当家への謀反を企てているのかもしれません。」と、もってのほかの讒言をした。
親綱も、里見入道のしたことを不快に思っていうことには、「石原兄弟はよくこちらのお供をしているので、彼らに内通して、里見入道を見届けよう。」とおっしゃった。
それで16日に石原へ内通した。

石原兄弟は里見入道を亡き者にして桐生氏の直臣となって大きな禄をもらおうと思っていたので、「おっ察しの通り里見入道は謀反の心を持ってます。」と速やかに反応した。
この両人津布子、山越は里見入道謀反の報告を親綱にし、親綱は大いに怒り、「軍勢を差し向けて入道を打ち滅ぼすぞ。」と山越出羽を大将として、荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人で3月20日に早朝に、仁田山の城へと攻め寄せた。

元亀元年(1570)3月20日早朝、桐生勢は仁田山に向けて出陣。
そのことを知った里見入道は大いに驚いて、朝早くに家臣達を集めて軍議を開いた。
意見はまとまらなかった。
石原兄弟が言うことには、「この城に籠もって大勢の軍と戦うなんて無理な事です。危うき期を恐れないのは、軍師の教えに多いです。でも、それは軍事的知識の不足が問題です。いったん谷山(やつやま)に退いて思案を廻らして、なんとか生き抜いて、再び正義の兵を挙げることが、名将の教えです。はやくはやく。」と諫めた。
大貫兄弟は血相を変えて、「石原よ其の方は里見家の重臣だろう。今までそう思って肩を並べてきたのが口惜しい。それほど命が惜しいのなら、入道殿の首を取って敵陣へ降参せよ。越後においでのご兄弟が名残惜しいことだ。今こういう事態になったのは、そうなる御運だったのだろう。思えば無念の有様である。」と。怒る眼に涙を浮かべて言ったので、みんな深く感心したようだったけれど、入道は石原兄弟を連れて、城を落ちていってしまった。





出だしから不自然です


甲州からなぜ桐生にやって来たのでしょう
桐生殿と昵懇(じっこん)にになったのは、桐生に来てからです
なのに、越後の上杉謙信とは日頃懇ろ(ねんごろ)なのです。
桐生にやって来てまもなく二人の息子に恵まれたというと、越後行きのころ、息子達は30前後になっていなくてはなりません
この話は、里見勝広が桐生にやって来てから35年後の話です
「桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思って」というけれど、桐生氏は水争いで新田とはうまくいってません。
作者が「新田の家系に連なる人であるのを頼もしく思っている」のでしょう。

 

 

 

初稿  2019.12.19  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.22

 

 

(つづく)

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