昨夜は、小次郎パパの夢を見ました
コジくん、会いに来てくれたんだね
ありがとう
小次郎パパが16歳と5ヶ月で逝ってから、もうじき2年です。
本日は、2020年12月、小次郎パパのアーカイブです
パパは14歳半、まだまだ元気でした。
里見兄弟の物語総集編続きです。
(里見入道は石原兄弟を連れて仁田山城を落ちます。)
「大貫佐兵衛、舎弟孫左衛門、嫡子彦七郎、同彦八郎」など、大貫を中心に、約20名が籠城です。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」と、待ち構えます。
桐生勢が辰の刻(午前8時前後)に打ち寄せます。
里見入道が攻められる理由は、「謙信を頼み兄弟を越後へ遣す事、親綱是を奇怪に思し召し、忽ちに打ち亡ぼすべしとの上意」です。
死もの狂いで戦っても勝ち目はなく、大貫一家が討たれて敗戦が決定してしまいます。
総大将の山越は勝利を喜んで、桐生親綱の御前に参上し合戦の様子を報告します。
親綱は「和睦の道もあったのに戦を戦死者が出たのは残念だ。大貫一族は大剛のものなので、生け捕った源左衛門は首をはね、一族みんな獄門に懸けよ。里見入道には自害を申しつけよ。」と指示します。
家臣たちは指示に従い、源左衛門は荒戸村鷺沼の岸で首をはね、親子兄弟の首は桐生峠にて獄門にかられました。
其の日の夕方(酉の刻)に、清水喜太郎を御使者、森下森下作弥御見使として、里見入道に自害が申し付けられました。
首は石原兄弟がもらい受けて供養ということにします。
入道は仁田山の城にて自害してこそ、武士の本意たるべきであったのに、谷山に逃げ下り、詰腹に及ぶ事は世間でいわれても恥ずかしきことでありました。
石原兄弟は桐生家の直臣になり、養命の出城をまかされました。
その後、桐生氏は渡良瀬川の水争いがもとで、由良氏に責められ、柄杓山城を退去させらます。
越後に行った里見入道の子ども、里見随見勝正と兵四郎勝安は、桐生騒動の話を聞いて、たいそう無念でした。
この上は、まず故郷に帰って、父の仇を討とう思いました。
思っているだけでなく、浪人百人と、君臣三世の約束をして、時を待ちました。。
こうしているうちに、黒川衆の頭、松嶋・阿久沢氏から、早々に帰国するように連絡があります。
松嶋・阿久沢氏は兄弟と昵懇(じっこん)で、越後方も黒川衆に内通していたのです。
謙信公に暇乞いをして、馬具・金銀等をもらいます。。
譜代の家来と契約した家来をかれこれ引き連れて、天正5年(1577)9月2日に桐生黒川にやって来て、松嶋・阿久沢氏に対面しました。
里見兄弟は、松嶋・阿久沢両氏から、高津戸の先の古城を使うようにアドバイスされます。
ここは山田氏が居城していたけれど、観応2年(1351)に桐生国綱に亡ぼされています。。
それから長い年月がたったけれど、石垣も崩れず要害です。
黒川衆の協力で、天正5年9月から翌春まで普請して完成です。
兄弟は直ちに籠城し、武具や兵糧もしっかり準備ました。
また、桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父です。
また、飯篠長閑は、里見の元舅で今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守の妹です。
先年細川攻め時、津布子・山越の讒言に依って軍功が立てられなかったことを悔やんで、共に西上州小幡の尾張守に仕えました。
縁者の誼(よしみ)で今回の兄弟の帰国に力を添えるため、桐生家中小曽根安芸に内通しました。
安芸も同心、先年の朋友に回文をまわしました。
天正6年(1578)の春、前年から普請していた高津戸城が完成しました。
兄弟はおおいに喜びます。
越後の上杉謙信もよろこんで、西上州伊勢崎を高津戸の知行とします。
里見家の栄花は二度花開いたのでした。
けれども、兄弟は父の仇を討たなければ本望であろうか。
先ず、讒言をした津布子刑部に恨みを晴らそうとしました。
天正6年4月5日、下野国佐野に赴いて様子をうかがったけれど、思うような情報は得られなかった。
そのころ秋山(佐野市北部)に遠藤織部という者がいました。
彼は以前から昵懇(じっこん)の仲だったので、彼の家に寄り、津布子に仇討ちをすることを語ります。
遠藤は、「津布子は難病を患って人前に出られない。どうか許してやってくれ。」と、たって頼みます。
兄弟は、「それが本当ならば、そうしよう。」といって帰ります。
里見兄弟は、津布子刑部を討とうとしたけれど、遠藤のいさめによって諦めました。
そうこうするうちに、高津戸城に越後勢が応援にやって来ます。
兄弟は大喜びして、石原一家を打ち亡ぼし父の恨みを晴らすのだと言って、森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順など合計三十人の兵を連れて、天正六年(1578)五月二日に、用命の砦に夜討ち押し寄せました。
石原石見は、兄弟が近くに居住しているのを不審に思い、油断なく物見の番人に見晴らせていたのです。
だから、報告を受けて、夜討ちが来ないうちに逃げ去ったのでした。
里見兄弟は、石原石見の屋敷の門を蹴破って乱入したけれど、石原の家族は逃亡した後でした。
残って居た家来に尋ねると、「今夜の夜討ちの事を聞き、夕方にどこかに落ち延びて行かれました。どこへ行ったかはぞんじません。」という。
石原石見の屋敷には、取るに足りない者ばかりが残っていました。
その後石原は妻子を連れて、足利の栗崎にいる四男の所に、しばらく忍んでいたといいます。
さてさて、せっかくの知行を捨てて、臆病者とあざけりをうけたのは、まことに恥ずかしいことです。
「いさぎよき討ち死にし名を末代にとどめ、子孫の面々よろこばしめん」とは、筆者の時代の価値観ですね。
戦国時代の価値観とは違うようです
親綱に「和睦の道もあったのに」と言わせています。
自分で戦を仕掛けておいて、ここれはひどい
自害させられた里見入道の首は、石原兄弟がもらいました。
供養されても喜ばないでしょうに
その後7年、桐生氏は桐生から退去します。
そして里見兄弟の帰国と言うことになるのです。
ここで、兄弟の母のことが唯一出てきます
「桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父」とあります。
兄弟の母は、桐生家中安西氏の娘でした
甲州の人ではなかったのです
いずれにせよ、仇討ちは失敗でした
初稿 2019.12.25
改稿 2024.11.23
(つづく)