黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

古代榛沢郡家(こだいはんざわぐうけ)の中宿遺跡

2020-05-03 21:03:17 | 埼玉県・総集編

ひめちゃんと獅子丸が、七海ママとやって来ます。

おかあさん、お昼だよ

おかあさんは、畑で草むしりです。

じゃあ、帰ろうか

微妙に位置を換えながら、帰ります。

末っ子達とのちい散歩、ハイシニアのママの至福のひとときのようです

 

 

(2018年9月14日)

横瀬からまっすぐ下ると、「道の駅おかべ」にでます。

道の駅の隣に、中宿遺跡(なかじゅくいせき)があります。

前から気になっていたのですけど、今回初めて足を向けてみました。

道路を渡ると、蓮池と校倉造り(あぜくらづくり)の建物が見えます。

蓮は、原始蓮とあります。

いわゆる、古代蓮ですね。

残念ながら、花の季節はすぎています

この次は蓮の花の季節を狙いましょう

 

遺跡の案内板があります。

B・Cにあたる復元された校倉造りの建物です。

B・Cについて説明板があります。

 

校倉造りの前には、Aの部分です。

本来はこちらも校倉造りで、穀物を貯蔵していたのでしょう。

 

深谷市観光協会のHPによると、「ここは奈良~平安時代に使われた大規模な倉庫群後で、古代榛沢郡(はんざわぐん)の正倉(税として徴収した稲を保管する庫)と推定される」とあります。

 

埼玉県の岡部町周辺は、奈良時代には武蔵国榛沢郡で、中宿倉庫群跡は、榛沢郡の役所の一部で、周辺には郡庁その他の施設があったといいます。

 

 

 

実はこの日の本当の目的地は、七ツ梅跡です。

「道の駅おかべ」から、深谷シネマをナビに入れて、七ツ梅跡を目指します。

七ツ梅跡は、獅子丸家(獅子丸が7年間養子に行っていた家)開基という常広寺の竜骨伝記関連で、何度か訪れています。

常広寺には、竜骨があります

その竜骨には、鑑定書というか由来書がありました。

それによると、竜骨を四国の笹ヶ峰で発見したのは、木食廔睡(もくじきろうすい)です。

その竜骨を、子孫の田中藤左衛門が京都で貴族の方々に見せ箔を付けて、常広寺に持ってきたのです。

辛口の銘酒「七ツ梅」の創業者は、田中藤左衛門です

2人の田中藤左衛門は、実は同じ1人の人物と考えられます

そんなところから、七ツ梅跡には何度かお邪魔しているのです。

店の前の道は中仙道です。

中央の通路上に、「田中藤左衛門」と表札があります。

代々田中藤左衛門を襲名してきたのです

 

意外な所から深谷そして埼玉が近くなり、よく足を運んでいます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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続・新田荘横瀬郷(ぞく・にったのしょうよこぜごう)

2020-05-02 16:06:19 | 埼玉県・総集編

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

葛塚城の堀切跡には、去年のガマの穂が残っています。

でも、新芽も出ています

このまま道なりに、北上する予定でした。

でも、ひめちゃんがどうしても東に行くと主張します。

急遽、東の牧場を目指します

ヤギさん、いるかな?

おはよう、ヤギさん

獅子くんは、近寄ってご挨拶です

今朝の君の瞳は輝いているね

ひめちゃんは、ヤギさんに関心なさそうです

この橋(山神橋)の向こうの坂は、サマンサ坂です。

ひめちゃんたち家族の前にいた、黒柴第一世代・サマンサおばちゃんの魂が天に昇って行った所です。

 

 

(2018年9月14日)

横瀬神社を後に、隣の華蔵寺に参拝です。

まず、山門を目指します。

 

参門脇に、屋根に大中黒の目立つ建物があります。

毘沙門堂ということです。

大中黒の紋ということは、新田氏の関係かな?

 

まあ、山門へ行きましょう

説明板があります。

「建久5年(1194)に、新田義重の三男、新田義包(にったよしかね)が開基と言われいる」とあります。

新田義包って、だれだ?

 

参門をくぐって本堂へ進みます。

山門の所に、板東八十八番霊場とありました。

納経處→、行こうと思って、ちょっと待てよ。

百円玉は、あったっけ

百円玉2個と50円玉1個しかありません

抵抗なくおつりをくれる所もあるけれど、今回は遠慮しておこうか

御朱印は300円が相場なので、たいがい用意してくるけど、今回は失敗

また来なさいという事かな

 

もう一つの門・鐘楼門に向かいます。

次回こちらから御朱印をお願いします

隣の白い建物は、美術館ですね。

お堂を覗いてもお留守の仏様は、こちらにおいでなのでしょう

 

こちらの境内案内図にも、新田義包開基とあります。

開基新田義包の墓を確認してから、帰ります。

大日堂の裏にあるのですね。

このお堂の主・大日如来が、埼玉県の指定文化財になったのですね。

覗いてみましたけど、お留守でした。

やっぱり、美術館のほうかな?

ズーッと赤い建物だったのでしょうか?

 

後ろに回ります。

ありました

開基新田義兼公墓とあります。

 

新田義包は新田義兼みたいです。

新田義重の息子で、新田氏の2代目ということのようです。

 

新田荘の範囲は何処までか?

久保田順一著『中世武士選書18新田義重』には、「新田荘の郷々」ということで、「新田の荘田畠在家注文」という資料があがっています。

これは、岩松持国が足利成氏に、新田荘内所領の安堵を求めて提出した文書の写しだそうです。

これが平安末期の新田荘の実態を示すものだそうです

この中に「よこせの郷 畠三丁五反 在家二う」とあります。

 

あれ、「につかわの郷 田十七丁一反三十たい 畠十二丁三反廿五たい 在家廿六ちやう」とあります

そして、「さかいにとらる」と註あります。

「さかいにとらる」とは、隣接する荘によって横領されたということらしいです。

ということは、山上氏によって新川(桐生市新里町新川)は横領され、山上になってしまったということですか

新川に新田の重臣・船田善昌が住むには、少々というかかなり無理があります

 

それにしても、「につかわの郷」は、他の郷よりずっと豊かな所です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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新田荘横瀬郷(にったのしょうよこぜごう)

2020-04-30 21:54:35 | 埼玉県・総集編

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、南の方にお散歩です。

葛塚城の東の堀切が流れ込んでいたと思われる沼跡です。

ただただ、草むらです。

でも除草剤を撒いていないので、犬たちはよく寄ります。

親子なのに、毛色もシッポの形も違います

最近ひめちゃんは、なぜかママ似になってきました

 

ズーと下って小学校近くでUターンです。

赤城山は一日中かすんでいます。

ひめちゃんちの畑のそばを通って帰ります。

まだ草むしりが完了していませんけど、ジャーマンアイリスが咲き出しています

明日も、草むしりがんばります

 

 

 

(2018年9月14日)

横瀬廻りで深谷に行きました。

国道17号線(上武道路)を降りて、世良田を通り、上武大橋を渡ります。

あれ、新しい橋になってる

前回通った時は、行き(上り)は新しい橋、帰り(下り)は古い橋でした。

橋の途中に「埼玉県」の表示があります。

けれども、橋を渡ってまもなく群馬県伊勢崎市境島村になります。

島村を通って左折して、岡部を目指します。

 

墓地が見えてきました。

華蔵寺(けぞうじ)と横瀬神社(よこぜじんじゃ)です。

だいぶ前に一度寄ったことがあります。

 

駐車場に、かわいい道祖神です

前に来たとき、あったっけ?

 

案内図は新しいです。

最近建てられたもののようです。

開基は、新田義兼とあります。

横瀬神社は、華蔵寺の一角に位置しています。

明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の時期を、平和に乗り越えたのでしょうか?

 

まず、横瀬神社から参拝です。

右の狛犬の奥に説明板があります。

横瀬神社は建長年間(1249~56)に土地の豪族・横瀬三郎為清が創建し、建武年間(1334~36)に新田義貞の孫・国寿丸が再建したと伝わってます。

 

うーん、新田義貞の孫が建武年間に創建は無理がありそうですけど?

でも、新田だったんですね

 

この説明板の下に、上州彫刻師集団系統図がありました

群馬県では、見たことありません

みなさん利根川の向こうまでお仕事に行っていたんですね

 

参道の右側に、手水社(ちょうずしゃ)があります。

ここに、躍動的な彫刻があります

先ほどの系統図右端に名前のあった、小林義雄の作ですね。

残念ながら、手水社に水はありませんでした。

 

拝殿に進みます。

こちらも、みごとな彫刻です

さきほどの系統図だと、上田沢の前原藤次郎直賢の作ですね。

上州彫刻師、すごい

拝殿前に、かわいい小ぶりの狛犬がいます

 

よく見ると、狛犬と下の台座がミスマッチな感じです。

シッポが個性的な狛犬ですけど、本来は別の所にあったのかも知れません。

 

本殿後ろに回り込みます。

すばらしい彫刻ですけど、金網越しで残念

 

そういえば、利根川の向こう(群馬県伊勢崎市)平塚の赤城神社にも、このような彫刻がありました

 

新田荘は利根川の南・横瀬郷にまで広がっていたのですね

上武大橋はなかったけれど、今の我々が考えるより、ずっとずっと人々の往来は盛んだったのでしょう

だから、やがて田中藤左衛門が竜骨を持って、利根川を渡り、常広寺にやってくるのです

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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