黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

白木の鳥居の伊勢殿神社

2022-06-15 15:56:10 | 埼玉県

雨の朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、ビンボー合羽でお散歩です。

ノコギリソウ、まだきれいに咲いています。

ひまわり畑のひまわり、なんとなく大きくなったかな

 

ひめちゃんちの花菖蒲も、雨の中頑張って咲いてます。

大分増えた品種もあります。

来年の郷右衛門忌には、郷右衛門畑(郷右衛門の子孫の畑)の花菖蒲、おすそ分けできるかな?

 

 

 

(6月7日)水かけ地蔵尊から、来た道を七ツ梅に戻ります。

 

おや、さっきは気づかなかったけど、不思議な建物があります

隣は神社のようです。

今は地域の集会所のようだけど、元は社務所かな?

 

 

白木の鳥居もあります

さっきは全く気づきませんでした。

前の道が細くて、鳥居全体が映りません

境内社もあります。

 

鳥居の全体を裏から撮影です。

何様だろう?

 

ネット検索すると、ここは伊勢殿神社(いせどのじんじゃ)、祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)ということです

何となく雰囲気に納得

拝殿前に戻り、2礼2泊1礼です

 

 

 

七ツ梅に戻ります。

母屋脇の通路をくぐります。

田中藤左衛門の表札を確認です

いつまでもここに存在くださいね

 

初めて七ツ梅に来た時、お邪魔したお店です。

今は花屋さんになってます。

 

あれ、さっきは固くドアを閉じていた建物が開いてます。

ちょっと失礼します。

広い

 

深谷シネマの前で、七ツ梅の酒樽を確認です。

確かに、武州深谷の七ツ梅は存在したのです

 

 

 

梅雨時で水量の増した利根川、上武大橋を渡って帰ります。

田中藤左衛門が竜骨を持って利根川を渡ってきたのは、常広寺宛の彼の證書によれば、梅雨が明けてもう少し水量が下がった正徳四年午七月日です。

つまり、正徳4年(1714)甲午(きのえうま)の旧暦7月、現在の8月です

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深谷の水かけ地蔵尊(西島山大円寺)

2022-06-14 15:31:39 | 埼玉県

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

今日も、帰り道に山上城を通ります。

アジサイの小径入口には、何故かバリケードが

ひめちゃんが、三の丸(山上城跡公園)に積極的に登ります。

太鼓橋を渡って帰ろう。

あちゃあ、中学生がいっぱい

部活の朝練かな?

みんな太鼓橋の方にやってくる

 

「おはようございます

「おはよう

「かわいい

ひめちゃんは、息も絶え絶えです

タバサねーちゃんは、にっこりです

 

やっとやり過ごして、ご褒美の催促です。

よくがんばりました

 

 

 

6月7日、深谷の七ツ梅の記憶を確認してから、前の道・旧中山道を歩きます。

西の方に少し行くと、左手奥にお寺のような屋根が見えます。

いつかは、深谷宿の西の果てまで行きました。

 

今回は、気になるお寺の方に行ってみましょう。

「水かけ地蔵尊」ですって

 

 

山門から入ります。

 

そのまま進むと本堂のようです。

 

 

左手に、石仏の山があります。

いろいろな仏様がおいでのようです。

前のお三方が水かけ地蔵尊のようです。

由来がありますけど、ちょっと読みにくい

水をかけると、火難厄除諸願成就の御利益があるようです

お三方に水を掛けて合掌

 

 

隣には水子地蔵です。

合掌

小さな石仏も一緒です

 

 

本堂前で合掌

 

 

本堂の右にもピラミッドのようなお地蔵様の山です。

後で聞いたところに寄ると、奥の御堂は泣き止まない子に御利益があるとか

 

 

左手奥にもまた石仏の山です。

こちらは古い墓石とかも一緒に整理したようです。

ぽつんと如意輪観音さん、気になります。

合掌

 

さらに奥は墓地で、五輪塔形式のお墓が多かったです。

 

 

庫裏で御朱印をいただきます。

対応に出てくれたのは、奥様と思いましたけど、色々話している内に、彼女がここのご住職と知れました

ここは根来寺(ねごろじ)を総本山とする、新義真言宗のお寺だそうです。

水かけ地蔵を祀ってからは、ここら辺では火災がなくなったそうです

 

 

(つづく)

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深谷七ツ梅の記憶

2022-06-11 13:07:17 | 埼玉県

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を北に出ます。

いつもは通らない沼の下の道を通ります。

あれ、鮮やかな花が咲いています

ノコギリソウです。

梅雨空に明るい黄色が映えます

 

おや、何だろう

青と黄色のタオルでウクライナの国旗です。

そういえば、映画「ひまわり」の舞台はウクライナでした。

ひまわりの花、楽しみだね

 

ひめちゃんたちは、久しぶりに岩神沼に到着です。

沼には、黒いカモさん(オオバン)の姿があります。

向こう芦原に巣があるようです

 

 

 

 

6月6日、かつての深谷の銘酒「七ツ梅」に再会しました。

でも、今の「七ツ梅」は灘の銘酒です。

後ろの由来にも、深谷での記憶はありません

でもでも、近年まで深谷の「七ツ梅」だったはずです。

急に寂しく不安になって、6月7日、深谷の七ツ梅跡に出かけました

 

 

上野国山上からひたすら南に下り、利根川を渡り、さらに南下して到着です。

 

駐車場からの風景です。

ありました、ありました

七ツ梅は、近年まで深谷で生産されていたのです

 

 

いざ、七ツ梅探訪です

まずは、右下角の深谷シネマです。

この日は定休日でした。

かつてお邪魔して、田中藤左衛門と常広寺の竜骨について話を聞いてもらいました

常広寺に竜骨をもたらした田中藤左衛門と七ツ梅創業者の田中藤左衛門が同一人物ではないかという話をし、「常広寺縁起」も置いてきました。

 

 

南に進みます。

懐かしい光景です。

 

 

あれ、こちらは初めてです。

 

 

振り返って、駐車場方面(北入口)を望みます。

 

 

なぜが「耳そうじ」の看板

最初に来た時からあります。

 

 

この古本屋さんも、最初に来た時からあります。

 

 

こちらは初めてです。

「まち遺し深谷」ですか

「清酒七ツ梅」「田中藤左衛門商店」の文字が、まだ鮮やかに残ります

 

 

清酒工場の煙突です。

煙突の脇の路地、活躍中のようです。

でも、ちょっと寄りにくい

 

 

初めて来た時に寄った酒房の跡です。

今回灘の銘酒「七ツ梅」を届けてくれた彼のお店でした

若い人たちが忙しく動いています

理由を話して、店内の写真を撮らせてもらいました。

 

 

「七ツ梅」の大きな看板がかかる母屋、道の向こうから撮影です。

深谷の銘酒「七ツ梅」は、確かにここで生産されていたのです

 

前の道は中山道です。

少し歩いて見ましょう

 

 

(つづく)

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羽生衆はこの付近を渡ったか?(川俣締切阯・利根川東遷の記憶)

2021-03-24 19:55:49 | 埼玉県

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を出て、東の牧場に行きます。

途中の耕作放棄地で、アブラナにパクりつきます。

あきれるほど、アブラナが好きなきょうだいです。

 

ヤギさんいるかな?

やっぱり、ヤギパパと1名のボクです。

ヤギママと2名のボクはもう帰ってこないんですね

ヤギボクは、パパと仲良しみたいだね。

バイバイ、又来るよ

 

ひめちゃんと獅子丸は、鏑木側にかかる山神橋(さんじんばし)を渡って、上のタケイ沼に足を延ばします。

この川は、今だに人の命を奪える、怖い川です

15年くらい前かな、この牧場の主・アキラさんが、足を滑らせて亡くなったのです。

気を付けようね

 

さて、沼はどうかな?

あれ、誰もいないみたいに静かです。

水量が大分へってます

そうこうするうちに、カモさんが大勢飛び立ちました。

ひめちゃんたちの足音聞こえて、隠れていたのかな?

元管理小屋の北の沼には、いっぱいのカモさんです。

 

サマンサ坂を通って帰ります。

かゆいね。

みんなそろそろシャンプーを考えないとね。

 

長安寺跡を通ります。

あれ、お地蔵様の帽子とオガケが新しくなってる

時々変えてもらうと、道行く人も犬も、気持ちが救われるね

そうそう、ここには羽生衆・木戸玄斎の墓があったという話もあります

 

 

(3月16日)

川俣関所跡から、国道122号線を横断して、「道の駅はにゅう」に入ります。

 

駐車場は、ほぼいっぱいです

やっと駐車です

 

道の駅の建物北側に、埼玉県指定史跡「川俣締切阯」がありました

 

説明板を確認です。

近世以前の利根川は、武蔵・下総両国の国境を南に流れ、現在の東京湾に注いでいた。千葉・茨城両県境を東流し、千葉県銚子市から太平洋に注ぐ現在の流路は、利根川東遷と呼ばれる近世前期の大規模な流路変更と河川改修によって付け加えられたのである。~(中略)~当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口へ向かう会の川筋と現在の河道を東流する一流に分かれていた。文禄元年(1592)に忍城主となった松平忠吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門𠮷次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同三年に利根川本流を東流させたと伝えられている。~(後略)~

 

そうだったんですか

でも、

(石碑には史跡とあるが、場所の移動に伴い旧跡に指定替えとなった。)

とあります

 

本来合った場所は何処でしょう?

いろいろ検索すると、ここから約400m下流の利根川右岸にあったという事です。

 

400m、ちょっと遠いかな?

そのうちに行ってみましょう

 

〆切神社ですか

もしかしたら人智を超えた、神のご加護があったのかもしれませんね

 

突然、伊沢八郎の「ああ、上野駅」の歌が流れます

 

隣に「羽生の作詞家 関口義明先生の顕彰碑」がありました

東北出身者の作詞ではなかったんですね

誰かが、このスイッチを押したのかな?

 

さらに隣には、何やらよくわからない掲示があります

このフエンスの向こうは、非常時にはヘリポートになるんですね

さらに向こうは、土砂備蓄ヤードとあります。

こんな関係で、「史跡・川俣締切阯」は、移転したのかもしれませんね。

 

 

天正2年(1573)閏11月、羽生城を捨てて上野国山上(こうずけのくにやまがみ)に向かった羽生衆千余人が渡った利根川は、もしかしたら、会の川(あいのかわ)と分かれ東流する利根川だったかも知れません

400mよりもう少し東、500mくらいかな?

羽生城から北に向かってくればいいのですものね

水量もウチバだったかも知れませんね。

その後、早川の南端にまで到達するのは、それなりに大変でしょうけど。

そのうちにまた、羽生城(古城天満宮)に行ってみましょう

今回は、ひめちゃんたちが待っているから帰ります。

国道17号線新上武大橋の大渋滞に巻き込まれて、大分予定時間が過ぎてしまいました。

 

 

道の駅で、お彼岸用の花を買って、昭和橋を渡って上野国山上に帰りました

 

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日光脇往還・新郷宿(勘兵衛松と川俣関所跡)

2021-03-23 20:17:07 | 埼玉県

いいお天気です

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ました。

岩神沼に到着です。

気持ちがいいね

獅子くん、なぜか見返り獅子くんです。

あれ、沼の向こう岸に、アオサギです。

まもなく、北の方に飛び去っていきました。

 

高縄の摩崖仏、桜がほころんできています。

でも、ちょっと寄りずらいね。

村指定文化財の看板がむなしい

 

お天気がいいから、上の沼にまで足を延ばそうか

あちゃあ、小学生の黄色い帽子の集団だ

ひめちゃん、及び腰です

なんとか道ばたに除けて、やり過ごします。

 

上の新沼にも、アオサギです。

さっきの子かな?

 

菜の花の咲く田舎道を帰ります。

 

 

 

小松神社からの帰り、東の国道122号線で帰ります。

途中のコンビニで一休み

 

そうだ、ついでだから、一本西の道、日光脇往還に出てから、「道の駅はにゅう」に寄りましょう

進路を西に取り、愛宕神社で右折、日光脇往還に入ります。

「ムジナもん」ってご当地キャラクター?

 

 

少し北上すると、勘兵衛松(かんべいまつ)と大きな碑があります。

松並木が続きます。

「徳川家光の日光社参のおりに、風景をよくするため、忍藩主が家臣の勘兵衛に命じて植えさせたもの」だそうですね。

その時植えた松が、一本だけ生き残っているという話です。

これかな?

一本だけ特別に太い

包帯の跡?

でも、りっぱに青松をしています

おつかれさま、末永く生き残って下さいね

 

 

少し行くと、道が大きく右カーブになります。

まもなく、少しだけ駐車スペースがあります

菜の花の黄色、いいですね

あの橋、昭和橋を渡って帰ります。

 

「新郷ふるさと歩道案内図」があります。

新郷地区は江戸時代忍藩に属していました。羽生領との境になっていたのは利根川の旧河川道であった会の川でした。日光脇往還に設けられた宿場として栄え、多くの文化財が残されています。

そうだったんですか

 

真ん中の地図を拡大してみます。

わあ、訪問したい所がいっぱいです。

ここは日光脇往還の宿場町だったのです

 

川俣関所跡を確認です

慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治二年(1869)に廃止されるまでの約二百六十年間続いた

 

関所が設けられたと言うことは、人びとはそれ以前にも、ここで利根川を渡っていたんですよね

 

天正2年(1573)に閏11月、羽生衆千余人は羽生城を捨てて、上野国山上を目指して利根川を渡りました。

どこで利根川を渡ったのでしょう?

利根川を渡ったら、早川沿いに北上すれば山上に到達できます。

てっきり渡河地点は、早川が利根川に合流する辺り(旧群馬県尾島町堀口あたり)と思い込んでいました。

合流地点にまで、利根川南岸を行くのも大変そう

天正2年(1573)に閏11月、羽生衆千余人は、上野国山上を目指して、どこで利根川を渡ったのでしょう?

 

厳しく取り締まったんですね。

本来の関所跡は、今は川の底になってしまったんですね

 

 

あの青い表示の所から群馬県かな?

向こう岸にも菜の花が咲いています

 

 

この道は、日光脇往還・館林道です

「街道を歩く・日光への脇往還」(群馬県教育委員会発行)によれば、

日光脇往還は、中仙道と日光例幣使街道を経由して日光に至る道である。中仙道を鴻巣で別れ、忍(行田)城下から新郷村、川俣関所を経て利根川を渡し、上野国へ入り邑楽郡川俣村へ至る。さらにここから館林城下を抜け、下早川田村で渡良瀬川を渡り、下野国佐野の天明宿で日光例幣使街道に合流する道筋である。

 

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