黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

父の敵を討たずんばなんぞ本望あるべきや(高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その3) 

2024-10-31 22:27:04 | 桐生老談記の世界

秋晴れの朝です。

ひめちゃんは堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台中央を南下、山上城跡公園の南を歩いてきました。

赤城山はなんとなく紅葉が始まってるかな

 

2022年2月、タバサねーちゃんと高津戸城跡の要害神社へ行ってきました。

2022年2月は、大雪の日があったようです

大雪の中を貧乏カッパでお散歩する、元気な姉妹です

一人でないって、いいね

 

 

 

高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その3(父の敵を討たずんばなんぞ本望あるべきや)

 

去る程に、天正六年春、高津戸普請成就いたし、されば兄弟の喜悦限りなし。

この事を越後にも申し越されば、謙信公も喜び給いて西上州伊勢崎を高津戸の知行に付け給いけり。里見家の栄花二度開けり。

兄弟の住居安きに栄え給うといえども、父の敵を討たずんばなんぞ本望あるべきや。

まず讒者津布子刑部を恨みんとて、四月五日に発足して、野州佐野に赴き給いて様子を伺い給えども、さながら心に任せず。その頃秋山のくらん原という所に、遠藤織部という者あり。是れは先年より懇ろの中なれば、これにより彼が家に立ち越し、津布子を一刀恨むべき由を語り給えば、津布子は此の間難病を煩い、中々人前なりがたし。しばらく御宥免あるべき旨たって申しければ、それ必定誠ならば御意に任せ申すべしとて、兄弟暇乞いして帰られたり。


あらすじです。


天正6年(1578)の春、前年から普請していた高津戸城が完成した。
兄弟はおおいに喜んだ。
越後の上杉謙信もよろこんで、西上州伊勢崎を高津戸の知行とした。
里見家の栄花は二度花開いたのであった。
けれども、兄弟は父の仇を討たなければ本望であろうか。
先ず、讒言をした津布子刑部に恨みを晴らそうとした。
天正6年4月5日、下野国佐野に赴いて様子をうかがったけれど、思うような情報は得られなかった。
そのころ秋山(佐野市北部)に遠藤織部という者がいた。
彼は以前から昵懇(じっこん)の仲だったので、彼の家に寄り、津布子に仇討ちをすることを語った。
遠藤は、「津布子は難病を患って人前に出られない。どうか許してやってくれ。」と、たって頼んだ。
兄弟は、「それが本当ならば、そうしよう。」と言って帰った。



天正6年(1578)の春、高津戸城が完成し、上杉謙信が西上州伊勢崎を知行に付けたとあります
なぜ、伊勢崎なのでしょうか

天正6年4月19日に上杉謙信は亡くなってます。
大変な年です

伊勢崎という地名は、由良国繁が永禄4年(1561)に赤石城を攻め落とし、赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進したことから伊勢崎と言われるようになったといいます。
西上州かな
桐生から見たら西だけど

伊勢崎は、桐生と並ぶ織物の町でした。
老談記の作者に、ちょっと対抗意識が有りそうです


高津戸城跡には、要害神社があります。



さほど険しい山ではありませんけど、それなりに登ります。
西側には、高津戸渓谷があり渡良瀬川が流れます
高津戸城から見下ろした大間々(みどり市大間々町)です。


確かに、ここは要害です


遠藤織部に、仇討ちの話を打ち明けてしまったのです
ちょっと不用心な感じです
最初の仇討ちの目標は、津布子刑部でした
でも、織部の説得で諦めてしまうのです

 

 

初稿  2019.11.18  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.31


( 高津戸城取り立ての事付けたり、城主の事 ・ 終 )

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久留川境い高津戸山の先古城を取り立つべし(高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その2)

2024-10-29 22:51:13 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、赤堀(伊勢崎市赤堀町)の小菊の里に行ってきました

ひめちゃんちの小菊がやっと咲き始めたので、咲いているかなと期待して行ってきました。

残念ながら、まだ堅いつぼみが多くて、咲いているのは、ほんのわずかでした。

捲土重来を期して、またそのうちに行ってきます

 

高津戸の要害山の写真を探していたら、2022年2月にタバサねーちゃんと行っています。

タバちゃん、お出かけ大好きな元気いっぱいの熟女です

 

 

 

高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その2(久留川境い高津戸山の先古城を取り立つべし)

扨て、住居の相談に久留川境い高津戸山の先、古城を取り立つべしと、是は先年細川院の山田七郎平吉之という者在城在有り子孫連続して、後醍醐天皇の御宇に当って、平の則行と云う者、七郎が末葉なりしが、観応二庚卯年(1351)、桐生国綱の為に亡ぶ。

それより年月経るといえども、石垣も崩れず、空しく兼ねて要害なり。

よって久留川両家老、飯田、多井両奉行にて、天正五年九月より翌春まで普請、成就して、兄弟奇異の思いをなし、直ちに籠城なし、武具・兵糧を堅固に在城せられ、暫く安堵の思いをなし、爰にまた先年、桐生の家中安西播磨という者は、上総入道が妻の弟なれば、今里見兄弟には母方の伯父なり。また飯篠長閑という者は、先年里見が舅、今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守が妹なり。然るに先年桐生より細川攻めの時、津布子、山越が讒言に依って軍功を立てざるを悔やみて、播磨も長閑も友に桐生を退き、西常州小幡の城主尾張守に隨身す。縁者のよしみ、この度兄弟が帰国に力を添えんが為、桐生の家中、小曽根安芸の方へ兼ねて内通有り。先年朋友より兄弟へ、万事合力あり由を、頼られければ安芸これに同心して、先年の朋友に回文致されけり。


あらすじです。

里見兄弟は、松嶋・阿久沢両氏から、高津戸の先の古城を使うようにアドバイスされる。
ここは山田氏が居城していたけれど、観応2年(1351)に桐生国綱に亡ぼされた。
それから長い年月がたったけれど、石垣も崩れず要害である。
黒川衆の協力で、天正5年9月から翌春まで普請して完成した。
兄弟は直ちに籠城し、武具や兵糧もしっかり準備した。
また、桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父である。
また、飯篠長閑は、里見の元舅で今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守の妹である。
先年細川攻め時、津布子・山越の讒言に依って軍功が立てられなかったことを悔やんで、共に西上州小幡の尾張守に仕えた。
縁者の誼(よしみ)で今回の兄弟の帰国に力を添えるため、桐生家中小曽根安芸に内通した。
安芸も同心、先年の朋友に回文をまわした。



里見兄弟が、高津戸城に入った理由が語られます。
要するに、少し手を入れれば使用可能な状態の古城があったのです

右下の中央にPがある山が、高津戸城のある要害山です。


度々出てくる久留川とは、黒川で渡良瀬川のことです

Pに駐車して、山頂の要害神社に行ったこともありました。




史実としての高津戸城についてはよく分からないようです


上杉方が築いたのではとも云われているようですけど


縁者の誼(よしみ)で、兄弟の帰国を援助する人々も登場します。
桐生家を去り、小幡の城主に仕えることは、可能なのでしょうか
ちょっと遠いし、行く途中に、いろいろな勢力がありそうです
でも、道としてはさほど難しくはなさそうです
実は、妙義神社に行った事があります。
小幡をちょっとだけかすめて通りました
国道50号に出て、小島田(前橋市)の信号から南西に、ほぼ道なりで行けました
中世・近世の道は現代とは違うでしょうけど、付近に小幡に行く道(その先は信州)があったかもしれません

 

初稿  2019.11.15  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.29

 

(つづく)

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浪人をかたらい百人ばかり徒党して(高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その 1)

2024-10-27 15:32:48 | 桐生老談記の世界

肌寒い朝でした。

ひめちゃんは堀之内を北に出て、岩神沼まで行きました。

誰かいるかな?

アオサギさんが1羽だけいました

 

旧黒保根村の正円寺の写真を探していると、元気な獅子丸がいます

 

2020年4月、獅子丸は実家に帰って10ヶ月です。

獅子くん、アブラナが大好きでした

寒い朝もあったんだね

まだ20年来のお散歩コースで、堀之内を北に出ていました。

ひめちゃんが、この先で2度足にけがをして、このコースは通らなくなりました

あれ以来、もう一本西の道で迂回して岩神沼に行っています。

諏訪神社の向こうの高台も、よく行きました

貧乏カッパで仲良くお散歩です

タバサねーちゃんも、丸々と元気でした

 

 

 

高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その 1(浪人をかたらい百人ばかり徒党して)

去る程に、越後に退ける里見入道の兄弟の子ども、里見随見勝正、同兵四郎勝安は桐生初中の後騒動を伝え聞き、無念というもあやまりあり。

此の上は一先ず故郷に帰り、亡父の仇をほうじ本望を達せんと、心中に思い兼ねて浪人をかたらい、百人ばかり徒党して、君臣三世の契約をなし、時を期して待ち居り。

爰に上州久留川の物頭、阿久沢能登守、松嶋式部入道は先より兄弟と別して親しきに依って、越後、久留川へ兼ねて内通なされしかば、松嶋、阿久沢方より早々帰国なされる旨、通達ある故に、謙信公に暇乞いなられければ、謙信公より武具、馬具の類い、金銀等拝領せられ、契約のことなれば、正木大三、大貫長順丸、この両人は譜代の者なり。そのほか、平山伊之助、垣田佐次右衛門、谷彦雲平、直井秀右衛門、長浜与惣兵衞、篠田宇平次、かれこれ引き連れ、

天正五丁丑(1577)九月二日、桐生久留川に着来せられ、松嶋、阿久沢に対面して初中後の物語事終わって、


あらすじです。

越後に行った里見入道の子ども、里見随見勝正と兵四郎勝安は、桐生騒動の話を聞いて、たいそう無念だった。
この上は、まず故郷に帰って、父の仇を討とう思った。
思っているだけでなく、浪人百人と、君臣三世の約束をして、時を待った。
こうしているうちに、黒川衆の頭、松嶋・阿久沢氏から、早々に帰国するように連絡があった。
松嶋・阿久沢氏は兄弟と昵懇(じっこん)で、越後方も黒川衆に内通していたのである。
謙信公に暇乞いをして、馬具・金銀等をもらった。
譜代の家来と契約した家来をかれこれ引き連れて、天正5年(1577)9月2日に桐生黒川にやって来て、松嶋・阿久沢氏に対面した。



里見兄弟は、元亀3年(1570)3月13日、越後に行きました。
父の里見入道は、その直後20日に石原兄弟の裏切りにより死んでいます
「桐生初中の後騒動」とは、意味不明です
写し間違いと思われます。

亡父の仇は、桐生親綱、石原兄弟です。
天正元年(1573)に桐生城が落城する前に、帰ってこなければ不自然です。
彼らが帰ってきたのは、由良氏が桐生にやって来てからです

浪人百人と主従の契約ができたとは、本当でしょうか?
ちょっと無理がありそうな話です
越後で浪人を集めてというのも、謙信公は放っておけないでしょう

黒川衆の松嶋・阿久沢氏は、確かに越後とも関わりを持ったこともあったですけど

 


旧黒保根村(桐生市黒保根町)の正円寺には、阿久沢氏累代の墓があります。

正円寺のすぐ前が、阿久沢氏の深沢城です。




ちょっと、仇討ちの時期が遅いようです
戦国武将は、仇討ちのために命を懸けて行動したりしないようですけど

 

 

初稿  2019.11.12  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.27

 

 

(つづく)

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由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事・その 2

2024-10-26 20:35:44 | 桐生老談記の世界

おかあさんは、旧赤城村の蜂蜜屋さんに行ってきました。

車のエンジンがかかると、ひめちゃんが「アタチはも行く

タバサねーちゃんも立ち上がりました

今日はお留守番だよ、又そのうちにお出かけするからね

おとといの「大胡ぐりーんふらわーぱーく」、楽しかったね

お出かけ大好き姉妹です。

小菊の里も咲き始めたかな

 

2019年11月の黒柴家族です。

獅子丸が実家に帰って5ヶ月です

七海ママも、末っ子たちと元気にお散歩しています

獅子丸はひめちゃんと、諏訪神社の向こうの高台にもよく行きました。

獅子丸は、ブロッコリーの葉っぱもよく食べてました。

もちろん、ゆでたブロッコリーも大好きでした

 

 

 

 

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事・その 2

菩提寺金龍寺をも西方寺の上の平に移す。毛はい峠に大門を打ちて、西方寺を塔頭の如くに掠めける。また、西方寺の三十貫の寺領を二十貫文取りはなして、金龍寺へ附けけるなり。

契約の閑心院を前沢に建立し給う。寺号を鳳仙寺と開き菩提所に定む。

明くる三年に新田の青蓮寺を久方村前原屋鋪に移す。同九月、母衣輪権現をも新田より荒戸村へ遷宮なり。是は新田代々の軍神なれば、後に常陸牛久へ国替えの時、また彼の地へ移す。

梅原の天満宮も再建在り。

同月、普門寺も中里山に建立す。

かくの如く寺社の遷宮は天正六年なり。

是より新田、桐生一領にして、上下睦まじく国家を治むる事、実に道広き武徳なり。



あらすじです。

菩提寺の金龍寺をも、西方寺の上の平に移した。
毛はい峠に大門を建てたので、西方寺は塔頭の一つのようにみえた。
西方寺の三十貫の寺領を二十貫文取りあげて、金龍寺へ与えた。
以前から約束のあった閑心院を前沢に建立した。
寺号を鳳仙寺とし、菩提所に定めた。
あくる天正三年(1575)に新田の青蓮寺(しょうれんじ)を久方村前原屋鋪に移した。
同念九月に、母衣輪権現(ほろわごんげん)をも新田より荒砥村に遷宮した。
母衣輪権現は、新田の軍神なので、後に牛久に国替えの時、またその地に移した。
梅原の天満宮も再建した。
同じ月、普門寺も中里山に建立した。
このように寺社の遷宮は天正6年(1578)である。
これから、新田と桐生は一つになり、上下仲睦まじく国を運営できたことは、すばらしい武徳である。



いくつものお寺を、新田から移したとあります

金龍寺も移したんですか
金龍寺は、由良氏が牛久に移る時に、一緒に行きました。
新田からではなく、桐生からいったんですか

新田(太田市)には、江戸時代に新しい領主が再建したと言うことですけど、今も金龍寺があります


『桐生地名考』(桐生市立図書館)には、「金竜台(きんりゅうだい)」の字があります。
語源として「由良成重が建立した金龍寺のあったといわれる台地」とあります



鳳仙寺は、由良氏に内通していた閑心院が、約束通り菩提寺にしてもらったのですね



「天正三年(1575)に、新田の青蓮寺を久方村前原屋鋪に移した。」とあります。


桐生の青蓮寺です。




新田(旧尾島町)にも青蓮寺はあります。
ともに、時宗の寺です


母衣輪権現(ほろわごんげん)も移したとあります。
金山城の近くに母衣輪社があり、隣に修験者の寺があって、付近の修験者の元締めだったとかの話もあります
戦国武将の廻りには修験者がいたといいますから、母衣輪権現を移(分社)したのはかなり意味のあることのようです


普門寺は建立したとあります
桐生の普門寺です

こちらは、曹洞宗のお寺です。

新田・世良田にも、ずーと普門寺はあります
こちらは、天台宗のお寺です。


桐生の人は、気軽に新田から持ってきたといいます
新田の人間には、理解できません
ひめちゃんちのおかあさんは、新田の人間です。
新田にも、同名のお寺が現存するのです

 



初稿  2019.11.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 

改稿  2024.10.26 

 



( 由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事  終 )

 



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由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事、付けたり、寺社の事・その 1

2024-10-24 20:56:23 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久々に赤城南面国道353線沿いの大胡グリーンフラワーパークへ行ってきました

16歳と3ヶ月のタバサねーちゃんも、がんばって歩きました

きれいに草刈りがしてあって、かゆくなる事はありませんでした。

でも、なんとなく動物が少なくなったかな

オウムのキバタンの「こんにちは」に、とっても癒やされました。

 

2019年10月の、黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って4ヶ月、全く遠慮のない天真爛漫の息子に、小次郎パパは戸惑ってます。

 

 

 

 

由良信濃守源成重公桐生へ御入部の事、付けたり、寺社の事・その 1

去る程に、由良信濃守成重公は桐生を乗っ取り、多年所望をここに達す。すなわち、城代は横瀬勘九郎、藤生紀伊を添えて差し置かる。

同六月九日に成重公入部なされけり。二渡村まで御須見ありて、先代の菩提寺西方寺へも見舞い住僧にも対面なられけり。

また祈願真蔵院にも使者計りなり。明くる四月、新田本城は子息上野介国重に譲って同五月朔日、成重公桐生に隠居し給う。

あらすじです。

そうしているうちに、由良信濃守成重公は桐生を乗っ取り、長年の宿願を果たした。
桐生城代には横瀬勘九郎を、藤生紀伊守を添えて差し置いた。
そして、成重公は、同年(天正元年1573)六月九日に桐生にやってきた。
二渡村にまでおでましになり、桐生氏の菩提寺西方寺の住職にも対面した。
また、真蔵院にも使者を送った。
明くる年の四月に、成重公は本拠の金山城を息子の上野介国重に譲って、桐生に隠居した。

 

 

話が大分戻ります

第5話「桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事」最後に

此の日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり1573)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり」とありました。

その後日談になるのです


桐生親綱が去った後、とりあえず桐生には城代として横瀬勘九郎を置きます
藤生紀伊守がナンバー2です

その約3ヶ月後、由良国重がやってくるのです。
旧暦の6月9日、現在の7月中頃でしょうか?
田植えも済んで元気な稲穂がお迎えしたのでしょうか?
「御須見」の意味がわかりません
まあ、二渡村に来たのでしょう。
そして、桐生氏の菩提寺西方寺住職とも対面するのです
西方寺住職は、時代に順応した対応を取ったのでしょう



現在の西方寺山門です。



本堂です。



桐生氏累代の墓です。



群馬県指定重要文化財・阿弥陀如来座像の説明板です。

胎内に大旦那佐野大炊助助綱の墨書があって、近年、桐生氏は佐野氏である事がわかったのです

 

真蔵院はわかりません。
祈願真蔵院とあるので、修験者でしょうか
戦国の領主の廻りには、何人も修験者がいて、いろいろな役割を担っていたということです。
もちろん諜報活動とかもやっていたでしょう。
真蔵院は由良方と内通していたのでしょう

『上州坪弓老談記』では

天正2年3月9日に、新田殿入部なされ、山地に渡り迄御見物なされ、西芳寺へ御寄り、住寺に御対面あり。大蔵院へは使者を派遣され・・・・・

使者を派遣したのは大蔵院(桐生市天神町)だとしています



由良成重は、翌年の4月に金山城を息子の国重に譲って、桐生に隠居しました。
ということは、一反金山城に戻ったのですね


 

初稿  2019.11.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.24

 

 

(つづく)

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