黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

院号寺号宗派不明の寺院跡

2022-07-24 17:28:26 | 南勢多郡の廃寺

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

むこうから大きな犬がやって来ます

甲斐犬かな?

ひめちゃんは、「ワンワン、アタチの方が強いんだぞ

彼(?)は、静かに去って行きました。

 

今日は歩くわよ

朝は気温が少し低めでした。

タバサねーちゃんは、歩く気満々です

 

諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

赤城山は、はっきりとは、その姿を見せていません。

 

ひめちゃんが、気になる穴を見付けました。

イノシシが掘った穴かな?

 

今朝は、タバサねーちゃんが先に出ます。

少し涼しめの朝なので、ハイシニアのタバサねーちゃんも歩けるようです

 

道の突き当たり付近に、ヒマワリが満開です。

 

突き当たりを南に下り、山上城跡公園の南側を通って帰ります。

 

姉妹の足は、自然とある所に向かいます

 

ケンくん、いるかな?

残念、お散歩に行ってしまったようです

でも、寄れて良かったね

またそのうちに、寄りましょう

 

 

 

『南勢多郡の廃寺』(内田憲治 平成23 群馬県勢多中部仏教会)の粕川地区の廃寺に、「院号寺号宗派不明の寺院跡」があります。

稲里字矢次に存在した。寺院跡は矢次沼の西方にあたる場所にあったという。大正末期の開墾時に墓石や骨壺などが確認されているが、寺院名や存在した年代等は明らかでなく不明な点が多い。

 

どうも気になっていました。

先日、矢次沼(やつぎぬま)は、近戸神社外宮の西方にあることを知りました

 

7月18日、近戸神社外宮を参拝した後、足を延ばしてみます。

近戸神社外宮の西に大光寺沼、その西に県道102号線、その県道を渡り、まもなく右折、らしき場所に到着です

 

沼の姿を確認しなければなりません。

足場は悪いけれど、オニユリの後ろを上ります。

ああ、ここが矢次沼です

農業用の溜池として、現役で活躍中のようです

転ばないように気を付けて、土手を下ります。

 

ここに、寺院があったんですね

『南勢多郡の廃寺』、よくぞ記録に残してくれました

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今井神社と北向観音(南勢多郡の廃寺・今井町観音寺の記憶)

2021-09-20 15:33:21 | 南勢多郡の廃寺

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

今朝も影がはっきり出るお散歩です

天神田(字天神の田んぼ)を廻ります。

ここには、案山子も雀除けグッズも見当たりません。

 

庚申塚古墳を通って帰ります。

今朝は、墳丘上の庚申塔がよく見えます。

見ざる・聞かざる・言わざるの下に、文字があります

そのうちに、確かめましょう

 

日陰を選んで歩いても、きついよう

急いで帰りましょうね

 

 

 

『南勢多郡の廃寺』(内田憲治 群馬県勢多中部仏教会 平成13年)に、(前橋市)今井町三木堂505-1に存在した観音寺(真言宗初瀬小池坊末)があります。

寛保2年(1742)の『前橋藩領内寺院本寺幷所附帳』に「無旦那之寺真言宗観音寺」と記載されているが、その後の記録が見当たらないことから、幕末頃までに廃寺になったと考えられる。~(中略)~現在、今井神社古墳の前方部に堂宇が造られ北向き観音が祀られている。

 

『南勢多郡の廃寺』には、無旦那之寺つまり檀家を持たない廃寺が、結構あります。

今井町観音寺もその一つでした。

 

9月6日、今井神社まで、お使いついでに足を延ばします

迷うことなく、今井神社鳥居前に到着です

でも、駐車場はちょっと迷いました

右の川沿いから入ると、駐車場が有りました。

 

鳥居から入り直しです。

りっぱな鳥居です

由緒もあります

 

元々は天満宮で、赤城神社を合併して今井神社となったんですね。

神社の裏の古墳上に利根左岸十三仏の内の観世音菩薩が祀られて居ます。

神社の裏の古墳上に祀られて居る観音様、今井町観音寺の記憶のようです

 

 

鳥居をくぐる前に、まずは脇を流れる荒砥川を確認です。

橋の名は見つかりませんでした。

 

上流・赤城山方向です。

下流です。

カモたちが悠然と泳いでいました。

 

 

鳥居をくぐると、不思議なものが目に付きます

ここは前方後円墳だったのです。

この石組みは、古墳の石室の石です。

合掌

 

 

さて、墳丘上にある神社にお参りです。

長い階段です

途中で一息。

 

 

左右には、あれ石造物だ

 

もしかして阿弥陀三尊

阿弥陀三尊です

 

天満宮の額が転がってます

何様かな?

 

お地蔵様?

 

 

残りの階段を登って、2礼2拍1礼です。

 

 

さて、裏に回ります。

北向き観音が見えます

いろいろな御利益がありそうです

真っ暗で、観音様のお姿がうかがえません。

でも、合掌

 

南勢多郡の廃寺・今井町観音寺の記憶に逢えました

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南勢多郡の廃寺・飯土井寮

2021-09-18 13:51:35 | 南勢多郡の廃寺

こぬか雨の中、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の北の方を歩いてきました

堀之内の西、東柴の田んぼ道を帰ります。

後ろ姿で失礼します

ここにも、もう刈り取り適期の連絡票です。

9月29日ごろですって。

その頃は晴れるといいね

 

ビッショリにならないうちに帰りましょう。

 

昨日は、ここら辺に、シラサギさんがいました

赤い彼岸花と、品良くコラボしていました

雨の今朝は、何処にもその姿はありません。

 

 

 

『南勢多郡の廃寺』(内田憲治 群馬県勢多中部仏教会 平成23)に、前橋市飯土井町の飯土井寮(いどいりょう)があります。

飯土井寮

飯土井町805番地に存在する。裄を支える舟肘木には唐草模様の彫刻が施され寺院建築の造作が見られる。飯土井村は西大室村観昌寺の檀家であり飯土井寮はその境外施設であった。~(中略)~寮の敷地には鼻毛石村赤城寺7世の石仏があり、赤堀の石山観音や玉村の観音寺とも関係があったようで、また二之宮村の慈照院48世見詔も安政5年(1858)隠居している。飯土井寮は僧侶が隠居し籠もる隠寮として存在していたようである。幕末の嘉永から安政にかけ貞専という尼僧が寮におり指定の教育を行っていた。明治初年には寺院の施設ではなくなったようで、隠寮は現在の飯土井町公民館として提供されている。

 

お使いついでに、ちょっと足を延ばしてみます。

迷うことなく到着できました

 

史跡のポールがあります。

設置者は、荒砥史談会です。

旧荒砥村になるのでしょうか?

 

 

ポールの側には、不思議な形の石造物があります。

開山さんかな?

合掌

 

不動明王に護られているのです。

もっといろいろあったような雰囲気です

 

 

ここは、(前橋市)飯土井町公民館です。

「南勢多郡の廃寺」が調査された頃とは異なり、新築された公民館になってます。

 

 

飯土井寮の石仏群は、公民館の建物の西側に、ひっそりとありました。

むむ、お首が変だぞ

ちょっと違うお首が付いてるみたい

 

 

和尚さんたちの墓石は無事のようです。

 

 

目立つ石造物です

裏を見ると、これが小次郎パパのふるさと・鼻毛石村の赤城寺(せきじょうじ)7世の墓石でした

 

 

石仏のみなさんけっこうお首がありません

 

 

六地蔵幢(ろくじぞうどう)の六地蔵さんは無事ですけど、どんな形の石造物だったのかな?

 

 

奥の方に、端正なお顔のお地蔵様です

でも、よくよく見ると、違う石仏のお顔かも

ここは、明治初年、すさまじい廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れたようです

 

 

北面の馬頭観音は、ご無事です

頭上のお馬さんのお顔も、はっきり見えます

ほっとなごむ光景です

 

 

石仏のみなさんに、合掌

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南勢多郡の廃寺阿弥陀寺に移転・正法院跡

2021-03-20 19:38:01 | 南勢多郡の廃寺

ひめちゃんは小次郎パパと、西の方にお散歩です。

蕨沢川沿いの桜が満開です。

上流を望みます。

右上に、石造物の頭が見えます。

石造物群のはずですけど、枯れ草の猛威に負けてしまってます

 

今日は、黄色い帽子の集団、来ないね

よかった

ひめちゃんは、何故か子どもに恐怖心を持ってます。

ここでは時たま、登校途中の小学生と遭遇してしまう事があるのです

 

桜の下の、百番供養塔と馬頭観音、いいコラボです

ここには早咲きの2種類の桜が植えられているようです。

 

諏訪神社前で、頭を下げて参拝したつもりです

 

そのうちに見知らぬ黒柴がやって来ました。

「ウー、ワンワン

しっかり示威行動をします。

若い雄犬のようです。

「おはようございます

「おはようございます

飼い主さんとは、しっかり挨拶できました。

パパもひめちゃんも、静かに見送ります。

 

行ってしまってから、情報収集です。

 

門柱脇には、真っ赤な大輪唐子咲きが満開です

 

 

 

(前橋市)小島田のショッピングモールに行く途中、どうしても気になる墓地があります。

前々から気になっていたのです。

もしかして廃寺の跡か?

近くのセブンイレブンに駐車して、歩きます。

セブンイレブンからは、雪を頂いた浅間山が見えます。

(この日は3月11日です。)

 

きれいに整地されています。

和尚さんの墓石がいっぱいです。

あれ、碑があります

この墓地を含む広大な境内に多数の堂宇を備えた大伽藍を持ち上野国を統括する勢力を持っていたと伝えられる正法院はあった その正法寺の本堂はこの墓地の北方約百五十米の所に聳えていたが天保十三年十一月の火災により古記録諸共に悉く焼盡くし当寺の面影を偲ぶものは本尊阿弥陀如来とこの墓地とその東側に隣接する参道だけになってしまった 焼失を免れた阿弥陀如来は無量寿山阿弥陀寺(現在の正法院)に安置された 慶応年間合併し阿弥陀寺を廃し正法院とし法燈は連綿と傳えられている

 

正法院だったんですね

先日、「南勢多郡の廃寺・阿弥陀寺」を訪ねて、現在の正法院を訪問しました

すごくりっぱな和尚さんのお墓です

「広大な境内に多数の堂宇を備えた大伽藍を持ち上野国を統括する勢力を持っていた」雰囲気です

合掌

現在も墓地として活用されているようです。

 

ちょっと奥に行ってみましょう。

 

さまざまな如意輪観音やら地蔵菩薩やらがあります

おや、お首のないお地蔵様もいます

合掌

 

さて、正法院本堂へのかつての参道を通って、セブンイレブンに戻りましょう。

今は突き当たりですけど、150m先の本堂にまでのびていたのですね。

左折して戻ります。

さようなら

通るたびに、何度も気になりました。

不思議なご縁で、正法寺跡を訪問できました

 

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南勢多郡の廃寺・朝日山大悲院観音寺

2021-03-04 19:50:06 | 南勢多郡の廃寺

昨日の夕方、ひめちゃんは一人散歩になりました。

いざ、ケンくんちに

ケンくん、いるかな?

いました

やっと逢えました

少しの間だけど、濃密な逢瀬です

まちがいが起きないうちに、バイバイ

また来るね

ひめちゃん、恋の季節だね

あたちは、満足よ

 

ケンくんちの脇の細道を帰ります。

畑中に石造物です。

石殿の中に、どなたか居ます

何様だろう?

どうしてこんな畑中に、居るんだろう?

ここはパワースポットだったのかな?

 

 

 

(前橋市)荒砥中学校北側の道沿いに、石造物が何体かあって、史跡のポールもある所があります。

でも道が細すぎて、車は入れません

先日、少し手前から回り込みました

確か、何年か前に訪問した様な気がします。

でも、訪問したという記憶しかありません。

新たな気持ちで、訪問です。

 

赤い屋根のこのお堂の脇に駐車です。

まず、こちらから参拝です。

大黒堂とあります。

大黒様です。

神様ですね。

2礼2拍1礼です

 

さて、石造物の方に行きます。

 

こんにちは

観音寺の石仏群とあります。

ここは、南勢多郡の廃寺・観音寺だったのです

りっぱな石仏群です。

合掌

 

おや、振り向くと道の反対側に、首のないお地蔵様と六地蔵です

お地蔵様には、それぞれお名前が付いています。

合掌

 

さて、メインのお堂に参拝です。

「荒子学校発祥之地」ですって

とにかく、参拝です。

合掌

 

お堂右の青い屋根の建物は、確かに校舎の雰囲気です

下駄箱も残ってます。

 

その奥は、墓地になってます。

 

さて、帰ろうとしたら、大黒天堂の向こうにも白いポールが見えます

あるかなきかの道をたどります。

 

観音寺の六地蔵幢です。

輪廻幢にかかる塔婆に、旧観音寺の文字が見えます

僧形の墓標もあります。

倒れっぱなしもあって、ちょっぴり哀愁

 

満開の梅の中、みなさんに逢えて良かった。

合掌

 

「南勢多郡の廃寺」(群馬県勢多郡中部仏教会)によれば、

観音寺(笹費山大悲院ー真言宗豊山派大胡山玉蔵院末)

荒口町中原610番地外に存在した。本堂は裄行5間3尺、梁行3尺で、庫裏は裄行4間3尺、梁行9間、境内は338坪であった。明治中期に無住になり明治42年(1909)二宮村の無量寿寺へ合併になった。観音寺文書によれば、寛永2年(1625)讃岐国より観音坊という高僧が来て茅庵を結び居住したと伝えられている。しかし境内には応安3年(1371)の六地蔵幢や延徳3年(1491)の輪廻幢などが存在することから当初は南北朝期に寺が存在していた可能性も考えられる。なお、観音寺の本堂は、明治43年(1910)堀越町字関皆戸の金胎寺(現金蔵院観音寺)の本堂として移設された。

 

そういえば、「無量寿寺墓地分譲中」という看板もありました。

そのうちに無量寿寺も訪問してみましょう

 

金蔵院(こんぞういん)は、行ったことがあります

でも、本堂は新しい耐火建築でした。

 

応安3年(1371)の六地蔵幢や延徳3年(1491)の輪廻幢、今回初めて気がつきました

南北朝時代や室町時代の石造物があるのですね。

 

新たな発見、いっぱい有りました

再訪できてよかった

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