黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

阿保比丘尼の面影を求めて・その3(金鑽神社)

2022-09-29 15:46:35 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

昨日の夕方のことです。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、南の方にお散歩に出ました。

こちらも稲刈りが始まっています。

 

小学生の男の子が走り出てきて、「かわいい、触っていい?」

「いいよ、でも白い子にしてね

タバサねーちゃんを前に出しますけど、触らせません

もう一度前に出すけど、やっぱり嫌がります

ひめちゃんなら、そういう行為に出ますけど、フレンドリーなタバちゃんがです

「ごめんね、嫌だって。又ね。バイバイ。」

 

どうしてかな

そういえばあの子は、大きなマスクをしていました。

マスクをした顔に恐怖心を抱いたのでしょう

まもなくスイミングスクールのバスが来て、彼は乗っていきました。

 

ひめちゃんにも事件です。

緊張してます

「ワンワン、君たちはなぜここにいるんだ

稲刈りの準備で取り外された黒ビニールカラスに反応したのです。

一瞬、カラスの群れに見えたのでしょう

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

阿保氏寄進の多宝塔があるという金鑚神社(かなさなじんじゃ)、阿保氏館跡から10分ちょっとという事で、車を走らせます。

迷わずに到着です。

鳥居の前の道は、国道462号線です。

むむ、この夏、鬼石の緑埜寺(みどのじ、浄法寺)に行くときに通ったぞ

あのころは、県境を越えての移動はダメということでした。

ナビの指示通りに、やむを得ず通過だけしたのでした。

 

鳥居脇の付近の地図を確認です。

 

大鳥居をくぐると、まもなく右手に多宝塔が見えてきます。

説明板もあります。

天文3年(1534)に、阿保郷丹荘の豪族である阿保弾正全隆が寄進したもので、真柱に「天文三年甲午八月晦日、大旦那阿保弾正全隆」の墨書銘がある。

 

阿保氏にかかわる遺構で、阿保氏の記憶ですね

500年も経ってるなんて思えないほど、しっかり立ってます

 

これだけのものを寄進した阿保氏の実力は、相当なものだったのでしょう

足を延ばして良かった

さて、社殿の方に向かいましょう。

 

金鑚神社の由緒があります。

社伝によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打金を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりとされている。

鎌倉時代には、児玉党の尊信が暑く、近隣二十二ヶ村の総鎮守として祀られていた。

 

やはり、阿保比丘尼が生きた時代も、ここ金鑚神社がこの地域の鎮守だったのです

 

社務所があります。

御朱印をお願いします。

書き置きだけということで、日付を入れてもらいます。

武蔵国の二宮だったのです

 

さて、拝殿で参拝です。

あの赤い橋を渡ると、聖なる空間ですね。

古式ゆかしき鳥居をくぐります。

 

真新しい手水社です。

 

隣には、幾星霜を経た付近の案内板です。

鏡岩にまで、行けるかな?

 

ともかく、拝殿で参拝です

拝殿に向かいます。

たくさんの御利益があるようです。

2礼2拍1礼で参拝です。

拝殿の周りを、ちょっとウロウロ。

 

本殿はなく、後ろの御室山がご神体でした

ご神体の山への扉が見えます。

 

さて、鏡岩の方へ行ってみます。

おや、鏡岩の説明板のそばに、熊捕獲の罠です。

多宝塔の所でも見ました。

ここはハイキングコースでもあるようですけど、熊が出没するようです。

 

鏡岩の説明板です。

ここから400m上ったところですか?

高崎城が落城したときに火災の炎が明るく映ったんですか

高崎城の落城って何時のこと

尾根続きには御嶽城跡の遺構ですか

阿保氏が御嶽城主の時代もありました

ここは阿保氏の記憶がいっぱいの場所だったのです

 

おや、この方はどなたでしょう?

日本武尊とあります。

ちょっとかわゆくて、おみそれしました

 

この先を、しっかり登山の格好で2人連れが行きます。

ハイキングコースでも、ちゃんと準備が必要なようです。

捲土重来を期して、退却です

 

道の脇に句碑がいっぱいです。

俳句愛好者の個人の建立のようです。

こういう自分が生きた証の残し方もあるのですね

 

 

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阿保比丘尼の面影を求めて・その2(阿保氏館跡の愛宕神社)

2022-09-25 19:45:27 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

久しぶりに晴れそうな朝です

タバサねーちゃんも機嫌良く目覚てお散歩に出ます

ひめちゃんは何か気にしています。

日曜なので、ひめちゃんの苦手な子供の姿があるのかな?

 

二人は諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

浅間山がいつになく大きく見えます

二人は遠出したいそうですけど、今日はおかあさんの予定があるので、高台中央からUターンです。

 

山上の元蓮田を通って帰ります。

蓮を駆除して稲田にしたはずですけど、蓮はこの夏も生き抜きました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

(埼玉県)神川町は、神流川沿いの南北に細長い町です。

北半分の地図です。

右側を走る国道256号線、上(北)からやって来て元阿保で左折し、次の信号を右折して進むと、阿保神社があります。

その途中に、阿保氏館跡もあるはずでした。

でも、目に入りませんでした。

 

阿保神社でスマホナビで検索して、いざ阿保(安保)氏館跡へ。

阿保神社の説明板に、「(阿保神社は)館のすぐ北西に鎮座している」とあったように、本当にすぐでした

 

小さな愛宕神社です。

この左側の道を通って、阿保神社に行ったのです。

目に入りませんでした

横から、もう一枚

風情のある松です

 

説明板があります。

ここが北武蔵野豪族・阿保氏(安保氏)本貫の地なのですね

この館跡は安保氏総領家の居住地として伝えられ、嘉永元年(1848)には、「安保氏遺跡之碑」が建てられている。

 

「安保氏遺跡之碑」って、石宮様の隣の大きな碑かな?

拓本でも撮らないと、文字は読み取れません

安保氏は、鎌倉時代から栄え、戦国時代には没落したと言うことですけど、ちゃんと記憶が残っているのですね

安保氏は北武蔵の豪族だったのです。

阿保比丘尼(あぼびくに)は、北武蔵の豪族・安保氏の女性で、この付近で念仏往生したのです

 

 

阿保比丘尼の往生譚を確認です。

テキストは「日本思想体系7 往生伝 法華験記」(1974 岩波書店)です。

 

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

(非常にマイナーな古典なので、現代語訳等はありません。漢字を眺めての、超意訳になります。)

阿保比丘には、長い間念仏一筋に生きてきました。

そして、臨終の時に言いました。

「浄土の蓮の花は、雨のように降り注いでいます。私の前はもう青い宝石の世界です。蓮池の水は人のようです。」

光明がやって来て、あたりを照らします。

人々は、音楽を聞きました。

 

光明がやって来て、人々が音楽を聞いたことは、彼女が極楽往生した証明になるようです

 

人々が念仏を唱えることによって、極楽に往生できると信じていた時代があったのです

でも、念仏三昧の日々を送れるのは限られた人々だけでした。

 

そんな人達の記録を残した、上野国山上に住む行仙上人は、どんな人だったのでしょう?

 

地図の左下、金鑚神社&大光普照寺にも寄って行きます

 

(つづく)

 

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阿保比丘尼の面影を求めて(阿保神社)

2022-09-23 14:55:49 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今朝は土砂降りの雨でした

雨雲レーダーは、「12時頃止みます」ですって

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、やむなくビンボー合羽カでお散歩です。

ご近所を歩いてきました。

玄関からおうちに入れてもらい、フキフキしてちょっと遊んで、朝ご飯と一緒にお部屋(サークル)に帰ります。

 

写真がないので、数日前の夕方散歩です

今朝は土砂降りの雨の中だったので、この夕方散歩よりちい散歩です。

 

この日も基本的に雨でした

夕方雨が上がりました

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、南の方にお散歩です。

新里中学校側のこの田んぼ、毎年マネキンの頭が登場します。

ひめちゃんたちは、反応しません。

西の空には、日の光です

浅間山がきれいに見えます

明日天気になるかな?

なりませんでした

 

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

鎌倉時代に上野国山上に住んでいたという行仙上人(ぎょうせんしょうにん)、彼の編集といわれる『念仏往生伝』に、「武蔵国阿保比丘尼(あぼびくに)」の話があります。

第卅七  武蔵国阿保比丘尼
多年念仏者也。至臨終期自云。浄土蓮花既雨下。又云。我前成瑠璃地。如人間水。又光明来照。諸人聞音楽。

 

武蔵国阿保って、何処だろう?

いろいろ検索すると、埼玉県児玉郡神川町元阿保あたりのようです。

元阿保には、阿保神社、阿保氏館跡があります。

車で1時間ほどです。

では、行ってみよう

 

阿保神社の住所、埼玉県神川町元阿保1をナビに入れて出発です。

(訪問は2020年10月です。)

だいたいまっすぐ南に下ります。

伊勢崎市内を通って、板東大橋で利根川を渡ります。

途中、「塙保己一旧宅→」も見かけます。

どうも鬼石の緑埜寺(みどのじ、浄法寺)に行くときに近くを通ってます

 

ちょっとの不安はありましたけど、無事到着です。

赤い鳥居が目立ちます。

祭礼があるのでしょうか?

幟はないけど、長い竿が立ってます。

村社阿保神社です。

 

大きな大きな目立つ木があります

瘤がいくつもあります。

注連縄が巻かれています。

御神木です

 

御神木の後ろにも鳥居です。

もしかして、古い鳥居かな?

 

さて、鳥居をくぐって拝殿に向かいます。

鳥居が少し奥まった所にあるのです。

 

落ち着いた社殿です

 

狛犬の脇に説明板があります。

ここ元阿保の地は、中世丹党の秩父恒房の次子實光は元阿保に住み安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町さらに戦国期にまでつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた300メートル四方と考えられている。館のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰親が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

念仏を唱えて極楽往生したという阿保比丘尼は、阿保氏の女性と考えられます

この近くに、彼女は生きていたんですね

 

狛犬の歯までしっかりみえるのは、珍しいです。

こどもは、やんちゃ坊主かな?

 

扉は閉まっているけど、空間があるのはいいですね

2礼2拍1礼で参拝です

 

失礼します。

奥に色彩が見えます。

もしかしたら、すごい本殿かも

 

後ろの本殿に廻ります。

あれえ、よく見えない

素晴らしい彫刻があるようだけど、網が厳重に張ってあって見えません。

かろうじて、見えた彫刻です。

 

 

本殿の後ろには、境内社がいっぱいです

赤い屋根の下の石造物は、馬の文字が見えます。

馬頭観音かな?

 

天満宮です。

石宮も堂宇も新しそうです。

近年、何かお祀りする理由があったのでしょう。

 

天満宮の並びは、たくさんの石宮様です。

すごいパワースポットです

 

ここから、鳥居と御神木が見えます。

大きな御神木です

 

御神木の隣は、元阿保公会堂です。

新里で言う集会所でしょう。

神社に公会堂(集会所)があることが、地域の神社なのですね

 

公会堂の裏に庚申塔がいくつもありました。

 

このあたりに、念仏往生を遂げた阿保比丘尼が生きていたのですね

 

 (つづく)

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赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その4(毒島城)

2022-09-18 14:29:38 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

ひめちゃんが立ち止まりました

タバサねーちゃんも立ち止まります

ケンくんがやって来たのです

2人はケンくんと濃厚接触です

好かったね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

上野国山上の行仙上人が編集したと言われる『念仏往生伝』第三十話に、「同所布須島尼」があります。

第三十  同所布須島尼

年来念仏者也。信心殊深。剰若有病者。以念

(彼女は長い間念仏を唱えていた。そして彼女は殊に信心深かった。あまつさえ、もし病気の人があれば、念仏で・・・・・・。)

第30話の本文はこれだけです


後は欠落です。

実は、30話の途中に欠落があると思ってましたけど、よく似ると欠落部分の次は別の話です。

次の話は第35話の前・34話(上野国山上付近の念仏往生者)の部分です。

彼女は、やはりさほど若くはない女性のようです。

信心深く、世話好きなおばあちゃんのようです。

以後は欠落してしまいましたけど、もちろん紫雲に乗って仏や菩薩がお迎えに来たことでしょう。




同所とは、前からの続きで、赤堀(旧佐波郡赤堀村、現伊勢崎市赤堀町)と思われます

だいいち、「布須島」って、どう読むんだろう?

ふとひらめきました。

「ぶすじまだ

赤堀の毒島、毒嶋城、そうだ久しぶりに行ってみよう

グーグル検索だと、山上から8km、車で13分です。

 

記憶を辿りながら、細い道を通ってやっと到着です。

(訪問は2020年8月です。)

あれ、説明板が新しくなってる

以前来た時は、かなり薄れた文字でした。

 

ここには大蛇伝説があったのですね。

三浦河内守謙庭が毒島城を攻めた時、この沼には大蛇が住んでおり、なかなか攻められずにいた。そこで三浦河内守謙庭は七つの石臼で毒を作り沼に投げ入れたため、大蛇はいたたまれず西に脱出し、城はたちまち落ちたという。

 

『上野国郡村誌』の佐位郡今井村史跡に、毒島城墟があります。

村ノ西北ニアリ、東西四町南北二町五拾間、四面高岡ニシテ中央ニ凹處七八段アリ、古ハ其周回沼ナリシト云、城主不詳、土俗ノ口碑ニ在昔此城寇ノ為攻ラル、池深クシテ抜ケズ、毒ヲ池水ニ投シテ之ヲ滅ス、因テ毒嶋ノ名アリ、其毒ヲ搗(つき)シ石臼今西北ノ松林中ニアリト云フ

少し違う話のようです。

 

いずれにせよ、石臼で突いて毒を作ったのです。

トリカブトの根を石臼で突いたのかな?

 

 

中心の小高い本郭に上ります。

腰郭のあとは、農地になってます。

道が舗装されています

本郭も農地として利用されているようです。

前は、西に下りる道があった様な気がします。

 

まあ、無理をせずに退却しましょう

見晴らしの良い時代もあったのでしょう。

沼の跡は田んぼになっています。

 

説明板の所から、西を望みます。

あそこは、古墳群のある大室(前橋市)です。

 

 

西側を廻って帰ります。

やっぱり道があります

農業用かな?

左手の森の中(城の北西)に、毒を突いた石臼があるのかな?

 

突き当たりを右折して帰ります。

毒嶋城を裏から見て帰ります

沼の中に浮かんだ城ですね

見ようによっては、穏やかな風景にもみえます。

この付近に、他に「ぶすじま」の地名はないようです

このあたりに、「布須島尼」がいたかもしれません

 

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赤堀念仏往生伝の記憶を訪ねて・その3(福田山大林寺)

2022-09-14 19:54:53 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

彼岸花が咲き始めたよ

ひめちゃんは興味がないようです。

お腹にいい草かな、食い付いています

 

山上の蓮田を廻って帰ります。

稲穂は倒れてしまっているのに、蓮は花も葉も元気です

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

赤堀の念仏往生譚の第28話・第29話を確認です。

第廿八 同国赤堀紀内男

盛年之比。以博奕成業。而建長元年閏十二月或時戌剋許。僧二人出来告云。汝近日可生極楽。早遂出家也。件僧経一夜。至其朝不知行方。其後出家。俄痢病更発。兼以十余日 。前両僧又来。毎夜教訓之至。同月廿二日。所住西方墻等悉破去。遙向西方天逝去了。

第廿九 同国同所懸入道

自在俗之時。常高声念仏。至老年遂以出家。至建長三年五月廿四日。仏来告云。来六月二日辰時可往生云々。仍廿五日樹市中。告諸人云。来月二日可往生 。諸人来結縁云々。人々不信之。或人至其期。相尋之処。至其門辺。聞有火急之声。即是彼最後念仏也。看病云。只今沐浴潔斎。着紙衣袈裟。端座向西。火急念仏。五十余遍。即臨終了。智阿弥陀□止見之語之。

(『日本思想体系 7 往生伝・法華験記』1974岩波書店)

 

前者は、若い頃博打打ちだったけれど、念仏往生した人の話です。

後者は、ずーと信心深く、老年になって出家、仏のお告げを受けて、市中に立って、「私は来月二日に往生します。みなさん来て、結縁してください。」と云って、往生していった人です。

 

 

主人公たちは、どうも街中にいたようです

赤堀には市場町という地名があります。

古来市が立って賑やかな所だったのでしょう

そして、今も賑やかです

 

(2020年の9月)ベイシアショッピングモールの隣の、福田山大林寺を訪ねました。

 

大林寺については、検索してもほとんど何も出てきません。

ふと『ぐんまのお寺 曹洞宗Ⅱ』(上毛文庫 平成15年)を開いてみました。

ありました

大林寺は慶長十九甲寅年(1614)に、赤堀入道昌翁藤繁居士の開基、秀山梵芝和尚の開山によって開創された寺である。

開基の赤堀入道は秀郷流藤原氏の一族、名門赤堀氏の一族であろう。・・・(中略)・・・寺の開創と開山については異説がある。境内に「鬼の足跡」と呼ばれる安山岩の自然石の平らな面に線刻で二つの塔婆が描かれている。右手に寛永四年(1627)丁卯年霜月廿四日、傑山安置開山。左手は海月二世という文字が読める。

 

この門柱、今までは「ちょっと狭いかなと」ハンドルを切れませんでした。

今回はベイシアから歩いて訪問です。

 

参道右手に、ちょっと不機嫌そうだけど、目立つ如意輪観音です。

 

参道を進むと、真っ赤な山門(仁王門)です。

仁王様は、ガラスの向こうにしっかりしまわれています。

 

 

 

仁王門を抜けると、左手に幼稚園です。

 

 

参道を進みます。

とっても大きなお地蔵様です。

前掲書によれば、あの高遠石工(たかとういしく)の作品だという事です

 

おや、こちらのお地蔵様は、ロープで縛られています。

ちょっとつらそうです

どうも改装工事中のようで、雑然としています。

 

改装工事なんて関係ない子達もいます。

 

 

本堂前にも、工事用車両です。

横から、失礼します。

福田山の山号が見えます。

 

 

左後ろには、真っ赤な鐘楼堂です。

赤い鐘楼堂と青松とのコラボ、いいですね

 

 

さて、本堂の左手は古い墓地です。

 

左奥の大きな石が気になります。

何か書いてあるようですけど、読めません。

もしかしたら、これが「鬼の足跡」?

 

和尚さんの墓標も俗人の墓標も、雑然と存在するようです。

奥に変わった形の墓があります。

 

変形板碑?

 

あの変わった墓の方に行ってみます。

「木火土金水(もうかどごんすい)」ですって

前掲書には、何も記載がありません。

 

本堂前で、もう一度参拝です。

あれ、蓮と黄金色の狛犬が居たんですね。

 

雑然としていたけれど、かえって市場町の雰囲気でした

 

 

 

 

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