ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を西に出ようとしました。
あれえ、みどりのおじさんがいる
もうじき黄色い帽子の小学生の集団がやって来ます
急遽、田んぼ道に入ります。
西には真っ白な浅間山が見えます
小学生が行ってしまった後、北に見える赤城山はとても穏やかに見えました
『桐生老談記』で、桐生から出撃した由良勢が陣取った「塩原の神明の森」は、最初は塩原神社(みどり市大間々町塩原)かと思いました。
神明社を訪れる前日に、塩原神社に出向いていました。
地図で大体見当が付いていたので、ナビを入れずに出掛けました。
有りそうな場所ですけど、神社がありません。
スマホの経路案内を入れました。
途端に、「お疲れ様でした。目的地に到着です。」
ええ神社はありません
どうも下のうっそうとした木立がくさいぞ
なんとか回り込みます。
ありました
左の端に鳥居があります。
階段を降りて、鳥居の額を確認です。
塩原神社です
鳥居の向きからすると、うっそうとした木々の下から登るのが、本来のようです。
くぐって拝殿前からみた鳥居です。
ここは、けっこうな高台になります。
どうも陣取ると言うより、立てこもりたくなる砦に向いていそうです。
何百人も結集できそうにありません
境内を散策です。
崩れ落ちそうな屋根の建物は、社務所かな、それとも留守番さんの住まいかな?
こちらの拝殿と本殿は、立て直したのかな?
形の異なるりっぱな灯籠があります
狛犬はいません。
合祀された神々の社殿や石造物があります。
この方は目立ちます。
甲子大黒天(きのえねだいこくてん)です。
『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)によると、
塩原の鎮守で、字高松に鎮座する。
この神社は、明治40年に村社および無格社七社を合祀して、新たに成立した神社である。そのため現在でも八幡様と呼ぶ人もいる。
明治40年に成立したんですね
八幡様ですか
『山田郡誌』には「創立嘉暦(かりゃく)3年高守忠国乱を避け嵯峨天皇崩御後30年頃、天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り本社を創立せり」とあり、八幡宮の由緒を知ることができる。
ともあります。
嘉暦3年(1328)は、「嘉暦の騒動」まっただ中です。
嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を廻る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛(ウィキペディア)です。
鎌倉幕府滅亡まで、あと5年です
「高守忠国」については、いくら検索してもわかりません
「嵯峨天皇崩御後30年頃」とありますけど、嵯峨天皇は延暦5年(786)~承和9年(842)の人です。
300年くらい歴史がずれているかな
「天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り」って、嵯峨天皇の直筆の文書を持って来たのですか?
嵯峨天皇は漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人とされています。
嘉暦3年(1328)京都でも、大覚寺統と持明院統の間で、皇位継承の争いが起こっていました。
高守忠国は、鎌倉ではなく、京都から来たと考える方が自然でしょうか?
でも、なぜ塩原にやって来たのでしょう?
まだ、新田義貞は蜂起していません。
新しいけど古い由緒の塩原神社です
松源寺が近くなので寄って行きます
紫陽花と円空仏の寺ですけど、きょうは円空仏はパス。
境内をちょっと散策です。
前回は円空仏とじっくり対面して満足して、境内の散策はおろそかでした。
初めまして
右からみざる・きかざる・いわざるの三猿がわかります
お地蔵様のようですけど下に三猿がいるように見えます。
地蔵型の庚申塔でしょうか?
2鶏2猿の庚申塔です。
みざる・きかざるがよく分かります
あの左上に見える杉林の上方が、塩原神社だと思います。
春を待っている紫陽花がいっぱいです
また、紫陽花の季節にお邪魔しまーす