黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

塩原の鎮守・塩原神社(嘉暦3年乱を避け)

2020-01-30 20:45:14 | 群馬県・東毛

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を西に出ようとしました。

あれえ、みどりのおじさんがいる

もうじき黄色い帽子の小学生の集団がやって来ます

急遽、田んぼ道に入ります。

西には真っ白な浅間山が見えます

小学生が行ってしまった後、北に見える赤城山はとても穏やかに見えました

 

 

『桐生老談記』で、桐生から出撃した由良勢が陣取った「塩原の神明の森」は、最初は塩原神社(みどり市大間々町塩原)かと思いました。

神明社を訪れる前日に、塩原神社に出向いていました。

地図で大体見当が付いていたので、ナビを入れずに出掛けました。

有りそうな場所ですけど、神社がありません。

スマホの経路案内を入れました。

途端に、「お疲れ様でした。目的地に到着です。」

ええ神社はありません

どうも下のうっそうとした木立がくさいぞ

なんとか回り込みます。

ありました

左の端に鳥居があります。

階段を降りて、鳥居の額を確認です。

塩原神社です

鳥居の向きからすると、うっそうとした木々の下から登るのが、本来のようです。

くぐって拝殿前からみた鳥居です。

ここは、けっこうな高台になります。

どうも陣取ると言うより、立てこもりたくなる砦に向いていそうです。

何百人も結集できそうにありません

 

境内を散策です。

崩れ落ちそうな屋根の建物は、社務所かな、それとも留守番さんの住まいかな?

こちらの拝殿と本殿は、立て直したのかな?

形の異なるりっぱな灯籠があります

狛犬はいません。

合祀された神々の社殿や石造物があります。

この方は目立ちます。

甲子大黒天(きのえねだいこくてん)です。

 

『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)によると、

塩原の鎮守で、字高松に鎮座する。

この神社は、明治40年に村社および無格社七社を合祀して、新たに成立した神社である。そのため現在でも八幡様と呼ぶ人もいる。

 

明治40年に成立したんですね

八幡様ですか

 

『山田郡誌』には「創立嘉暦(かりゃく)3年高守忠国乱を避け嵯峨天皇崩御後30年頃、天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り本社を創立せり」とあり、八幡宮の由緒を知ることができる。

ともあります。

嘉暦3年(1328)は、「嘉暦の騒動」まっただ中です。

嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を廻る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛(ウィキペディア)です。

鎌倉幕府滅亡まで、あと5年です

「高守忠国」については、いくら検索してもわかりません

「嵯峨天皇崩御後30年頃」とありますけど、嵯峨天皇は延暦5年(786)~承和9年(842)の人です。

300年くらい歴史がずれているかな

「天皇の御宸翰(しんかん)奉持し来り」って、嵯峨天皇の直筆の文書を持って来たのですか?

嵯峨天皇は漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人とされています。

嘉暦3年(1328)京都でも、大覚寺統と持明院統の間で、皇位継承の争いが起こっていました。

高守忠国は、鎌倉ではなく、京都から来たと考える方が自然でしょうか?

でも、なぜ塩原にやって来たのでしょう?

 

まだ、新田義貞は蜂起していません。

新しいけど古い由緒の塩原神社です

 

松源寺が近くなので寄って行きます

紫陽花と円空仏の寺ですけど、きょうは円空仏はパス。

境内をちょっと散策です。

前回は円空仏とじっくり対面して満足して、境内の散策はおろそかでした。

初めまして

右からみざる・きかざる・いわざるの三猿がわかります

お地蔵様のようですけど下に三猿がいるように見えます。

地蔵型の庚申塔でしょうか?

2鶏2猿の庚申塔です。

みざる・きかざるがよく分かります

 

あの左上に見える杉林の上方が、塩原神社だと思います。

春を待っている紫陽花がいっぱいです

また、紫陽花の季節にお邪魔しまーす

 

 

 

 

 

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塩原神明の森

2020-01-29 21:38:18 | 群馬県・東毛

小次郎パパは、13歳半になります。

2009年、3歳ころの写真です。

今ではパパのシッポはほとんど巻いていませんけど、巻いています

三四郎という2000年生まれの先住犬がいたので、ちょっと神経を使っていたようです。

でも、病気一つせず、元気に暮らしていました。

ところが数ヶ月前、お腹を壊して、食べられない日々が続きました。

それから、お腹に負担がかからないように、ドッグフードもかえました。

食欲が増して、何でもよく食べるようになりました。

それなのに、数日前、背中に何か腫れ物のような突起が出現しました。

ちょうど巻いたシッポの先あたりです。

どんどん大きくなります

動物病院でみてもらったら、「真ん中が柔らかいので腫瘍ではなく、脂肪が集まっているのです。いまから5日後くらいに噴火するでしょう。また、一週間後に来てください。」

注射をして飲み薬をもらいました。

腫瘍でなくてよかった

 

 

『桐生老談記』に、天正6年10月黒川衆を攻めるため、桐生から出陣した由良勢は、塩原神明の森に陣取ったとあります。

塩原神明の森とはどこか?

塩原村の鎮守塩原神社かと思いましたけど、『大間々町の社寺』(大間々町誌基礎資料Ⅺ 平成9年)に、塩原には神明社がありました

地図もあって、場所も分かりました。

46が神明社、42が塩原神社です。

44が、紫陽花寺で円空仏の寺松源寺です。

真ん中に渡良瀬川(黒川)が流れます。

川の南には手振山(てぶりやま)があります。

 

福岡大橋を渡って、46の場所を目指します。

細い道ですけど、左折します。

あ、見たことある石造物です

でも、町誌にあった情趣のある建物はありません

壊れて崩れ落ちた建物と、崩れそうな建物があるだけです

少し位置を変えてみます。

もしかして、崩れそうなのは本殿?

崩れてしまったのは拝殿?

あの情趣いっぱいの建物は、今はこの残骸?

 

左の山に電波塔が見えます

手振山です。

大間々の名産品に「手振りうどん」というのがあります。

あの山から命名されたのですね

 

もしかしたら、2011年(平成23年)3月11日の東北大震災の時に倒壊したのかな?

ひめちゃんちの近くの諏訪神社も、その時一の鳥居が崩れ落ちました。

一の鳥居は再建されることなく、二の鳥居に諏訪神社の額がかかっています。

 

町誌資料では、『山田郡誌』にあったという興味深い話を掲載しています。

福岡村大字塩原の松島某昔伊勢神宮に於いて毎年五十鈴川の橋上より天照皇大神のご神体を流す例ありと聞いてそのご神体ほしさに遙々伊勢へ参りその事のあるを待ち居たり。然してご神体を奉載し帰国せんとしたるに、これを見附けられ追跡せられて塩原まで来れり。事の紛糾を案じ追跡者を塩原村の沿岸渡良瀬川の絶壁よりころがし落したりとのこと、今もその場所を伊勢ころがしいふ。今の神明宮のご神体はそれなりといふ。依りて明治初年迄は祭日または御遷宮等の節は厳かなる式典を挙行したりといふ。

そうだったのですか

あの朽ち果てようとしている本殿には、そんなすごい御神体があったのですか

 

道の向こう奥(画面左中央)には松源寺、その後ろが塩原神社です。

塩原神社にも参拝しました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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瀧沢不動尊への道・その4(75番目の丁抗を探して)

2020-01-28 15:56:23 | 瀧沢不動尊への道

初雪です。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の北の方を廻ってきました。

ひめちゃんたちのお散歩の時は、まだ少し雪がちらついていました。

 

 

 

瀧沢不動尊への道程、関の摩崖仏にある丁抗が74番目、龍興寺の門前の丁抗が76番目です。

では、75番目は関の摩崖仏と瀧興寺の間にあるはずです。

関の摩崖仏から瀧興寺まで、直線の道はありません。

人家・畑等が入り組んでいます。

なるべく近道を選んで、車で走りました。

ありません

 

瀧興寺の門前で、76番目の丁抗を確認です。

76丁目です。

上にあるのは不動明王のキリークかな?

下に滝沢道とあります。

瀧ではなく、滝の文字です。

 

東側です。

石工の名前があります。

信州宮下藤左衛門
もしかしたら、高遠石工(たかとういしく)?
「藤左衛門」、縁のある名前です

 

南側です。

不動明王の御真言かな?

 

北面です。

天明八戊申稔六月吉日 前住尊盛立之

天明8年は、西暦1788年、戊申(つちのえさる)です。

天明2年から始まった天明の飢饉も続いています。

天明3年には、浅間山が噴火して、飢饉に追い打ちをかけました

そんな時の建立なのですね

不動明王の法力に強い期待をしています

 

さて、どうしよう?

200mだから、歩いて見よう。

車が通れないような細道で、関の摩崖仏まで歩いてみます。

ありません

74番目の丁抗を確認して、鏑木川沿いを歩いてみます。

 

200mをかなりオーバーしそうです

畑の中に埋もれてしまったかな

 

瀧興寺にもどり、車で353号線廻りで、関の摩崖仏を目指します。

関の摩崖仏→の表示を入ってしばらくして、道ばたに気になる物があります。

七十三の文字が見えます

73番目の丁抗だ

三分の一は埋まっていて、石もかなり風化しています

でも、不動明王のキリークみたいだし。

なにせ、74番目の丁抗がすぐそこです

右の杉林が関の摩崖仏です

 

1丁は約109mということですけど、見えるくらいに近いです

探していた75番目の丁抗ではありませんでした。

でも、丁抗と丁抗の距離感が実感できました

道ばたで忘れ去られている73番目の丁抗に出会えたことは、何かの縁なのでしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

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瀧沢不動尊への道・その3(関の摩崖仏)

2020-01-27 20:31:03 | 瀧沢不動尊への道

雪の予報が出ています。

ひめちゃんと獅子丸は、七海ママの昼散歩に付き合います。

二人とも、ハイシニアのママに合わせて歩けます

みんな上機嫌で帰ってきました

 

 

 

桐生市のHPによれば、
その大滝のふもとの堂宇は天明2年(1782)の火災で焼けてしまいました。尊盛和尚はその再建に努力し、記念として不動尊から瀧興寺までの道程に丁抗(1丁は約109メートル)を設置しました。
(尊盛和尚は)やがて瀧興寺は第13世の尊英にゆずり、自らは不動尊の別当(お守りする)になったと伝えられています。

 

不動尊から瀧興寺までの道程、最後の76本目の丁抗は、龍興寺(りゅうこうじ)の門前にありました。

76本目から逆にたどって行くと、瀧沢不動尊へたどり着けるのです

 

そして74本目の丁抗は、関の摩崖仏(せきのまがいぶつ)にあります。

帰り道です。

寄って行きましょう

 

空っ風街道から国道353号線にでて、大間々方面に下ります。

国道沿い右側に、小さいですけど「関の摩崖仏→」の表示があります。

右折してしばらく行くと、摩崖仏の前にでます。

建物は覆い屋ではなく、休憩所のようです。

 

右側に丁抗があります。

瀧沢不動尊から74丁、8066m、だいたい8kmです。

 

ここは群馬県の指定重要文化財です。

この摩崖仏は、鎌倉時代のものだとあります。

700から800年経っているのですね

瀧沢不動尊より古いのです

 

阿弥陀三尊のお姿は、あまりはっきりとは拝めません

風化が激しいです

前に不動明王がいます。

説明板にあるような、阿弥陀三尊の容貌とか衣類・持ち物はわかりません

でも、ひめちゃんたちのお散歩コースにある、高縄の摩崖仏よりは、少し保存状態がいいようです。

くりぬいた空間の中に彫られているからでしょう。

 

お不動様には文字が見えます。

元禄二年(1689)己巳(つちのとみ)七月吉日

松尾芭蕉が河合曽良と「奥の細道」の旅をした年です

お不動様330歳です

石の性質でしょうか、劣化がうちばです。

 

権大僧都龍寶?

修験者?

江戸時代には当たり前にいた人達です。

 

すぐ下には鏑木川が流れます。

河原には石造物がいくつもあります。

馬頭観音がメインですけど、弁財天もあります

 

道ばたには、巨大な道祖神があります。

道祖神には、横に弘化3年(1846)とあります。

 

鏑木川を渡って、はす向かいに、山神宮があります。

まるで、山神さまが舟に乗って鏑木川を移動するようです

鏑木川にかかる橋の名は、不動橋です

 

ここは古くからのパワースポットで、また多くの人が集い行き交う、山上世界の入り口だったのです

龍興寺はここから北東に2丁、約200mです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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赤城山瀧沢不動尊・後編

2020-01-25 21:09:41 | 瀧沢不動尊への道

七海ママは今年の6月で16歳になります

人間だと80歳くらいだそうです。

夜にも、ちょっとそこまでちい散歩が必要です。

動物病院の先生によると、ためておけないんだそうです。

寒さが応えるようなので、服を着せるようになりました。

嫌がるふうもなく、気にいってるようです。

昼間も寒いと着ています。

ひめちゃんは、もっともっとおばあちゃんになったら、服を着ようね

 

 

瀧沢不動尊に到着しました

む、おじさん邪魔

でも、入り口の高さがわかります。

大人の頭がちょっとぶつかりそうなのが、「みそ」なのでしょう

参門の壁に、なにやら説明があります。

およそ600年前に、佐貫の豪族が佐野の仏師鋳造させ、この断崖絶壁の岩穴に奉納した。

龍興寺の12代住職尊盛が焼失した堂宇を立て直し、別当として移り住んだ。

その後管理者が度々変わったが、現在は地元・室沢地区で守っている。

奉納された不動明王は、その後、右手、両足、火炎がなくなりました。

右腕は上杉謙信が持ち去り深谷・下手計(しもてばか)の鹿島神社に、火炎は榛名町の火炎不動に、両足と台石は龍興寺にあるらしい

 

わあ、確かに岩穴の中にお堂がある

手水社もクラシック

廻りに石造物があります。

赤い鳥居もあります。

「赤城稲荷大神」とあります。

 

反対側には地蔵堂があります。

こちらの廻りにも、たくさんの石造物です

みなさん不動明王ではありません。

 

では、注連縄をくぐって、瀧沢不動尊にお参りです

あれ、もしかして不動尊はあの厨子の中?

隣の部屋に、こたつに入って、3人おじさんがいます

「こんにちは お不動様は拝めないんですか?」

「元日と5月5日は、拝めるよ

「みなさん、いつもいるんですか?」

「日曜日は、いつも詰めているよ

お札(ふだ)が見えます。

「お札出るんですか?」

「ああ、出すよ。500円だよ。」

 

瀧沢不動尊のお札です

両足ないはずですけど、片足あるお不動様です

ここは、旧勢多郡粕川村室沢なのです。

 

さて、それでは不動大滝に行きまーす。

粕川村時代のスタンプラリーのボックスがあります。

参門脇から、粕川の方に降ります。

川を渡ると言っても、渡れそうなところがありません

足を滑らせると、川の中です

渡れそうな所を探して上流にいきます。

大滝は見えません

かなり上流でやっとのことで、川を渡ります

あ、滝だ

矢印に従って登ります

来るとき通行止になっていた道です

歩いている人がいます

あの橋が通行できるようになったら、不動大滝はもっと行きやすくなりそう

先はまだまだ遠そうです

 

ちょと遠くからだけど、瀧沢大滝を眺められました

今回はここで退却です

 

帰り道も慎重に、大石ゴロゴロの河原を歩きます。

こんなとこ渡って、戦なんて無理だ

大滝にはたどりつかなかったけど、小滝はいくつもあります

それなりの風情です

小滝もいいもんだ

やっとのことで瀧沢不動尊に戻ります。

熊よけの鈴を鳴らして、参拝している青年がいました

やはり、鈴を持っていた方が安全ですね。

 

さて、帰ります。

む、またまた、おじさん邪魔

でも、参門の不思議な根っこの大きさがわかります。

さて、ひめちゃんたちが待ってるから、帰りましょう

 

来た道を帰ります。

行きより少し楽かな?

もうすぐ「瀧み所」です。

おや、見える

大滝が見えます

「瀧み所」はやはり「瀧み所」でした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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