昨日の夕方、ひめちゃんは一人散歩になりました。
いざ、ケンくんちに
ひめちゃんは足早に、大好きなケンくんちに直行です
こんにちは、逢いたかったわ
つかの間の逢瀬だけど、アタチは満足よ
また寄るわね
ケンくんちにのそばの石仏さんたちに、ありがとう
つるべ落としの秋の日に、急いで、天神田(字天神の田んぼ)を闊歩して帰りました
大戸の関所跡でいただいたパンフレットをみると、忠治地蔵(国定忠治処刑場跡)はそんなに遠くなさそうです。
国道406号線(草津街道)を、南に下ります。
まもなくあるはずでしたけど、かなり行ってもありません
見落としたかな、Uターンしてじっくり沿道を見ながら走ります。
ありません
大戸の関所跡に戻ってしまいました
もっと先だったんだ
気を取り直して、ひたすら国道406号線を走ります。
心細く走ります。
あ、大戸宿の灯籠です
忠治地蔵の表示もあります。
やっとやっと辿り着いた、忠治地蔵です
入り口には、キノコの直売所があったのかな?
今は営業していないみたいです。
忠治地蔵が見えます。
大きな大きなお地蔵様です。
合掌
お顔が削られています。
もしかしたら、他の部分も削られているのかな?
削られないように着物を着ているのかな?
ウィキペディアによれば、
忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころ中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区に匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取り調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。賭博・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せらる。享年41。
ちょと寂しさの漂う後ろ姿です
奥には供養塔かな?
合掌
閉まってはいるけど、売店には気になる額があります。
忠治の子分の一覧と言うことです。
どのくらい信憑性があるかは分かりません。
でも、ひめちゃんちの近所の地名の人が何人もいます
武井の浅次、新川の兵吉、小林の喜三郎等々
そして、なんと関の住職尊純ですって
彼は、「関の滝興寺の住職滝沢不動に住み忠治を匿っていた」
ひめちゃんちのある新里村のあたりも、忠治といろいろ関わっていたんですね