黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上野国細井尼の面影を求めて・その1(細井神社)

2022-10-31 15:21:08 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

突然、ひめちゃんは雑草が生い茂る脇道を行こうとします

黄色い帽子の小学生が、集団登校でやってきます

子供が苦手なひめちゃんには、早くから見えていたのでしょう。

 

少し行くと、草刈りしてある場所に出ました。

ひめちゃんたちは、難関を突破したので、ご褒美の催促です

今年は何故か、田んぼのあぜ道が雑草に覆われて、歩きにくいです

 

天神田(字天神の田んぼ)を歩いて、堀之内に戻ります。

ひめちゃんちの桂の木、黄葉が始まってます。

かなり遠くからも目立つ桂の木です

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

『念仏往生伝』第47章は、同国細井尼の往生譚です。


彼所有新平入道者。是妹尼也。天性有道心。盛年之比。辞夫手依付兄入道。渡於世間。老後天下同多病死之人。此尼既受病及危急。挙二手欲受取物之体也。看病問故。答云。蓮花雨下。其体微妙。異人間花。仍所欲受取也云々。其後無言。受花之手。尚又如前。仍人々称往生人。文応元年<庚申> 夏比也。

 

同国は、第46章の上野国大胡小四郎秀村と同じ上野国です。

彼女は、上野国の細井に居た尼さんと思われます

彼女が往生した文応元年は、西暦1260年、日蓮が「立正安国論」を幕府に提出した年です。

 

地図を眺めると、大胡の向こう、上泉の向こうに、上細井と下細井があります

このあたりは、旧勢多郡南橘村(みなみたちばなむら)です。

上細井には、細井神社があります

 

(2020年11月)細井尼の面影を求めて、細井神社に行ってきました

 

大胡から県道3号線で西に行き、上泉町で右折、県道76号線をひたすら西に進みます。

上細井の信号を右折します。

ゴツゴツした榛名山が迫ってます。

 

少しいくと、細井神社⇒の表示です。

ほどなく到着です。

境内というか、隣の上細井公民館の前に駐車です。

ここは、かつては赤城神社で、明治の時に細井神社と改称したそうです。

 

鳥居から参拝です。

 

 

大きくみごとに口を開いた狛犬です。

ちょうど秋真っ盛りのころだったかな

 

こちらはしっかり口を閉じています。

両方ともかなりの獅子鼻かな

 

2礼2拍1礼で参拝です

 

おや、賽銭箱に何か張ってあります。

御朱印です。

「御朱印は、広瀬町の飯玉神社で」とあります。

機会があったら、そのうちに伺いましょう。

でも、「書き置きで置いて賽銭箱に初穂料を入れる」ほうがありがたいなあ

 

 

社殿の周りを歩いて見ましょう。

 

クラシックな灯籠です。

 

境内社がいくつもあります。

御神木?

どれだろう?

切り倒されちゃったのかな?

 

本殿です

覆屋もこのくらいだといいですね

あんまり厳重に覆われてしまうと、神様も息苦しいことでしょう。

そんなに古くないかな?

 

 

神輿が収納されています。

 

 

隣の上細井公民館にも御朱印が張ってあります。

上細井の細井神社を参拝して、ちょっとだけ細井尼と同じ空気を吸えたかな

 

 

(つづく)

 

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その4(大胡氏時代の大胡城・大胡神社)

2022-10-27 15:23:52 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を北に出ます。

高縄の摩崖仏裏から、摩崖仏に行こうとしました。

あれえ、以前より参道を塞ぐ機材が増えてます

参道は、ちょっと通れません

ここのところ、また参道が塞がれていました。

今朝は、さらにパワーップです

摩崖仏のパワー、完全になくなっています

哀れな哀れな、桐生市指定重要文化財・高縄の摩崖仏です

 

ひめちゃんは、黄色い帽子の集団に気づきました

急いで岩神沼に避難です。

だーれもいないのは寂しいね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

大胡氏時代の大胡城は、現在の大胡神社のあたりだということです。

縄張り図の近戸出丸に、大胡神社はあります。

大胡神社も、『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

(2020年11月20日)近戸出丸の坂道を上り回り込んで、神社の駐車場に到着です。

 

 

紅葉のいい雰囲気です

ひとまず、一の鳥居まで階段を降ります。

階段の脇には、大きく大胡神社とあります。

ウィキペディアによれば、

大胡城の守りとして城の北側に位置する。明治中期まで近戸神社(ちかとじんじゃ)と称したが、明治中期に近隣の神社を統合して現在の形となった。

 

近戸神社があったので、近戸曲輪(近戸郭、近戸出丸)なのですね。

近戸の意味はよく分かりませんけど、「霊山赤城山への入り口」の意味という説もあります。

神社の脇を走る県道16号線を登ると、三夜沢(みよさわ)赤城神社に行き着き、更につづら折りの山道を登ると、赤城小沼に着きます。

最近、三夜沢赤城神社の脇を登り、県道16号線で赤城小沼に行ってきました。

 

崩壊危険区域の表示です。

主要地方道大胡赤城線が県道16号線です。

 

 

石の鳥居をくぐり、階段を登ります。

思ったほど大変ではありませんでした。

日頃ひめちゃんたちと歩いているおかげでしょう

手すりがあるのも有り難いです

 

 

二の鳥居は、白木の鳥居です。

左右の狛犬は、ちょっと個性的です。

 

 

一の鳥居を見下ろします。

秋の景色ですね

 

 

二の鳥居をくぐると、説明板があります。

ムクロジの樹齢300年以上の巨木があるのですね。

神社の由緒等の説明はないようです。

 

 

拝殿で、2礼2拍1礼です

さて、どれがムクロジでしょう?

注連縄(しめなわ)がある木があります。

これかな

 

見上げると、巨大です。

黄葉の大胡神社です

 

隣の紅葉と銀杏もコラボして、紅葉真っ盛りです

 

 

さて、本殿を確認です。

彫刻のあるりっぱな社殿です

 

 

本殿後ろの石宮も確認です。

たくさんの神様が合祀されています。

 

大胡氏時代の大胡城はここで、大胡氏の館跡は養林寺だということです。

深く浄土宗に帰依した大胡氏の記憶です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

 

そして、ここは赤城の神々の住む赤城山への入り口、近戸神社だったのです

 

 

(大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて 終)

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その3(晩秋のひまわりが似合う寺・金蔵院)

2022-10-23 19:18:13 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

昨日は朝から、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お出かけスタンバイです

「どこかへ行こうよ

でも、ひめちゃんは対人恐怖症の一面もあります。

最近はだいぶ良くなってきましたけど。

「じゃあ、膳八幡神社の隣のサザンカ園に行こう。朝散歩で歩いて、近くまで何度も行ってるし。」

 

車に乗ると、過呼吸になり落ち着かないひめちゃんです

サザンカ園に着いても落ち着きません

早咲きのサザンカがきれいです

 

ついでだから、八幡神社にも寄っていきましょう

八幡神社に着くころには、落ち着いてニッコリひめちゃんになれました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

 

大胡氏館跡の養林寺の北に、金蔵院(こんぞういん)があります。

金蔵院は、

明治以前は金胎寺といい、元亀年間(1570~1573)に祐慶上人が開山した。明治42年(1909)に大胡城内にあった玉蔵院や江木町にあった西方寺を合併し、寺号を金蔵寺と改めた

ということです。

 

大胡氏とは直接の関係はなさそうですけど、なにせ館跡のすぐ北、十分行動範囲です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねての一編です

(訪問は、2020年11月です。)

 

 

入り口がわからずウロウロしましたけど、脇から到着です。

駐車場の隅にひまわりが咲いています

気になるけど、後回しにしましょう。

 

どっしりとした山門です。

 

山門左に見える鐘楼堂も、同じようにどっしりと見えます。

 

山門をくぐると、大きな紅葉の木です。

 

全体に新しい雰囲気ですけど、六地蔵は古そうです。

落ち着いていい雰囲気です

 

山門を振り返ります。

桜の季節は、絵になりそうな雰囲気です

 

本堂で参拝です。

扉は堅く閉ざされていますけど、合掌

現代風の耐火建築ですね。

 

本堂脇には多くの石造物です。

赤城山も見えます

 

御朱印は桜の季節にでも、再訪したときにお願いしてみましょう。

人の気配のない、静謐な世界です。

 

鐘楼堂脇の銀杏の黄色も、一番きれいな時期だったようです

 

もう一つ気になる黄色がありました。

山門を出て、晩秋のひまわりに逢いに行きます

晩秋のひまわりが似合う寺です

 

さて、桜の咲いていない桜並木が通れそうです

こちらから出てみましょう。

 

門柱を出て信号を左折し、少しいくと、大胡城・近戸曲輪(郭)だったという大胡神社です

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その2(浄土宗・養林寺)

2022-10-18 16:02:33 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに岩神沼に到着です。

水は少し濁ってます。

逆さ赤城も映ってません。

水鳥の姿はありません。

みんな、どうしちゃったんだろう?

 

あれ、黄色い帽子の集団がやってくる

通過待ちで、ここからUターンです。

昨日いっぱい歩いたから、今朝はここで帰ります

 

マリーゴールドの道を帰ります。

 

 

 

 

 

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大胡城の西に位置する浄土宗の養林寺は、大胡氏館跡と言われます。

(『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会1988)

先に訪問した長善寺の、ちょっと東になります。

 

山門から、参拝です。

(訪問は2020年11月です。)

大胡城→の表示があります。

 

山門脇に、説明板と石造物です。

この青面金剛がひときわ目立ちます

三面六臂ですね。

ちょっと古風かな?

この辺りが、大胡氏館跡の堀の名残とか

 

説明板を確認です。

「大胡太郎実秀が法然上人に帰依し、草庵を立て念仏修行をした。」とあります。

「天正18年、大胡太郎の旧跡であることを聞いた牧野康成が鷹林寺を創建した。」ともあります。

 

 

赤い目立つ山門です。

でも、もしかしたらかやぶきの屋根をトタンで保護してるのかな?

かやぶき屋根が似合う山門です。

 

 

さて、山門をくぐって本堂に向かいます。

ゴテゴテしていない、素朴ないい雰囲気です

ガラス戸の前で合掌

 

庫裏を尋ねて、御朱印をお願いします。

ご住職がお留守と言うことで、御朱印は又の機会にお預けになりました。

 

 

駐車場に向かう途中、大きな楠木です。

樹齢の記載はありませんけど、人々の興亡を見てきたのでしょう。

お疲れ様

 

ウィキペディア「大胡氏」によると、

大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。『法然上人行状絵図』によると、大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依したという。隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在する。これは浄土宗の基本文献でもある。また、金沢文庫所蔵の「念仏往生伝」第46によると、大胡小四郎秀村な念仏修行を篤く行い、正元元年(1259年)死去の5年前に仏が夢に現れたと伝えている。

 

最初に法然に帰依したのは大胡小四郎隆義で、子の太郎実秀も帰依し、隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っていたんですか

法然からの返答が「大胡消息」として存在するんですか

そうすると、『念仏往生伝」』出てくる大胡小四郎秀村は、孫と思われます

そして、彼は法然からの返事を亀鏡として大切にしていたのです

大胡氏は、小四郎隆義、太郎実秀、小四郎秀村と三代にわたり、深く浄土宗に帰依していたのです

 

(つづく)

 

 

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大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・その1(大胡太郎の墓石)

2022-10-14 21:39:38 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

今日、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、シャンプーやさん(ペット美容室)に行ってきました。

夕方、「ケンくんが来よ。」というお父さんの声に、ひめちゃんは大急ぎで裏の道に出ます。

でも、やって来たのは、ふたばちゃんでした。

「アタチの方が強いのよ

「何言ってんのよ

楽しく、いがみ合いました。

バイバイ、又ね

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

『念仏往生伝』は、第卅八・比丘尼青蓮のあと第四十五・遠江国禅勝坊まで、しばらく欠落です。

遠江国はちょっと遠いです。

機会があれば、訪問したいけれど、ちょっと無理かな

でも、禅勝さんは行仙さんと深い係わりがあったようです

行仙さんは禅勝さんの弟子という説もあります。

いずれにしても、行仙さんは関東に下る時、東海道を下って遠江国を通過してきたようです

 

第46話は、大胡小四郎秀村です。

大胡は、車で15分から20分くらい、10km以下の行動半径内です

 

第四十六 上野国大胡小四郎秀村

大胡太郎孫子也。是人又以源上人消息亀鏡。一向念仏。昼夜不懈。或時夢想云。従四方大蓮花飛来。人答(告)云 。明日午剋得往生云々。以夢状語鎌倉南無坊。々々々合夢云。四十以後。可遂往生云々。夢後五年。生年四十二歳。十月之比。脚気更発。同五日丑剋。向空含咲。知識問云。何見境界。答云。仏来迎。其体如瑠璃。内外明暎也。 又聞音楽。勝人間楽之事。非其語之所及。其後十念七ヶ度。最後念仏。与仏字同息止了。于時正元々年<己未>


 

「大胡太郎孫子也」、大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

 

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です。

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします。

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれています。

 

中世の大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手には、水子地蔵の隣が気になります。

凝灰岩石仏?

なんよなく建長石仏のイメージです

 

線香立て付きの石殿です

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

 

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

(つづく)

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