雨の朝です
ひめちゃんtタバサねーちゃんは、一日中おうち犬の予定です。
横瀬泰繁開基という龍得寺(太田市新田上江田町)の写真を探していたら、元気なひめちゃんと獅子丸の姿があります(2021年6月)
元気なヤギさん家族の写真もありました。
2人で、東の牧場のヤギさん家族に会いに行っていたんだね
善・山上之事、ひめちゃんち流で、全体の読みを確認して、現代語訳も確認です
由良成繁事書案
(端裏書カ)
善・山上之事書 中山被成之
善・山上之事
根本者管領馬廻衆ニ候、 公方・管領御分目之剋、管領方御うちは之時節、佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜、三ヶ年五十子に致在陣、還住之儀、雖致侘言候、武蔵面依無御手透、拙者曾祖父信濃守成繁ニ、彼両人ニ合力在所於令還、末代為同心之由、依被仰出、葛塚地お取立三ヶ年差置番手、剰於号奥沢地、佐野周防守与遂一戦得勝利後、両名字心易在所被致本意、以来曾祖父信濃守、祖父左衛門佐景繁、亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処、天文十年辛丑年秋、庁鼻和乗賢、那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談、亡父へ取懸候剋、厩橋へ致心替候、以来離手候処、去庚申年属本意候、然処北条厩橋旧同心由申致欤、厩橋之事、輝虎世ニも、初者河田豊前守給置候、其以後喜多条丹後給置候へ共、拙者依旧同心之筋、同心仕来候、然処去秋輝虎へ申合、拙者へ深致不儀候、越国之敗北之上、旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入、依奉頼、従氏邦頻而御意見候間、如何共不致得、致参会候、此才之條々、自氏邦可被御申立候、
永禄十年丁卯
(『群馬県史資料編7』より)
由良成繁事書案、「ひめちゃんち流読み下し」です
由良成繁事書案
(端裏書か)善・山上之事書 中山被成之(ちゅうざんこれをなさる)
根本は管領馬廻衆に候(こんぽんはかんれいうままわりしゅうにそうろう)
公方・管領御分目の剋(くぼうかんれいおんわけめのみぎり)
管領方御うちは之時節(かんれいがたおんうちわのじせつ)
佐野大炊助先祖周防守在所お被押抜(さのおおいのすけせんぞすおうのかみにざいしょをおしぬかれ)
三ヶ年五十子に致在陣(さんかねんいかっこにざいじんいたし)
還住之儀(かんじゅうのぎ)、雖致侘言候(わびごといたしそうろうといえども)
武蔵面依無御手透(むさしおもておんてすきなきにより)
拙者曾祖父信濃守成繁ニ(せっしゃそうそふしなののかみなりしげに)
彼両人ニ合力在所於令還(かのりょうにんにごうりきしざいしょにかえらしめば)
末代為同心之由(まつだいどうしんとなすのよし)
依被仰出(おおせいださるにより)
葛塚地お取立三ヶ年差置番手(くずづかのちをとりたてさんかねんばんてをさしおき)
剰於号奥沢地(あまつさえおくざわとごうするちにおいて)
佐野周防守与遂一戦得勝利後(さのすおうのかみといっせんをとげしょうりをえしのち)
両名字心易在所被致本意(りょうみょうじこころやすくざいしょにほいいたされ)
以来曾祖父信濃守(いらいそうそふしなののかみ)
祖父左衛門佐景繁(そふさえもんのすけかげしげ)
亡父信濃守泰繁迄三代恙無同心仕来候処(ぼうふしなののかみやすしげまでさんだいつつがなくつかまつりきそうろうところ)
天文十年辛丑年秋(てんぶん10ねんかのとうしのとしあき)
庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守方々相談(こばなわのりかた・なわぎょうぶたいふむねとし・うまやばしけんちゅう・なりたしもうさのかみ・さのすおうのかみかたがたあいだんし)
亡父へ取懸候剋(ぼうふへとりかけそうろうみぎり)
厩橋へ致心替候(うまやばしへこころがわりいたしそうろう)
以来離手候処(いらいてをはなれそうろうところ)
去庚申年属本意候(さんぬるこうしんのとしほいにぞくしそうろう)
然処北条厩橋旧同心由申致欤(しかるところきたじょううまやばしきゅうどうしんのよしもうしいたししか)
厩橋之事(うまやばしのこと)、輝虎世ニも(てるとらよにも)
初者河田豊前守給置候(はじめはかわだぶぜんのかみおきたまいそうろう)
其以後喜多条丹後給置候へ共(それいごきたじょうたんごおきたまいそうらえども)
拙者依旧同心之筋(せっしゃきゅうどうしんのすじにより)、同心仕来候(どうしんつかまつりそうろう)
然処去秋輝虎へ申合(しかるところきょしゅうてるとらへもうしあわせ)
拙者へ深致不儀候(せっしゃへふかくふぎをいたしそうろう)
越国之敗北之上(えつこくのはいぼくのうえ)
旧冬向佐野御張陣之時分氏邦御陣へ懸入(きゅうとうさのへむかいごちょうじんのじぶんうじくにごじんへかけいり)
依奉頼(たのみたてまつるにより)
従氏邦頻而御意見候間(うじくによりしきりにごいけんそうろうあいだ)
如何共不致得(いかんともえいたさず)
致参会候(さんかいいたしそうろう)
此才之條々(このさいのじょうじょう)
自氏邦可被御申立候(うじくによりおんもうしたてらるべくそうろう)
永禄十年丁卯(かのとう)
文書では善・山上でいつもワンセットで善さんが先ですね
現代語訳も、ひめちゃんち流でまとめてみます
善・山上のこと報告書
中山こと私・由良成繁が書きました。
(善氏・山上氏は)根本は管領馬廻り衆です。
古河公方と関東管領が争っていた時で、(善氏・山上氏が)関東管領方に付いているころ、
佐野大炊助祖先周防守に在所(善・山上)を逐われて
3年間五十子の陣にいました。
早く故郷に帰って住みたいとブウブウ言ったけれど
武蔵方面は、あっちこっち戦争状態でした(善氏・山上氏にかまっている余裕はなかったのです。)。
(そこで)私の曾祖父信濃守成繁に
かの両人(善氏・山上氏)に合力し、元の居住地に帰らせてやることができたなら、
末代まで(由良氏の)同心としようと、(管領が)おおせいだされたので、
私の曾祖父信濃守成繁は、葛塚の地を取り返して3年間番兵を置いて守らせ、さらに奥沢という地で、一戦を交えて勝利した後、善氏・山上氏はやっと心配なく故郷に帰る事ができました。
それ以来、曾祖父信濃守、祖父左衛門の佐景繁、亡父信濃守泰繁まで三代の間は同心してきましたところ、
(横瀬泰繁の開基、上江田の龍得寺)
(横瀬泰繁の墓といわれる龍得寺の五輪塔)
天文十年辛丑の年の秋、庁鼻和乗賢・那波刑部太輔宗俊・厩橋賢忠・成田下総守・佐野周防守たちが相談して、亡父を攻撃したとき、心変わりして厩橋(賢忠)に付きました。
それ以来手が離れていたのですが、
さんぬる庚申の年(永禄3年)に、元からのように由良の同心に戻りました。
これはつまり、北条厩橋(北条高広)が、おまえ達は由良の同心なんだから(由良に復帰せよ。)と言ったからでしょうか?
厩橋のことと言えば、輝虎時代に初めは城主として河田豊前守を置きました。
後に北条高広を置きましたけれども
私は元同心であったたことにより、ズーと同心してきました(上杉方でした)。
それなのに、昨年の秋、(善・山上は)輝虎に指示されて私を攻撃しました。
そして、越国敗北の結果、昨年の冬謙信が佐野へ向かって陣を張る時に、謙信と別れて、氏邦の陣に駆け込んだのです。
北条家の味方になりますとお願いしたので、
氏邦によってしつこく事情聴取がなされるので、
納得がいかないけれども
事情聴取に同席したのです。
これらの年のできごと(を記すのは)は、
氏邦の求めによるものです。
永禄十年(1567)丁卯
善さん・山上さんは、おそらくこの時北条氏邦と初対面でしょう
氏邦は「お頼み申す」と突然やって来た初対面の彼らを、即信用するわけにはいきません。
そこで由良さんが、「あいつらどんな奴らなんだい?」と報告書を求められたのでしょう
でも、この文書を丹念に読むと、いくつかの疑問点が出てきます
次回はこれらを検討します
(つづく)
初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考
改稿 2024.06.28