黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見兄弟の事、付けたり落城の事・その2

2024-07-28 18:06:38 | 桐生老談記の世界

暑い暑い一日です。

今日も、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お風呂場で行水です。

タバサねーちゃんは、よい子でシャワーです。

ひめちゃんは、シャワーしたいくせに、「何すんじゃあ」と騒ぎます。

さっとシャワーして、お部屋(外のサークル)に帰ります。

 

元記事の頃、2019年5月のひめちゃんとタバサねーちゃんです。

 

朝散歩の帰り、ケンくんちに、寄っていたのです

 

 

 

 

本日の検討部分です。

兄弟の子供衆は越後へ遣され候事隠れなく、同じく十五日、津布子、山越登城いたし、扨(さて)も当家にご披露もなく、勝広入道、兄弟の子供を越後へ遣す事、心底の程、合点ならず、察するに謙信の威勢をかって、後日に御当家へ逆心の企て、能々(よくよく)軍慮を廻らせ候えと、以ての外の讒言(ざんげん)致しければ、親綱も御こころにくきと思し召し、仰せられけるは、日頃石原兄弟は此方へ随身のものなれば、かれらが方へ内通いたし、入道が入庭を聞き届けんと仰せらる。依って同十六日に石原方へ内通致しける。石原兄弟は何卒入道を失い、桐生にかしづき、大禄にも預からんと思う心ある故、御察し通り逆心の由と申し越し、速やかに療生いたしければ、右両人、此の趣きを上聞に達しけるに依って、親綱大いにいかり、此の上は軍勢を催し、入道を打ち滅ぼすべしと、山越出羽に大将を給われば、畏みて罷り立ち、既に着頭を記され、山越出羽大将にて、物頭には荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人、明け方に勢をそろえて同二十日に早朝に、仁田山の城へと打ち立てる。

 


兄弟の子供衆は越後へ遣され候事隠れなく、

子供達を越後にやったことは隠しようもなく


同じく十五日、津布子、山越登城いたし、扨(さて)も当家にご披露もなく、勝広入道、兄弟の子供を越後へ遣す事、心底の程、合点ならず、察するに謙信の威勢をかって、後日に御当家へ逆心の企て、能々(よくよく)軍慮を廻らせ候えと、以ての外の讒言(ざんげん)致しければ、

3月15日津布子、山越が登城して、「勝広入道が当家に知らせないで息子達を越後にやったことは、何を考えているのかわからない。
謙信に頼って当家への謀反を企てているのかもしれません」と、もってのほかの讒言をしたので、


親綱も御こころにくきと思し召し、仰せられけるは、

親綱も、里見入道のしたことを不快に思って言うことには、


日頃石原兄弟は此方へ随身のものなれば、かれらが方へ内通いたし、入道が入庭を聞き届けんと仰せらる。

「石原兄弟はこちらに従っているので、彼らに内通して、里見入道を見届けよう」と、おっしゃった。


依って同十六日に石原方へ内通致しける。

それで16日に石原へ内通した。


石原兄弟は何卒入道を失い、桐生にかしづき、大禄にも預からんと思う心ある故、御察し通り逆心の由と申し越し、速やかに療生いたしければ、

石原兄弟はなんとかして里見入道を亡き者にして、桐生氏の直臣となって大きな禄をもらおうと思っていたので、「おっ察しの通り里見入道は謀反の心を持ってます。」と、速やかに反応したので、


右両人、此の趣きを上聞に達しけるに依って、

この両人(津布子、山越)は、里見入道謀反の報告を親綱にしたので、


親綱大いにいかり、此の上は軍勢を催し、入道を打ち滅ぼすべしと、
親綱は大いに怒り、「こうなったら軍勢を差し向けて入道を打ち滅ぼすぞ」と


山越出羽に大将を給われば、畏みて罷り立ち、既に着頭を記され、山越出羽大将にて、物頭には荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人、明け方に勢をそろえて同二十日に早朝に、仁田山の城へと打ち立てる。

山越・出羽を大将として、荒巻式部、同刑部、森下作弥、津久井和泉、斉藤丹後、上下八十九人で3月20日に早朝に、仁田山の城へと攻め寄せた。




悪名高き石原兄弟は、もともとは里見勝広に仕えていたのです
仁田山城は、桐生市川内町の白滝神社の近くです

 
入り口には行った事がありますけど、本丸まではそれなりに準備して覚悟を決めないと行けないようです


仁田山城攻撃の3月20日は、今年(2019)だとついこの間4月24日です
攻撃の季節としては、暑からず寒からずです。

 

初稿  2019.05.01 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.07.28

 

(つづく)

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里見兄弟の事、付けたり落城の事・その1

2024-07-24 21:35:07 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんのお昼は、サツマイモご飯でした。

スーパーに出始めた細めの新サツマイモを白米にのせて普通に炊くと、ほどよくよく火が通ります。

サツマイモをほぐしてご飯を少々、2人とも完食です

 

元記事のころ、七海ママも元気に娘たちとお散歩していました

 

小次郎パパも「ののこねーちゃん」も、元気にお散歩していました

 

 

 

 

里見兄弟の事、付けたり落城の事・その1


目次では、「里見系図の事、付けたり、落城の事」ですけど、本文では「里見系図の事、諫言□言状の事、付けたり落城の事」となってます。

本日の検討部分です。

其の頃、仁田山城主新田大炊之介殿三男、里見太郎義俊二十六代の末孫、里見上綱の源勝弘と申しけるは、先年甲州山梨郡の人なり。武田信虎に横領せられ、天文三年甲子の春、桐生に浪人なられし所、桐生殿日頃御念頃になられ、殊に新田の□伝お頼もしく思し召して、桐生搦手の押さえの為に、赤萩へ在城せられ、仁田山、谷来原二ヶ所知行せしめ、住居なされ程なく兄弟の男子を設け、随見勝平、平四郎勝安とて、文武に勝れし人となり、御家臣には大貫一家、石原兄弟、是れ等は譜代の人々也。然る所に此の頃、又次郎殿非道の御政道、依って勝広これを笑止にに思し召し、かんげん状を認め、再三意見申されける。親綱承引もなく、勝広も今は此の人を頼み少なく思し召され、越後の謙信公と日頃御念頃故、兄弟の子供お頼みなされ、元亀元年三月十三日、桐生を御暇乞いもなく、越後へ遣されしは里見家の御運の末と知られける。

 



其の頃、仁田山城主新田大炊之介殿三男、里見太郎義俊二十六代の末孫、里見上綱の源勝弘と申しけるは、先年甲州山梨郡の人なり

仁田山城主である新田大炊之介(新田義重)の三男・里見太郎義俊の26代目の子孫里見義広は、もとは甲州山梨郡の人であった。


要するに源氏の子孫であるという事が大事なようです
それにしても26代目とは
一世代30年として780年
普通に考えたら新田義重から400年くらいだと思うけど
歴史の専門家でも、7世代より以前に遡ることはむずかしいと云います
26世代って、大げさにいうと他人に近いような感じです
甲州(山梨県)の人だったのですか



武田信虎に横領せられ、天文三年甲子の春、桐生に浪人なられし所、桐生殿日頃御念頃になられ、殊に新田の□伝お頼もしく思し召して、桐生搦手の押さえの為に、赤萩へ在城せられ、仁田山、谷来原二ヶ所知行せしめ

武田信玄にもとの領地を取られ、天文3年(1534)、浪人なさって桐生にやって来て、桐生殿とねんごろになられ、桐生殿は、新田の家系に連なる人であるのを頼もしくお思いになって、里見勝弘を桐生搦手の押さえのために、赤萩へ在城させて、仁田山・八木原を知行させ

里見勝弘に対する敬語が気になります

仁田山は、現在の桐生市川内町の山奥です。
谷来原は八木原だとすると、桐生市黒保根町、仁田山の北西に接しています。
ただ、戦国時代桐生市黒保根町やみどり市の北部には、黒川衆と呼ばれる人々がいたのです
桐生の支配力が及んでいたのでしょうか





住居なされ程なく兄弟の男子を設け、随見勝平、平四郎勝安とて、文武に勝れし人となり、御家臣には大貫一家、石原兄弟、是れ等は譜代の人々也。

赤萩に住んで間もなく、随見勝平、平四郎勝安という2人の子供にも恵まれ、息子達は文武に勝れた人となり、里見家の家臣には大貫一族、石原兄弟、これらは譜代の人々であった。


ええッ、主従で浪人していたの

後に里見兄弟の悲劇の原因となる石原兄弟は、はるばる甲州から付いてきた譜代だったのですって



然る所に此の頃、又次郎殿非道の御政道、依って勝広これを笑止にに思し召し、かんげん状を認め、再三意見申されける。親綱承引もなく、

勝広は、この頃、又次郎殿(親綱)の非道の御政道に諫言状を認めて再三意見した。けれども、親綱は諫言をまったく聞かなくて、



勝広も今は此の人を頼み少なく思し召され、越後の謙信公と日頃御念頃故、兄弟の子供お頼みなされ、

勝広も此の人はだめだと見限って、越後の上杉謙信と日頃懇ろなので、息子二人を託す事とし



元亀元年三月十三日、桐生を御暇乞いもなく、越後へ遣されしは里見家の御運の末と知られける。

元亀元年(1570)3月13日、桐生城主に挨拶もなく、越後に派遣したのは、里見家の運が尽きる発端であった。


 

桐生氏に仕えていたのにどうして、上杉謙信と日頃から昵懇だったのでしょう

これが有名な高津戸城悲話の発端です。




(里見兄弟の墓がある阿弥陀堂)

高津戸城悲話と阿弥陀堂

 

『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)では、

このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。

うまく言い回しています
つまり、里見兄弟の高津戸城悲話は創作だということになりますね

 

 

 

初稿 2019.04.26  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿 2024.07.24

 

(つづく)

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桐生老談記の作者

2024-07-20 14:33:57 | 桐生老談記の世界

暑い暑い日です。

お昼前にタバサねーちゃんは、お風呂場でおうちシャワーです

ひめちゃんは、お風呂場でショートショウートのシャワです

タバがお風呂場に行ってるのを気にしながら、時分がシャワーされると怒ります

ざっとぬるま湯かけておしまいです

 

2019年の8月、ひめちゃんは七海ママともよくお散歩していました。

あ、ケンくんが来るでふよ

ところが、ケンくんはママに先にご挨拶です

ママは15歳を過ぎていましたが、まだモテモテの熟女でした

小次郎パパも、元気な熟年でした

そういえば、来週の月曜日は小次郎パパの18回目のお誕生日です

 

 

 

 

『桐生老談記』を読み始めてみると、「作者はどんな人なのだろうか?」と気になりました

手に汗握るような物語を書くプロの作家ではないようです。

 

テキストの桐生図書館刊の『桐生老談記』にも、作者は記されていません

序文に、

「老談記」は、こうした往時の在地武将・家臣団の子孫たちが、先祖の武功や遺徳を偲ぶため、筆写し保存されてきたものであります。これまで歴史学会では、老談記の真実性は何程であるか、内容と記述は厳密な史実から程遠いとされ、フィクションとまでは言わないまでも、軍記ものとしての読物とされてきましたが、今、史料として見直されつつあります。

と、あります。

 

「在地武将・家臣団の子孫たちが、先祖の武功や遺徳を偲ぶため、筆写し保存されてきたもの」なのです。

そうすると、作者は、桐生あたりの武将の子孫ということになりそうです

 

『桐生老談記』の作者でネット検索すると、デジタル版日本人名大辞典+Plusに「高橋守行」と出てきました。

高橋守行(たかはしもりゆき)

1716-1766 江戸時代の農民。上野(こうずけ)(群馬県)山田郡今泉村の名主をつぎ、領主の旗本水野氏より今泉、新田郡長岡、菅塩(すがしお)の3ヶ村の領地の管理を命ぜられた。史跡をしらべ、「桐生老談記」「桐生今泉古事談」などをあらわした。明和3年9月20日死去。51歳。通称は庄左衛門、五右衛門。

 

さて、新田郡長岡・菅塩は何処でしょう

藪塚温泉郷の東南辺りです

 

山田郡・今泉村は何処でしょう?

桐生新町の東、つまり浄運寺の東の辺りのようです。

桐生の町中、中心部のようです

 

ちょっと離れた長岡・菅塩の先には、由良氏の金山城があります

長岡・菅塩の管理を任されて何度も足を運んだことが、執筆にプラスになったのでしょう

 

 

初稿  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 2019.04.23

改稿  2024.07.20

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桐生城主の事、並びに家中騒動の事・その3

2024-07-17 19:44:57 | 桐生老談記の世界

数日ぶりに雨がやみました

今日は、ひめちゃんもお外のサークルで過ごしました。

夕方のお散歩の後は、玄関にまっしぐら

夜は室内犬です。

お外のサークルに返そうとすると、「アタチはさまってまふ」をしそうで、やむを得ず許可します

 

2020年の7月、七海ママは16歳になっていたはずです。

でも、恋の季節が来ていたのです。

小次郎パパが、ラブコールをしています

 

ひめちゃんも、だいたいママと同じ頃に、恋の季節が来てました。

獅子丸とのお散歩は、危険な日もありました。

 

タバサねーちゃんと、東の牧場にも行ってました

東の牧場には、ヤギさん家族がいました

 

ヤギさん家族、かわいいかったね

 

 

 

「桐生城主の事、並びに家中騒動の事」、本日の検討部分です

根津、八木などは新田由良に随新す。其の外、心ある人々は当家を疎み、しりぞきしもの多いし。是、滅亡の後に思いしられけり。
年月を送る程、御家御勤仕の人も少なくなり、これに依り頃は元亀元年春、浪人を召し抱えらるべきよし、津布子、山越承まわり、伝を求めて尋ねけるに、去る永禄三年に駿州の太守、今川義元、信長の為に亡び、同十二年の春、義龝没落に依りて、両家の浪人在々所々に徘徊いたしけるを、津布子、山越が取りなしを以て、其の系図人柄の御吟味なく、数十人召し抱えられ、御譜代同前に召し上げ、高知行をあたえ、ご近所に召し抱えるこそ、他のあざけりと恥ずかしき計りなり。誠にひっぷの集りなれば、己の分限を知らず大者を面にあらわし、古参をそしり、他をにくみ、去るに依りて新、古の心、別心になり、良々もすれば座敷論をばお越し、慎まずに事をふへてらし、朋友をあなどり、ざん言勢しむるに依りて、毎日喧嘩口論は止む事なし。或いは分国公事沙汰、出入り軽重にかまわず、以て諸人の野心止む時なし。家に上一人の誤りは、下万民のわずらいなりと人の口に懸かり給う、あさましきことなり。

 


根津、八木などは新田由良に随新す。其の外、心ある人々は当家を疎み、しりぞきしもの多いし。是、滅亡の後に思いしられけり。

根津・八木などは、新田の由良にの元に付きしたがった。
人々(家臣)が離れていっているのです
そのほかも、多くの人々が桐生家を嫌って去って行った
そのことは、桐生家が滅亡してから思い知ったのであった



年月を送る程、御家御勤仕の人も少なくなり、これに依り頃は元亀元年春、浪人を召し抱えらるべきよし、津布子、山越承まわり、伝を求めて尋ねけるに、

家臣がたくさん去って行くと、家中が人手不足になって、桐生家の殿様は、元亀元年(1570)に浪人を召し抱える方針を津布子、山越に伝え、彼らが仕官希望者を探します

 

去る永禄三年に駿州の太守、今川義元、信長の為に亡び、同十二年の春、義龝没落に依りて、両家の浪人在々所々に徘徊いたしけるを、

永禄3年(1560)に織田信長の為に滅ぼされた今川義元の旧臣たち、永禄12年に義龝(よしあき)没落によって浪人した人々が、あちこちに徘徊していたのを、


今川義元は駿河の今川義元です。
義龝(よしあき)とは、室町幕府15代将軍足利義昭でしょうか
ちょっと、遠いかも



津布子、山越が取りなしを以て、其の系図人柄の御吟味なく、数十人召し抱えられ、御譜代同前に召し上げ、高知行をあたえ、ご近所に召し抱えるこそ、他のあざけりと恥ずかしき計りなり。

津布子、山越が仲介して、系図や人柄の吟味をしないで数十人も召し抱え、譜代同様に高知行を与えたのは、ほかからも嘲りを受けるような恥ずかしいことだった。

 


誠にひっぷの集りなれば、己の分限を知らず大者を面にあらわし、古参をそしり、他をにくみ、去るに依りて新、古の心、別心になり、良々もすれば座敷論をばお越し、慎まずに事をふへてらし、朋友をあなどり、ざん言勢しむるに依りて、毎日喧嘩口論は止む事なし。或いは分国公事沙汰、出入り軽重にかまわず、以て諸人の野心止む時なし。

人柄に問題のある人々が多かったので、家中の人間関係はめちゃくちゃになり、喧嘩口論は毎日の事になってしまった。
「或いは分国公事沙汰、出入り軽重にかまわず、以て諸人の野心止む時なし。」の部分は、ちょっとわかりずらいです
裁判沙汰になったり、みんな身勝手になったということかな?



家に上一人の誤りは、下万民のわずらいなりと人の口に懸かり給う、あさましきことなり。

「家中の上に立つ殿様一人の誤りは、その下にいる万人に煩いをもたらす」と人がいうのは、嘆かわしいことである。

 

 

『牢人たちの戦国時代』(渡邊大門 平凡社新書 2014)によれば、

戦国時代は文字どおり戦乱の吹き荒れた時代であり、主を失った武士が大量に排出した時代だといえる。~(中略)~牢人は必ずしも歓迎された存在ではない。村や町でも敬遠された。現在とは異なり、見知らぬ者が新たに村や町に住み着こうことは不気味がられた。村落や町では自治が行われる所もあり、すでに共同体が成立していた。見知らぬ牢人の存在は、強く警戒されたはずである。

 

牢人は歓迎される存在ではなかったのです。

素性のわからない牢人を大量に召し抱えるなんていうことはあり得なかったのです

実際問題として、あり得なかった事でしょう。

江戸時代になっての、ロマンかな?

作者(ナレーター)が、時々顔を出しています
まだちょっと不慣れなようです

 

 

初出  「FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」  2019.04.20

改稿  2024.07.17

 

( 桐生城主の事、並びに家中騒動の事 終 )

 

 

 

 

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桐生城主の事、並びに家中騒動の事・その2

2024-07-14 09:41:15 | 桐生老談記の世界

雨雲レーダーは、午前8時頃から雨が降り出します。

ひめちゃんは、またおうち犬の予定です

8時過ぎても降り出しません

雨雲レーダーを確認すると、午前10時頃から降り出します

ひめちゃんは、もういびきをかいてしっかり寝入ってます

 

昨日は、久しぶりに晴れました

ひめちゃんは、天神田(字・天神の田んぼ)を歩いてきました

以前は、このあとケンくんちに寄りました

 

2年前の7月、タバサねーちゃんとケンくんちに寄った記憶です。

タバサねーちゃんも、いつの間にかケンくんが大好きになっていたのです

 

 

 

「桐生城主の事、並びに家中騒動の事」、本日の検討部分です。

実に侫人の言葉は口に甘き毒薬、命をうばう。皆、味えふかく、良薬、病を直す、用いずんば有るべからず。明くる年の春、津布子、山越が侫人を以て、非道の勇めにより外の家中は是をかなしみ、かんげんを申せども、きんげん耳に逆らうが如く、承引もなく却って亦色を損なう故、人々力およばず、家の滅亡近かるべしと、心中悲しみて空しく年月送るも断りなり。去るによりて、先規の老中は、大谷並びに谷(ツ)抔などは願いを立て、隠居致し、其の外老体の願いを立て、隠居致されけり。是より家中騒が敷く見えける。爰に上泉、村岡、八木、根津、小河、稲鍋、小宮山、奥布木などは、先年細川家中なりしが、天文十三庚辰春、桐生の為に細川亡びしにより、当家中にかしづき忠勤の者なりしが、此の度騒動に依って、小河は越後の謙信に付き、上泉は西上州箕輪の城主、長野信濃に随身す。根津、八木などは新田由良に随新す。其の外、心ある人々は当家を疎み、しりぞきしもの多いし。是、滅亡の後に思いしられけり。



実に侫人の言葉は口に甘き毒薬、命をうばう。皆、味えふかく、良薬、病を直す、用いずんば有るべからず。

ちょっと言い回しに無理があるような表現です。
「良薬は口に苦し」が、念頭にある表現です


侫人(ねいじん・こびへつらう人)の言葉に従うと言う命取りになる。
良薬は口に苦しだけど、良薬を用いなければならない
桐生城主は諫言を聞くべきだったのだけど、侫人の言葉にしたがったという事でしょう


明くる年の春、津布子、山越が侫人を以て、非道の勇めにより外の家中は是をかなしみ、かんげんを申せども、きんげん耳に逆らうが如く、承引もなく却って亦色を損なう故、

侫人とは、「津布子、山越」のことですね。
桐生城主が、こびへつらう津布子、山越さんの言うことをきいて、非道な事をしたのでしょう
家中では、これを悲しんだり諫言を申し上げる者もいた
でも城主は、忠告しても聞き入れず、かえって怒る始末なので




人々力およばず、家の滅亡近かるべしと、心中悲しみて空しく年月送るも断りなり。

(家中の)人々はどうしようもなくて、口には出せないけれども、桐生家の滅亡は近いと思っていたのも、もっともである。



去るによりて、先規の老中は、大谷並びに谷(ツ)抔などは願いを立て、隠居致し、其の外老体の願いを立て、隠居致されけり。

そういうわけで、重臣達は辞職し隠居し、そのほか譜代のメンバーも隠居した。



是より家中騒が敷く見えける。

家中が落ち着きをなくした。
そうすると、動きが出てきます


爰に上泉、村岡、八木、根津、小河、稲鍋、小宮山、奥布木などは、先年細川家中なりしが、天文十三庚辰春、桐生の為に細川亡びしにより、当家中にかしづき忠勤の者なりしが、

かつての細川家中だった人々、上泉、村岡、八木、根津、小河、稲鍋、小宮山、奥布木などは、天文十三年に細川氏が滅亡してから、桐生家中になって忠勤していた人々だけども、

「天文十三年に細川氏が滅亡し」とは、菱領主・細川内膳が天文十三年に桐生氏に攻め滅ぼされたことをさします。
この滅亡の詳細については、あとで「桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事」で詳しく出てきます
かつて細川家中だった人々として名前の挙がっている人々の中に意外な人もいます

上泉って、あの新陰流の始祖・上泉伊勢守信綱でしょうか
小河とは小川城の小川可遊斉(おがわかゆうさい)でしょうか


此の度騒動に依って、小河は越後の謙信に付き、上泉は西上州箕輪の城主、長野信濃に随身す。根津、八木などは新田由良に随身す。

このたびの騒動によって、小河は越後の上杉謙信に付き、上泉は西上州箕輪の長野信濃守に付き従った。

 

 


確かに、小川可遊斉は、越後の上杉謙信の後援を受けました
でも、小川城は沼田城の西の守りとして築かれたといいます
ちょっと遠いかな


上泉伊勢守信綱は、箕輪城の長野氏に従っていた時期もあったようですけど

箕輪城に行ったとき、上泉伊勢守信綱ののぼり旗も、はためいていました

ウーン、ちょっと無理がありそうな話になりますねえ

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 2019.04.19

改稿 2024.07.14

 

 

(つづく)

 

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