黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編24(鼻毛石八幡神社の硯石)

2023-09-30 22:29:39 | 日光裏街道総集編

小次郎パパのふるさと・鼻毛石の八幡宮を参拝したのは、2020年の12月でした。

この頃の小次郎パパとタバサねーちゃんです。

パパも、まだまだしっかり歩けました。

 

この頃のひめちゃんと獅子丸です。

獅子丸は、実家の生活を謳歌していました

 

 

 

小次郎パパの生まれ故郷・鼻毛石、その地名の由来の鼻石の奥に、八幡神社がありました

 

駐車場はなく、道ばたにちょっと失礼します。

鼻毛石村の鎮守です。

鳥居の額は八幡宮です。

何か工事予定でもあるのかな?

青い八幡神社の幟が何本もあがってます。

 

参道には、たわら杉もかくやというほどの風格ある杉が何本もあります。

二の鳥居の向こうに、やっと赤い拝殿が見えてきました

 

 

拝殿の左には赤城山です

 

拝殿の右前には、大きな石があります

「源義家伝説の石 硯石」とあります。

この巨石を硯として使ったのは、八幡太郎・源義家ということです。

鎮守府将軍・源義家が奥州に下る時に、硯として使ったという伝説でしょうか?

ここは奥州に行くに下る道からは、ちょっとずれているような気もしますけど

 

 

拝殿前から左を見ると、浅間山です

少し雪が残っています。

 

拝殿で、参拝です

堅く閉ざされていて、内部はうかがい知れません。

 

でも、ちょっと横を見ると、あれ、クラシックな本殿の覆屋です

隙間からちょっと失礼します

さほど古くはなさそうですけど、ちゃんとした本殿です。

 

 

本殿の裏を廻ります。

当然ながら、いくつもの石造物があります。

 

 

一周して拝殿の前に戻ります。

最初はものすごいミスマッチ感のあった拝殿と本殿ですけど、今はなんとなくコラボしています

 

 

拝殿前の赤い欄干と灯籠と青い幟、いい雰囲気です

青い幟は、赤い社殿との配色で決まったのかな?

 

 

もう一度、義家伝説の硯石です。

硯になりそうな穴は、高すぎて直接は覗けません

手を伸ばして撮影です。

確かに硯の雰囲気です

 

小次郎パパのふるさと鼻毛石には、源義家伝説の石がありました

 

 

最近、鼻石を再訪しました

うまく駐車出来ずに、駐車場所を求めて八幡神社も再訪となりました。

硯部分は、確認できませんでした

 

初出  2020.12.7 小次郎パパのふるさと2(八幡神社の硯石) カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿  2023.9.30

 

 

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日光裏街道総集編23(鼻毛石の鼻石)

2023-09-25 21:59:44 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんたちのパパ・小次郎は、2006年夏の生まれです。

出生地は、旧勢多郡宮城村鼻毛石(現前橋市鼻毛石町)です。

鼻毛石はウィキペディアでは「はなげいし」です。

車のナビだと「はながいし」と発音しています。

 

パパが我が家にやって来てまもなくの頃、2006年の秋の写真があります。

近所のおばさんが、歌舞伎役者のようと言った顔立ちです

鼻石を訪問した頃・2020年の12月の小次郎パパです。

息子の獅子丸が帰ってきて、ちょっぴり複雑な心境かな?

 

このころ、ひめちゃんは獅子丸とタバサねーちゃんと3名でお散歩に出ることもよくありました

ひめちゃん、真ん中で主役だね

 

 

 

県道333号線を鼻毛石天神の五輪塔で右折せずに北上、突き当たりを左折するとまもなく赤城寺です。

赤城寺の南に、55番・爪ひき不動尊があります。

赤城寺の西を北に行くとまもなく、 鼻石と八幡神社です。

 カテゴリー群馬県・旧勢多郡には、小次郎パパのふるさとシリーズが4編あります。

日光裏街道の史跡文化財としてナンバーの付いていない所もありますけど、小次郎パパのふるさと鼻毛石の記事も確認です。

 

 

 

パパの故郷にも、史跡の石があるという事で出かけてみました

旧宮城村役場(現前橋市宮城支所)の先に、赤い屋根の赤城寺(せきじょうじ)があります。

赤城寺のすぐ西の細い路地を入って、すぐにありました。

ほんの少し県道101号線から引っ込んでます。

 

初めてのご対面です。

「こんにちは うちのコジくんは、鼻毛石の生まれなんですよ

 

「鼻毛石町地名発祥の石」とあります。

横からの写真です。

この赤い植物は何だろう?

後ろからの写真です。

 

数日後、八幡神社に行くとき、また通りました。

その時の写真です。

赤い植物がちょっと成長してる感じです

 

石の奥には、石造物があります。

文字が刻まれていますけど、ちょっと読めません

脇の道の奥には八幡神社があります。

参道脇の石造物という事にもなりそうです。

コジくんの故郷の風景、鼻石です

 

 

初出 2020.12.05 小次郎パパのふるさと(鼻毛石の鼻石) カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿 2023.9.25

 

 

 

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日光裏街道総集編22(大胡神社)

2023-09-21 21:26:42 | 日光裏街道総集編

昨日の朝、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに岩神沼まで行きました。

2020年の秋、大胡神社を訪問した頃、みんなでよく岩神沼に行っていました。

この頃、獅子丸・ひめちゃん・タバサねーちゃん・小次郎パパの岩神沼での写真です

 

獅子くん、実家の生活楽しんでいたよね

なんとなく、この写真は小次郎パパに似てるね

親子だから当たり前だけど

 

ひめちゃんが、獅子くんと一番多く、岩神沼に寄ったね

 

タバサねーちゃんも、まだまだ病気知らずな元気なシニアでした

 

小次郎パパも、まだ岩神沼まで行く体力があったね

物静かな穏やかなパパでした

 

 

 

 

日光裏街道の街道沿いの文化財としては、ナンバーが付いていませんけど、43番の伝・大胡太郎の墓石と44番の養林寺のすぐ近くの大胡神社も訪問してあります。

せっかくですので、日光裏街道総集編にも入れたいと思います

 

大胡氏時代の大胡城は、現在の大胡神社のあたりだということです。

縄張り図の一番北の近戸出丸に、大胡神社はあります。

大胡神社も、『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

(2020年11月20日)近戸出丸の坂道を上り回り込んで、神社の駐車場に到着です。

 

紅葉のいい雰囲気です

ひとまず、一の鳥居まで階段を降ります。

階段の脇には、大きく大胡神社とあります。

ウィキペディアによれば、

大胡城の守りとして城の北側に位置する。明治中期まで近戸神社(ちかとじんじゃ)と称したが、明治中期に近隣の神社を統合して現在の形となった。

 

近戸神社があったので、近戸曲輪(近戸郭、近戸出丸)なのですね。

近戸の意味はよく分かりませんけど、「霊山赤城山への入り口」の意味という説もあります

神社の脇を走る県道16号線を登ると、三夜沢(みよさわ)赤城神社に行き着き、更につづら折りの山道を登ると、赤城小沼に着きます

最近、三夜沢赤城神社の脇を登り、県道16号線で赤城小沼に行ってきました

 

崩壊危険区域の表示です。

主要地方道大胡赤城線が県道16号線です。

 

石の鳥居をくぐり、階段を登ります。

思ったほど大変ではありませんでした。

日頃ひめちゃんたちと歩いているおかげでしょう

手すりがあるのも有り難いです

 

二の鳥居は、白木の鳥居です。

左右の狛犬は、ちょっと個性的です。

 

一の鳥居を見下ろします。

秋の景色ですね

 

二の鳥居をくぐると、説明板があります。

ムクロジの樹齢300年以上の巨木があるのですね。

神社の由緒等の説明はないようです。

 

拝殿で参拝です。

さて、どれがムクロジでしょう?

注連縄(しめなわ)がある木があります。

これかな

 

見上げると、巨大です。

黄葉の大胡神社です

隣の紅葉と銀杏もコラボして、紅葉真っ盛りです

 

さて、本殿を確認です。

彫刻のあるりっぱな社殿です

 

本殿後ろの石造物も確認です。

たくさんの神様が合祀されています。

 

大胡氏時代の大胡城はここで、大胡氏の館跡は養林寺だということです。

深く浄土宗に帰依した大胡氏の記憶です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

 

そして、ここは赤城の神々の住む赤城山への入り口、近戸神社だったのです

 

今回改めて、「近戸」の意味を確認できました

神々の住む赤城神社ヘの入り口、とっても大切な表現です

 

初出 2022.11.23 大胡氏時代の大胡城(大胡神社) カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿 2023.9.21

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日光裏街道総集編21(浄土宗養林寺)

2023-09-16 21:13:01 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

ひめちゃんは、獅子丸ともよく歩いた道です。

 

一昨年の今頃、天神田のお散歩です。

やっぱり、赤城山は霞んでいます。

結構、雑草も元気です。

彼岸花が咲き始めています

 

 

 

日光裏街道沿いの文化財、44番が浄土宗養林寺です。

カテゴリー群馬県・旧勢多郡の記事ですけど、日光裏街道総集編にも含めたいと思います

 

 

大胡城の西に位置する浄土宗の養林寺は、大胡氏館跡と言われます。

(『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会1988)

先に訪問した長善寺の、ちょっと東になります。

 

 

山門から、参拝です。

大胡城→の表示があります。

 

山門脇に、説明板と石造物です。

この青面金剛がひときわ目立ちます

三面六臂ですね。

ちょっと古風かな?

この辺りが、大胡氏館跡の堀の名残とか

 

説明板を確認です。

大胡太郎実秀が法然上人に帰依し、草庵を立て念仏修行をした。

天正18年、大胡太郎の旧跡であることを聞いた牧野康成が鷹林寺を創建した。

 

 

赤い目立つ山門です。

でも、もしかしたらかやぶきの屋根をトタンで保護してるのかな?

かやぶき屋根が似合う山門です

 

 

さて、山門をくぐって本堂に向かいます。

ゴテゴテしていない、素朴ないい雰囲気です

ガラス戸の前で合掌

 

 

庫裏を尋ねて、御朱印をお願いします。

ご住職がお留守と言うことで、御朱印は又の機会にお預けになりました

 

 

駐車場に向かう途中、大きな楠木です。

樹齢の記載はありませんけど、人々の興亡を見てきたのでしょう。

お疲れ様

 

 

ウィキペディア「大胡氏」によると、

大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。『法然上人行状絵図』によると、大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依したという。隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在する。これは浄土宗の基本文献でもある。また、金沢文庫所蔵の「念仏往生伝」第46によると、大胡小四郎秀村な念仏修行を篤く行い、正元元年(1259年)死去の5年前に仏が夢に現れたと伝えている。

 

最初に法然に帰依したのは大胡小四郎隆義で、子の太郎実秀も帰依し、隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っていたんですか

法然からの返答が「大胡消息」として存在するんですか

そうすると、『念仏往生伝」』出てくる大胡小四郎秀村は、孫と思われます

そして、彼は法然からの返事を亀鏡として大切にしていたのです

大胡氏は、小四郎隆義、太郎実秀、小四郎秀村と三代にわたり、深く浄土宗に帰依していたのです

 

 

まだ御朱印をいただけていません。

いつか、また訪問したいと思っているんですけど

 

 

初出  『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・浄土宗鷹林寺 カテゴリー群馬県・旧勢多郡 2020.11.19

改稿  2023.9.16

 

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日光裏街道総集編20(大胡太郎の墓石)

2023-09-06 20:29:08 | 日光裏街道総集編

昨夜は激しい雷雨に見舞われました

久しぶりに本格的な雷雨でした

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、何とか静かに過ごせました。

今朝は、元気に堀之内を西に出ます

堀之内を出てまもなく、シラサギの姿がありました

最近は、サギさん達を見かけることが多くなりました。

 

 

 

前回、大胡宿と河原浜の道しるべを確認しました。

実はここら辺は日光裏街道とは意識しないで、あちこち訪問してあります。

41番が大胡宿の道しるべ、47番が河原浜の道しるべです。

そして、43番が伝・大胡太郎の墓石、44番が江戸初期養林寺の山門です。

違うカテゴリーの記事ですけど、日光裏街道総集編にも入れておきたいと思います

 

 

 

上野国山上に住んでいた行仙上人の編集したという『念仏往生伝』に、大胡小四郎秀村があります。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

 

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれてあります。

 

中世大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手の水子地蔵の隣も気になります。

凝灰岩石仏ですね

 

線香立て付きの石殿です。

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

ありがとうございます

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

  

 初出『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・大胡太郎の墓石

(2020/11/18  カテゴリー 群馬県・旧勢多郡)

2023/09/06 改稿

 

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