すっきりとしない朝でしたけど、雨の心配はなさそうです。
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩いてきました。
赤城山は、その姿をはっきりと見せています
ここには、懐かしいサイロがいくつもあります。
ブロッコリー畑のそばを通ります。
ブロッコリー畑の向こうには、榛名山が見えます
榛名山の南側に見えるはずの浅間山は、その姿を確認できません。
獅子丸が、落ちているブロッコリーの葉っぱを食べ始めました
起用に両手(前足)を使って、おいしそうに食べます
ひめちゃんは、全く関心を示しません。
獅子丸は軸の部分を食べきると、やっと動き出しました
(2018年12月18日)
うぐいすの瀬から満福寺の駐車場に戻ります。
まもなく、畠山重忠公史跡公園に着きました。
畠山重忠ではなく、畠山重忠公なのです
地元の人々にとって誇りなのですね。
まずやはりこの像が目に入ります。
「こんにちは、お久しぶりです」
嵐山の菅谷館跡の穏やかな重忠像とはまったく異なります。
鵯越(ひよどりごえ)の時、愛馬を背負って崖を下りたというシーンですね。
像の周りを回って、カルタに気づきました。
かわもと郷土かるたが3枚もあります。
この前来たときはなかったような?
畠山重忠公の墓と説明板があります。
畠山重忠公墓並館跡とあります。
鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(1164)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。
剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭食を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(1205)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。
とあります。
畠山重忠が生まれたのはここなのですね
重忠の父重能は、大蔵合戦で秩父重隆とその婿・源義賢を討ち、やがて大蔵館に移ったと言います。
菅谷館(嵐山史跡の博物館付近)は大蔵館から近くです。
源義賢の子・2歳の駒王丸は、斉藤実盛が信濃へ逃がします。
駒王丸は後に木曽義仲となるのです。
やがて駒王丸と実盛は悲しい対面をするのです
五輪塔群はかなり大きいです。
人の背丈と比べると大きさが見当がつきます。
おじさん、ちょっと邪魔
でも、大きさがわかります
配置図があります。
そうすると、左の大なのが伝・畠山重忠の墓ですね
配置図の1.2.3です。
配置図の5、6はかなり古く感じられます。
なんだか笠懸天神山(群馬県みどり市)の凝灰岩みたいです
館跡ということで、わずかに土塁の跡が残り説明板もあります
重忠の産湯の井戸です。
菅谷館と畠山館の関係が少しわかりました
最後にこの方にご挨拶します
さようなら、そしてまた逢いましょう