黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

高津戸の自音寺(四国八十八カ所巡礼ができる寺)

2019-03-31 22:12:33 | 群馬県・東毛
夕方は、強い風の中のお散歩になりました。
ひめちゃんは、小次郎パパ&タバサねーちゃんと、堀之内を北に出ました。
昔、「風に向かって走ろう!」なんてスローガンがあったけど
高縄の摩崖仏のあたりを回って帰ります。
ここらへんにも、古墳の石がいっぱいあるように感じられます。





要害神社の後、同じ高津戸の自音寺に寄りました。
2,3年前に、角塔婆を見せてもらおうと寄りました。
ご住職が言われるには、「大間々町史では、角塔婆ということになっているけど、ちょっと疑問があって今は公開していません。」という事でした。



今日も元気に旗めいています
駐車場から本堂目指します。


おや、浮彫立像の六地蔵です



本来の下の部分は失われて、違う石で代用されているようです。

古い石造物が寄せ集められている所にも、浮彫立像の六地蔵です。



こちらは『大間々町史別巻七石造物篇』に写真が載っています
隣のお地蔵様はこれまたユニークなデザインです


今回はこの馬頭観音がひときわ目を引きました



朱がのこってるし、馬面で頼もしそうです
そばにも馬頭観音の石造物がいくつかありました。



表現の仕方はいろいろあるのですね。


指示に従って、本堂脇から四国遍路開始です



結構まわりでがあります。
でも一つとして同じ像はありません。
当たり前と言えば当たり前ですけど。

全部カメラに収めるのもちょっとと思っているうちに終盤に入ってしまいました。
でもけっこうな枚数です。
今回は自音寺のご本尊と同じ十一面観音とおもわれる像をアップします。





















屋島寺(やしまじ)は、あの平家物語の屋島ですね
先代の住職と親子二代で、四国八十八ヶ所の霊場の砂をいただいてきて、それぞれの像の前に埋めてあるそうです。


本堂に行って御朱印をいただきます。



「要害神社で、自音寺の和尚さんが四国の金比羅様を勧請してきたとありましたけど。」というと、

「高津戸は昔は、神社は要害神社お寺は自音寺と決まっていたものだけど、時代が変わって新しい人も増えて、そうもいかなくなって

実はこちらのご住職は、常広寺のご親戚だそうです。
脳梗塞のリハビリに、毎日草むしりをして手を動かしてなおってしまったおばあちゃんの話など、いろいろためになる話も伺いました


さっき気になった阿弥陀堂も、帰る方角です。
寄っていきます



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やっと高津戸城本丸(要害神社)にたどり着きました

2019-03-30 13:59:31 | 群馬県・東毛
今朝は曇り空です。
今にも泣き出しそうな空です。
ひめちゃんは、なんと小次郎パパ&タバサねーちゃんと、それにいつも隣でののしりあっているののこねーちゃんと、4名で、お散歩に出かけました
心配です。

お部屋(サークル)に、お水を取り替えて朝ご飯がくばられたころ、無事に帰ってきました。
威嚇するひめちゃんをタバサねーちゃんが止め、時に追いかけっこをして遊ばせたりしたそうです。
この群れのリーダーは、タバサねーちゃんだったそうです
小次郎パパは、我関せず、娘達の争いには無関心だったそうです
もう、ご隠居さんのようです




3月26日、大間々の渡良瀬川左岸、高津戸城本丸を目指しました。
以前、途中の展望台までは行った事があります。
「ああここが高津戸城なんだ」と納得して、帰ってしまったのです。
「山までは見ず」仁和寺の法師を笑えません

地域の集会所の脇から入ります。
跳ねたき橋からのハイキングコースではなく、展望台まで車で行くコースです。
細い道でそれなりに大変ですけど、舗装はされています。
あちこちに阿弥陀堂縁日の貼り紙があります
ここらへんに阿弥陀堂があったっけ

対向車に逢う事もなく、展望台の駐車場に無事に到着です。
おや、展望台の塗装が新しい



帰りに上ってましょう。
展望台脇に大間々の観光案内がありました。



右下の要害山のP駐車場にいるのです。
確かに奥に要害神社があります。

渡良瀬川の先に里見兄弟の墓があります。
阿弥陀堂はここです。
思い出しました。

では、要害神社へ
最初の道は細いながらも、いちおう舗装されています。
ところが、まもなく階段に、それもズーと続きそうです

足取りも重く、やっと一の鳥居です。
ちょっと悲しき鳥居の状態です。



む、おじさん邪魔
一の鳥居をくぐって、振り返ります。



大間々の町が眼下に見えます。

重い重い足取りでハアハア、やっと二の鳥居です



二の鳥居も足下がちょっと不安です
すぐ先に沓石があったので、ある時期に作り替えたですけど、だいぶ痛んでいます。

またまた、重い重い足取りでハアハア、やっと三の鳥居です
こちらも、鳥居の足が心配です。




社殿が見えてきました。
付近に子供用遊具や石造物があります。



さて、もうひと頑張り
階段を登って、やっとたどり着きました



屋根瓦が崩れたままです。
全体的に痛みが来ています

りっぱな石の手水舎があります。
こんなに山の上で水はあったのかな?



社殿の脇に説明板があります。



高津戸城について、かつて言われていた話です。
最近はちょっと違うようです。

『大間々町史通史編上巻』によれば、
結局、高津戸城の歴史について確認できることは、謙信の仁田山攻め以後に城が築かれ、その死後、後北条氏から由良氏に与えられたことである。ただし、それ以前にも砦のようなものがあった可能性は否定できない。


見晴らしの良い要害の地です

要害神社は、「自音寺の七世高海上人が四国の金比羅宮に参籠していたとき梅枕にたった金比羅神王を、この地に祀ったのが起源」とあります
さらに、
この金比羅宮(現在要害神社)は霊験あらたかで近郷近在の老若男女の参詣者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録に残されている。


帰りに久しぶりに、自音寺に寄ってみましょう

社殿の周りにもいくつも石造物があります。
子供の遊具もあります。
かつては子供達が元気に遊ぶ、村の鎮守だったのです。

駐車場に戻る途中の見晴らしです



足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)大間々駅が見えます。
左手上方に大間々町役場(現みどり市役所大間々庁舎)です。

駐車場に戻り、展望台に上りました。
東の青い山と膨らんだ桜の芽のコラボです



今日あたりは咲いているかもしれません




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江戸の地名名付けの寺

2019-03-28 22:33:15 | 群馬県・旧勢多郡
今朝は暖かい朝でした。
ひめちゃんと小次郎パパは、堀之内を西に出て、田んぼ中の道を下ります。
赤城山は白いです
麓は暖かい夜でしたけど、赤城山には雪が降っていたのです。



後ろ姿で失礼します。

ひめちゃんたちは、無量寺を通って帰りました。




桐生に高名な民話収集家がいます。
数年前、その方が新里の民話も収集したそうです。
ところが、ここらへんで一番古い獅子丸家には取材が無かったそうです

どのようなルートで取材がなされたかわかりませんけど、その中に「江戸の地名名付けの寺」の話があります。
簡単にまとめると、

昔、新里の常広寺の和尚さんが江戸に行きました。新里の偉いお坊さんが来たというので、人々が集まりました。そして、地名を付けてくれと言うので、新里の地名を江戸に付けました。



新里は明治時代に近隣の村の合併で誕生した村です。
常広寺の本寺は、前橋の橋林寺です。
新里の常広寺の和尚さんは、江戸に何をしにいったのでしょう?
不思議な話です
確かに新里に、大久保・板橋・柴・高縄(たかなわ)・五反田・上野といった、東京都同じ地名はありますけど。

小字を念入りに見ても、上記6つくらいです。





ちょっと足りないでしょう



新里の山上に古くから伝わる「江戸の地名名付けの寺」は無量寺です。

昔々、無量寺の和尚さんは、足利学校で太田道灌を教えました。和尚さんは、道灌が江戸城を造ったとき、完成祝いに呼ばれました。そして、まだ地名がない江戸の町に地名を付けてくれるように頼まれました。


足利まで和尚さん行くのは、そんなに大変ではないです。
多分馬なら1時間くらいかな?
安永年間に、足利市小俣の鶏足寺から、わざわざすぐ近くの常広寺に竜骨を見にきたくらいですから。
(常広寺の竜骨については後日

さもありなんという感じもしますけど、どこにもありそうな地名にも思えます



無量寺は、現在堂宇等はありません。
でも廃寺ではなく、新川の善昌寺が兼務という形で存続しているんだそうです。

境内跡に、わずかに残る無量寺の記憶です



隣の民家の入り口に如意輪観音が見えます。




無量寺はもっと広かったでしょうから、まあ葛塚城の裏鬼門と考えられなくもありません。
今朝ひめちゃんたちは、無量寺の東の道を帰りました。



この道の突き当たりに、庚申塚古墳があります。



庚申塔や書面金剛、双体道祖神などがあります

ここらへんは、旧佐波郡東村の交通の要衝・六道の辻から山上道が通じていたかも知れません







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柿薬師の光栄寺

2019-03-27 22:14:04 | 群馬県・東毛
ひめちゃんちに、変わった椿が咲きました
たった一輪ですけど。



何年か前にカタログで見た記憶がある花です。
咲くまでに何年もかかって、名前も忘れてしまいました。
でも、いい感じです

今日は暖かい一日でした。
ひめちゃんたちは、今夜は湯たんぽなしです。





先日コノドント館の後、すぐ近くの光栄寺を訪れました。
昨年一度訪問しています。
仁王門です。



実は駐車場と門の間には道路が走っています。
駐車場に、「光栄寺の縁起」があります。



光栄寺は京都東山の智積院を総本山とする真言宗智山派に属している寺院です。正式には瑠璃光山醫王院光栄寺と称し、本尊に薬師如来を祀り、慶長八年(1603)にこの地に良瑜上人と大間々六人衆(高草木対馬則継・金子修理・大塚城四郎・長沢伊織・佐藤太郎左衛門)によって創建されました。開山良瑜上人が携えてきたご本尊の薬師如来が柿の木で造られている為、別名柿薬師の寺といわれております。


智積院(ちしゃくいん)末なのです。
智積院は、獅子丸家が運営してきた長安寺の最後の住職富三(とみぞう)さんが、10年間修行に行ってきたお寺です。
長安寺は、天台宗の新川善昌寺の末寺だったはずです。
ただ、善昌寺も無住の時期があったとも言います。
どこかの紹介が無ければ、智積院も受け入れてくれなかったでしょう。
この光栄寺が、最も近い智積院の末寺のようです。
もしかしたら、富三さんは光栄寺の紹介で智積院に行ったのかも知れません。



仁王門をくぐると左に鐘楼堂がありそばに古いりっぱな石造物があります。



しだれ桜かな、咲き始めています


本堂の向拝の竜が見事です。





生き生きしています
いまにも飛び出してきそうです。

3代目石原常八(文化7年1810~明治15年1882)の作ということです。
上州花輪の彫刻師集団の名人ですね。


お彼岸中ということで、墓参の人がいっぱいです。
御朱印大丈夫かな?


本堂脇の納経所を訪ねます。

「こんにちは。」
「お花ですか?お線香ですか?」
「あのう、御朱印をお願いします。薬師様の御朱印をお願いします。」
最近は薬師様にあう事が多いので、薬師様の御朱印をお願いします。
そのうちに柿薬師の縁日にこれたらいいなあ

お彼岸中はお花も線香もここで購入できるのです。


御朱印をいただいて駐車場に戻ります。


駐車場に稲荷社があります。
後ろに石造物があります。







一番大きな庚申塔には、天明4年11月とあります。
前の年に浅間山が大噴火を起こし、ききんも広がっているころです
強い願いがこもっているのですね


いただいた御朱印です。



前回は上州観音霊場三十三カ所の御朱印もいただきました。
上州観音霊場は、ここ光栄寺が一番札所です。
上州観音霊場めぐりも、ぼちぼちやります








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元禄15年大間々市に山上市を合併す(コノドント館)

2019-03-25 19:41:47 | 群馬県・旧勢多郡
タバサねーちゃんは、ひめちゃんとパパもママも同じです。
なのに、白柴です。
色があったら、日本犬保存会のコンクールにも出られそうな、かっこいい白柴です



タバサねーちゃんは、車でお出かけが大好きです
脱走しても車のドアを開けておくと、ちゃんと乗ります。



その時は少しだけドライブして、お部屋に帰ってもらいます。

人間の家族が帰ってきたときの、ウエルカムダンスも得意です



ぬいぐるみをくわえて、目を細めてウエルカムダンスです。
このぬいぐるみは、とても長生きしています
何年か前に全員に同じものを買ってあげたのですけど、生存しているのはタバちゃんのだけです。
ひめちゃんは特に解体新書が得意で、ぬいぐるみもすぐに解体新書してしまいます。




昨日、みどり市大間々のコノドント館(大間々博物館)に出かけました。



企画展「足尾線からわ鐵へ」をみるためです。
駐車場は裏ですけど、入り口・受付はこちらです。

ここは昔群馬銀行・大間々支店でした。
ひめちゃんちのある新里村にまだ銀行というものがなかった頃には、こちらを利用していました。

この建物には、さらに昔の物語があります。
入り口の説明板によると、
大間々博物館の本館は、大正時代に建てられた旧大間々銀行の本店営業所で、現存する銀行建築としては県下で三番目に古いものです。


確かに大正ロマンの様式美です


入り口のマスコットキャラクター「コノコちゃんとドントくん」に、初めて気がつきました。



企画展は懐かしいものがいっぱいで、それなりに楽しめました


さて、常設展です。
何度か来ていますけど、毎回それなりの発見があります。

大間々絹市発展のパネルを眺めていて、気になる記述がありました。

「元禄15年 大間々市(おおままいち)に山上市(やまかみいち)を合併する」



ええ、絹市が山上にもあった
ひめちゃんちは旧勢多郡新里村大字山上字堀之内です。

元禄15年(1702)までですけど、山上に絹市が立っていたのです

これといった産業のない寒村だったとばかり思っていました。
絹市が立つほど、人々が集まる賑わいの村だった時代があったのです

絹市はどこに立っていたんだろう?

山上城跡にある伝習館・藤井先生の「山上氏と山上城」に新里村大字・小字一覧があります。





山上は他に比べて、小字がとても多いです
絹市(きぬいち)と関係ありそうな地名はないようです。

あえていうならば、町西・町東。
特大の道祖神や庚申塔が道ばたにあります。
庚申塚古墳に数十mです。
市が立つには場所が必要ですけど、付近には無量寺という天台宗のお寺がありました。

でも、道祖神があるのは、通過地点かな?

通過してその先には諏訪神社です。



左奥が諏訪神社です。
境内は広く、山上・下鶴谷公民館もあります。
現在の社殿はたいして大きくはありません。
けれども、大きな古い舞台が残っています。
東の道はおそらく古い時代には赤城山の参道に通じていたと思われます。
ほぼ北に板橋の百足鳥居(むかでとりい)があります。

可能性が一番高いように思われます










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