黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

根古屋村の金井澤と云所にあり(金井沢碑)

2021-08-27 20:22:25 | 群馬県・西毛

ひめちゃんは、獅子丸の準備ができるのを待ってます

2人は、いつもより西の道で堀之内を出ます。

今朝は、獅子丸がどうしても東の方に行くと譲りません。

ちょっと遠くなってしまったけど、牧場のヤギさんに逢いにいきましょう

県道を渡ってすぐ、道標のある小さな交差点があります。

まっすぐな県道が出来るまで、前方の細い道がメインストリートだったのです。

今は曲がりくねって、まもなく消滅していますけど。

 

ヤギさんいるかな?

子供たちも大きくなりました

大きさが違うので、男の子と女の子かな?

バイバイ、また来るね

サマンサ坂を通って帰ります。

今日も暑くなりそうだね。

 

 

 

8月18日、上野三碑の一つ金井沢碑(かないざわひ)に出かけました。

どうも沢の向こうのようです。

金井沢碑だから、当たり前かな。

あれ、また木の階段だ。

けっこう登ってきました。

 

ここからは石段です。

紫陽花が植えられています

人影があります

 

「こんにちは。」

「こんにちは。」

おじさんは、ここのボランティアガイドさんだそうです。

今は活動自粛中だけど、見回りに来たそうです。

覆屋の中の碑にライトをともしてくれました。

覆屋の窓に碑の文字があります。

神亀三年(726)、1300年前に書かれた文字です。

 

覆屋の前に説明板です。

子供用の説明板もあります。

上野国群馬郡下讃郷高田里(こうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさと)に住んでいる

三家子□が、先祖と父母の為に、

いま主婦の立場にある他田君目頬(ただのきみめづら)、

その子どもの加那、孫の物部君午足(もののべのきみうまたり)、

その妹のひづめ、その妹の若ひづめの

あわせて六人、また既に仏教の教えで

結ばれている三家毛人(みやけのえみし)、その弟の知麻呂(ちまろ)、

鍛冶師の磯部君身麻呂(いしべのきみみまろ)のあわせて

三人が仏の教えにより、一族の繁栄を願って

お祈り申し上げる石文である

 神亀三(762)年二月二十九日

 

女性が対等の立場です

この時代は、女性の立場も侮れないものだったのです

 

ボランティアガイドのおじさんも、沢から降りて帰ります。

碑の入り口・四阿(あずまや)で休んでいる人もいます。

それなりに人が訪れているようです。

 

そこにも上野三碑の資料が置かれていて、ボランティアガイドは「ここにしかない資料で是非もらっていって下さい」と黄色い紙の資料をくれました。

「城山団地・寺尾町・根古屋町史跡案内図」です。

③栄福寺(新田義重墓)ですって

新田郡出身のひめちゃんちのおかあさんは、ビックリです

新田義重の墓は、新田郡の徳川にあります。

①茶臼山城跡(高崎市寺尾町字茶臼)は、新田義重の居城ですって

新田郡出身のひめちゃんちのおかあさんは、またまたビックリです

 

そのうちに是非訪問したいですね

 

 

四阿の奥に大きく「護念寺墓地」とあります。

もしかしたらお寺があったかな?

墓地は現役で活用されているそうです。

 

 

わが故郷・新田郡世良田村の偉大なる大先輩・毛呂権蔵は、山上碑についで、ここ金井沢碑も訪れています

『上野国志』(安永3年刊)に、

金井澤古碑  根古屋村の金井澤と云所にあり

銘曰と碑文を写しています。

そしてそのあと、山上碑と金井沢碑について考察しています。また上古の碑文として那須の国造碑もあげています。

 

栄福寺、茶臼山城跡については、記載がありません。

 

 

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鎌倉街道山本宿・山ノ上地蔵尊

2021-08-25 20:47:11 | 群馬県・西毛

ひめちゃんと獅子丸は、新ルートで堀之内を出て、新沼&童沢貯水池を目指します。

途中の牛舎では、牛さんたちが朝ご飯の真っ最中でした

新沼は静かで誰もいません。

隣の童沢貯水池は、相変わらずミドリ沼です。

でも、奥には、カモさんたちがたくましく泳いでいます。

サギさんたちの姿はありません。

みんなパトロールにいったかな?

クンクン、誰か通ったみたいよ

ラッキーくんかな?

さっき赤柴とおじさんの後ろ姿が遠くに見えました。

小雨が降り始めたよ

早く帰って、ご飯にしようよ

 

 

 

 

山上碑(やまのうえひ)から、自宅をナビに入れて帰ります。

この三叉路交差点の角に、にぎやかにお地蔵さまたちがいます。

中心には、けっこう大きな坐像のお地蔵様です

雨の中でも、明るい空間が出現しています

 

百万遍供養塔には注連縄です。

 

双体道祖神もあります。

 

説明板を確認です。

古の鎌倉街道は、ここから東にあたる山名八幡宮からこの三本辻に向い、下って鏑川方面に向かっていたと思われます。この辺りは山本宿と呼ばれ賑やかだったと伝えられています。街道の辻や宿の出入口には、旅人の往来安全と地域を見守る信仰の塔や石仏などが建てられましたが、この地蔵もその類いとして設けられたと思われます。

起源は定かではありませんが、高さが1.5mほどあり珍しい坐像の地蔵像です。

~(中略)~

隣にある百万遍供養塔は、昔、集落に疫病が流行ったとき山名光台寺より大数珠を借りて、三日三夜この地で念仏を唱えると疫病は退散したと言われます。

 

ここは、鎌倉街道の山本宿だったのです

山名八幡宮からこの三本辻に向い、下って鏑川方面に向かっていたのですね。

山名氏が通った鎌倉街道です

山名氏の記憶の鎌倉街道です

 

 

少し道の先を見ると、根古屋城趾1.7kmの表示です。

今回はパスしておきます。

 

道の反対側に、気になるものがあります。

かわいい

無人スタンドのマスコットキャラクターです

ナスとゴーヤとブドウを買って、帰りました

意外なところで山名氏の記憶に出逢えました

 

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観音堂の西にあり(毛呂権蔵も立ち寄った山上碑)

2021-08-24 18:31:08 | 群馬県・西毛

ひめちゃんは小次郎パパと、第一陣でお散歩に出ました。

獅子丸はタバサねーちゃんと、第二陣で、堀之内を西に出ます。

諏訪神社の向こうの高台、薬師の道まで行きます。

薬師の道の薬師さま、最近また草に埋もれ始めました。

かつては、たくさんの人々が祈りを捧げたパワースポットだったはずですけど。

小雨が降り始めました。

ここらへんは、最近は誰にも会わないね。

みんなお散歩どうしてるのかな?

 

使用されなくなったサイロの前に、インゲンの棚が出来ました。

しばらくサイロは見えないね。

赤城山が、うっすらとみえるような?

急いで帰って、ご飯にしましょう

 

 

 

(山上碑への)石の階段を登ります。

 

緑の屋根の覆屋が見えてきました。

「史跡山上碑及古墳」に到着です。

 

古墳も入れそうです。

後でうかがいます。

 

左手に山上碑及び古墳の説明板です。

 

下には子供用の説明板です

雨でよく映りませんでした。

でもなんとか判読

681年10月3日に記す

佐野にあったヤマト政権の直接

支配していた土地の最初の管理者

である健守(たけもり)さまの子孫の黒売(くろめ)

さまこの方が新川(にっかわ)さまの子

斯多々弥(したたら)様の子孫である大胡(おおご)

さまと結婚されて産んだ子どもである長利という名の僧が母親

のために書いた文である 

放光寺の僧

 

では、覆屋の中の碑にご対面です

 

覆屋の窓の一つを利用して、解説があります。

さっきの説明板に、

長利が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字瓦を出土した前橋市総社町の山王廃寺だったと推定される。この寺は、東国で最古級の寺院だったことが発掘調査で判明している。当寺、仏教は新来の先進思想であり、長利は相当な知識者であったと考えられる。

 

周囲に近世の石造物があります

 

では、古墳の方に行きます。

古墳入り口前にも説明板です。

古くに開口されたため、出土物は不詳であり、石室内には中世の石造物が置かれている。~(中略)~傍らにある山上碑の碑文から推定すると、本古墳は高崎市南部に置かれた佐野三家の経営に連なる山名地域の首長の墓として完成し、その後辛巳年(681年)に縁者の黒売刀自が追葬されるに際し、供養のため碑が建てられたとみられる。

 

下に目立たなく、石室内には虫がいるとあります

 

入り口で失礼します。

もうちょっと中まで失礼します。

かすかに2体の石仏が見えます

説明板には、中世の石造物があるとありました。

でも、石の階段前には、馬頭観音も祀られたとあります。

どっちが馬頭観音かな?

 

実は『上野国志』(安永3年刊)の筆者・毛呂権蔵も、ここを訪れています

山名上古碑 

山名村のつづきなり、観音堂の西にあり。~(碑文の写しなので省略です)~同所庵室に、石に来迎の弥陀を彫りて、建治四年正月日と云字あり、是亦古者なり

 

毛呂権蔵が見たのは、来迎の弥陀仏中世の石造物です

建治四年は、ちょっとわかりません。

写しまちがいかな?

 

三郡板東札所は、明和元年(1769)創設ということです。

三郡板東札所になる前に、既に来迎の弥陀仏を祀る観音堂があったのです。

毛呂権蔵が去った後、馬頭観音を祀って観音霊場になったかな?

 

それにしても、わが郷里世良田の大先輩・毛呂権蔵さん、よく上野国を歩いています

 

 

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山上碑(やまのうえひ)は三郡板東札所・窟堂址

2021-08-23 15:06:23 | 群馬県・西毛

ひめちゃんと獅子丸は、新ルートで堀之内を出ます。

おや、小次郎パパとタバサねーちゃんも、やって来ます

待ってたけど、ハイシニアの2人は脇道に入ってしまいました。

 

若いもんの2人は、新ルートで岩神沼に到着です。

赤城山は、その姿を現していません。

小雨が降り出しました。

でも、カモさん出現です

ひめちゃんたちは、もっと上の沼まで行きたそうです。

でも、降ってきたから帰りましょう

 

岩神様(摩崖仏摩崖仏)の裏を通って帰ります。

おかあさん、転ばないように気を付けてね

 

 

 

 

山名八幡宮から山上碑(やまのうえひ)まで歩くと、結構時間がかかりそうです。

ひめちゃんたちのこともあるし、車で行きまーす。

ナビを入れても堂々廻り、到着できません

ナビさん、このあたり苦手のようです。

スマホナビに従って、山上碑を目指します。

 

 

しばらく行くと、あれ見たことある

たしか形名さんのブログだったと思います。

ここだったんだ

阿弥陀来迎画像板碑が、あの扉の向こうにあるのですね。

登って覗くわけにも行かず、カメラのレンズを差し込みました。

映っていたのは、放射状の光だけでした。

でも、出会えたことに感謝、合掌

 

 

ほどなく右手に、山上碑が出現です。

どうも階段を登るらしいです

駐車場は少し先に整備されていました。

 

 

戻って、板階段を登ります。

途中で石の階段になります。

 

石の階段の登り口に、竹の杖です

ちょっと意味不明の説明板もあります

この国指定の山の上の古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれたのは何時の頃か、明和六年(1769)には多胡郡、緑野郡、北甘楽郡内の板東卅三所遷しの四番札所に選ばれたが、時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられて、あたかも史跡への階段であるような、錯覚のみ残っている。

 

みやま文庫『上州の観音札所』(内山信次・平成3年)に、三郡板東卅三所(多野郡吉井町、藤岡市、高崎市、甘楽郡甘楽町)のレポートがあります

 

三郡板東卅三所とは、今日の甘楽・多野と高崎の一部にまたがる地域、当寺の緑野・多胡・北館等の三郡に、板東卅三所の観音様の分霊を遷した札所という意味である。~(中略)~その成立は十二番千手寺の大悲閣に残る御詠歌の献額の裏画面により、明和元年(1769)と推定される。

 

参考までに、

一番 黒熊 延命寺 子安観音 (多野郡吉井町黒熊甲328)

二番 白石 般若寺 馬頭観音 (藤岡市白石2の2)

三番 白石 龍泉寺 十一面観音 (藤岡市白石1931)

四番 山名 宝積寺窟堂 馬頭観音 (高崎市山名町山ノ上)

五番 木部 辻ノ堂 正観音 (高崎市木部町464)

六番 中 光明寺 十一面観音 (藤岡市中1503)

七番 篠塚 西宝院 正観音 (藤岡市篠塚)

八番 上栗栖 高木山浄雲寺 如意輪観音 (藤岡市上栗栖261)

九番 中栗栖 源水寺 (藤岡市中栗栖)

十番 藤岡 一行寺動堂(ゆるぎどう) 身代わり正観音 (藤岡市藤岡甲231)

ごめんなさい、以下省略です

 

十番動堂の観音様については、ちょっと気になる話がつづられています

動堂の観音さま、もと鮎川沿いの本動堂にあった、木曽義仲の思い者巴御前の持仏であったという。隣接する吉井の多胡庄は義仲の父先生義賢の所領で、一時義仲が兵をここにあつめたことがある。ありそうな話である。

 

木曽義仲の恋人・巴御前(ともえごぜん)の持仏だった動堂の観音さま、ぜひお参りしたいものです

 

さて、宝積寺窟堂(くつどう)への石段を登って、山上碑にご対面です

 

(つづく)

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山名氏の記憶を訪ねて・山名八幡宮(後編)

2021-08-20 16:36:09 | 群馬県・西毛

ひめちゃんは小次郎パパと、そこらまでのちい散歩です

昨日動物病院の先生に、お散歩は控えめにと言われたのです。

元気ひめちゃん復活だけど、お薬飲み終わるまで「控えめ散歩」にしましょう

 

獅子丸はタバサねーちゃんとお散歩です。

堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩きます。

赤城山がその姿を見せています。

久しぶりに浅間山も見えます。

用を足したら、タバサねーちゃん回れ右です。

暑くてたまりませんわ

ボクも暑くてたまりません

 

 

 

 

(8月14日)

山名八幡宮本殿の彫刻が見事です。

雨の中でもすばらしい

さぞかし名の知れた彫刻師が関わっていたことでしょう。

 

裏に回ると説明板があります。

ちょっと読みにくいですけど、最後に、

なお、彫刻は群馬を代表する近世社寺の彫物師である関口文治郎(勢多郡黒保根村田沢)によるものである。

 

関口文治郎の彫刻ですって

 

彫刻の神獣の説明もあります。

「明和六年六月十四日東上州勢田郡上田沢村、関口文治郎」のサインがあるのですね

文治郎さん、こちらの方までお仕事にでかけていたんだ

もちろん、しばらく泊まり込みでしょうけど。

 

 

おや、何だろう?

裏神様です。

正面をお参りされた後、裏神様をお参りすることにより、さらに御利益があります。

 

心をこめて、2礼2拍1礼です。

 

 

降りしきる雨の中、改めてじっくり本殿の彫刻を眺めます。

またそのうち、お天気のよい時期にうかがいましょう

じっくりと、文治郎さんの作品と対面できるように。

 

 

 

社殿脇を下ると、赤い鳥居と池があります。

弁財天です。

赤い鯉と白い鯉が泳いでいます。

2礼2拍1礼です

 

お宮の前には、双体道祖神かな?

お顔が削られている

 

 

 

楼門を出ます。

振り返ると、神馬が見えます。

山名八幡宮には、楼門の左右の神馬と、山名一族が奉納した神馬とがいるのですね

 

 

楼門前の坂を下り、振り返って楼門です。

 

 

楼門をでて、坂を登ると注連縄をした石があります。

「馬庭念流・樋口定次 太刀割の石」です。

馬庭念流中興の祖・樋口定次が満願の日に枇杷の木刀で断ち割ったのですか

 

 

駐車場に戻ると、ちょうど上野三碑めぐりのバスが出て行ったところでした。

この時節ですけど、バスは普通に運行しているようです

 

 

 

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