お稲荷様が祀られています。
お稲荷様が祀られています。
欄干の付いた赤い橋を渡ると山門が見えてきます。
左側のスギも大きい。これが境内三番手。
第二の大杉は、拝殿の手前、向かって右。
第一の大杉の荒々しさに対して、こちらは気品のある美しい姿。対比の意味で好一対をなしている。
秋田県神社庁の神社紹介ウェブサイトによると、延宝2年(1674)、現在の大倉沢字沖田に信濃諏訪社の分霊を勧請。寛政6年(1794)、現在地に遷座したといいます。
もしかしたら、この地では、諏訪神社よりも大杉の方が先輩なのかも知れません。
とりあえず、近くに車を置いて階段を登った階段は木材で土止めされたもので草が生えていて整備されていません。
折渡千体地蔵は、秋田県由利本荘市岩谷麓にある地蔵尊です。今から約220年ほど前に、赤田大仏の長谷寺を建立した是山和尚が建てた延命地蔵尊のまわりに、寄進された千体の地蔵が並んでいる霊場です。
昔から通行の難所だったこの地で、通行人の安全祈願と、イボとり地蔵として有名です。
とてつもないパワーで地域の信仰の霊地となっています。
折渡千体地蔵は、秋田県由利本荘市岩谷麓にある地蔵尊。今から約220年ほど前に、赤田大仏の長谷寺を建立した是山和尚が建てた延命地蔵尊のまわりに、寄進された千体の地蔵が並んでいます。
こられの地蔵さまをこれまで地域の方や参拝される方がきちんと信仰して守ってこられたこともあり、温かくも力強いエネルギーが地蔵様に宿っています。
峠には紫陽花が植栽され、今ございますまさに見どころです。ただ、熊の気配を感じました。
松ヶ崎の八幡神社の調査です。国指定です。以下が由緒になります。
文治2年(1186年)山城の国、岩清水八幡を奥州岩城平の城山の地に勧請し、岩城家歴代の鎮守たりと伝う。
奥州藤原泰衡叛を謀るに及び、源頼朝、千葉之助常胤に命じて東征せしむ。
常胤同社八幡へ戦勝祈願を致して、深く信心を表したという。
後に泰衡亡び、常胤帰陣と共に、頼朝いたく喜び、その特命によって社殿を飯野山の地に再建させ飯野八幡と称し、新たに社領88町の地を寄進した。
関ヶ原の合戦後元和8年(1622年)岩城家羽後の国亀田を領するに当り、御神体を保護し同国に至り、寛永元年(1624年)松ヶ崎村亀井山、則ち現在地に勧請して永く岩城藩の崇敬社とす。
当神社は亀田岩城藩所領内の代表神社のひとつにして、領内75社の分霊を合祀される。
現社殿は寛永13年(1636年)に建立せりと伝う。
明治6年郷社に列す。明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せられ、明治43年白山比売神社・神明社を合祀す。
昭和58年、秋田県神社庁より二級神社に指定され、現在に及ぶ。
秋田県神社庁公式サイト より。
由緒
松ヶ崎八幡神社は、日本海に注ぐ衣川下流右岸、標高25mの亀井山山頂に位置します。
京都府の石清水八幡宮(国史跡)の末流にあたり、元和9年(1623)、岩城氏が亀田への領地替に伴い崇敬社として勧請し、以来、藩の総社として大切にされました。岩城氏が崇敬していた飯野八幡宮(国重要文化財・福島県いわき市)の分霊を祀っていることから、飯野八幡宮とは「親子神社」として現在も交流を深めています。
ここは泰心院は曹洞宗寺院で,仙台藩初代藩主伊達政宗の曽祖父・伊達氏十四世稙宗(たねむね)の夫人泰心院(芦名氏)の菩提寺(ぼだいじ)として米沢で創建されました。
ただの門ですが!
冬の矢島スピチュアルスポット
孫2号の野球の練習が矢島の室内練習場であったので、送迎をしました。
3時間という限られた時間でしたが、矢島総合支所に車を置いて、歩いて回りました。雪が例年より少なかった様な気がします。
私は、月山神社の氏子です。幼少期より大晦日の11時30分には神社に行って、新年を迎えています。
コロナの為、3年ぶりに元日詣りが一般の氏子にもできるようになりました。
初詣の由来は平安時代からある「年籠り(としごもり)」という風習から来ていると言われています。
大晦日から元旦にかけて氏神様のいる神社にこもり、新しい年の豊作や安全を夜通し祈願するという風習です。
やがて、年籠りの風習は大晦日にお参りをする「除夜詣」と元旦にお参りをする「元日詣」の2つに分かれます。
江戸時代頃までは元日詣では「恵方詣」とも呼ばれ、その年の恵方の方角にあるお寺や神社を参拝していました。
以前は神社までの参道はすれ違うのも大変でしたが、今はまだ回復していません。
withコロナされど回復の兆し見つからず!
今年こそはと願う元旦でした。