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廃仏毀釈:仏教の歴史と文化の危機

2024年07月24日 16時55分00秒 | Weblog

はじめに
明治維新後の激動の中で、日本は神道を国教として推進し、仏教を排除しようとした動きがありました。これが「廃仏毀釈」と呼ばれる運動です。この運動は、日本の仏教史に大きな傷跡を残すだけでなく、文化面でも深刻な被害をもたらしました。

廃仏毀釈の背景
廃仏毀釈の背景には、江戸時代末期からの国学の興隆と神仏分離思想の広がりがあります。特に、本居宣長の弟子である平田篤胤は、古事記や日本書紀に基づいた独自の「神道」を唱え、大きな影響を与えました。また、水戸学などの尊王攘夷思想も、神仏分離思想を後押しする要因となりました。

廃仏毀釈の具体例
廃仏毀釈は全国各地で起こりましたが、特にひどい被害を受けたのが出羽三山と薩摩藩です。出羽三山では、明治6年(1873年)に西川須賀雄が宮司として着任すると、仏教寺院が次々と破壊され、神道色が強まりました。薩摩藩では、島津久光や12代藩主忠義の徹底的な廃仏政策により、多くの寺院が廃寺となり、仏像や仏具が焼却されました。

廃仏毀釈の目的と影響
廃仏毀釈の目的は、神道を国教として国民を統合し、国家の権威を高めることでした。しかし、その結果、多くの貴重な仏教文化財が失われ、仏教界は大きな打撃を受けました。同時に、廃仏毀釈は仏教界の近代化を促す契機にもなりました。江戸時代の特権を失った仏教寺院は、新たな時代に適応するために様々な改革に取り組みました。

廃仏毀釈の教訓
廃仏毀釈は、宗教弾圧の悲劇であると同時に、文化遺産の喪失という大きな教訓を残しました。私たちは、過去の過ちを反省し、二度とこのような悲劇を起こさないよう、仏教をはじめとする様々な文化遺産を守っていくことが重要です。

詳細

1. 廃仏毀釈の背景
 江戸時代末期における国学の興隆と神仏分離思想の広がり
平田篤胤による古事記・日本書紀に基づく神道思想の影響
水戸学などの尊王攘夷思想と神仏分離思想の関係
廃仏毀釈の思想的背景
富永仲基による仏教批判と廃仏論の影響
幕末の水戸藩・薩摩藩における仏教迫害の実態
2. 廃仏毀釈の経過

全国各地における廃仏毀釈の具体例
出羽三山における神仏分離と西川須賀雄の役割
薩摩藩における徹底的な廃仏政策と島津久光・忠義の影響
その他の地域における廃仏毀釈の事例
廃仏毀釈の推進者と抵抗勢力
廃仏毀釈を推進した神官や民衆の動機
仏教徒による廃仏毀釈への抵抗と阻止活動
明治政府による神道国教化政策と廃仏毀釈の関係
神仏分離令の制定と廃仏毀釈の加速化
神道国教化政策の目的と問題点
3. 廃仏毀釈の被害と影響

廃仏毀釈による具体的な被害例
寺院の破壊、仏像・仏具の焼却、経典の散逸
文化財の損失と仏教文化への打撃
廃仏毀釈による仏教界への影響
仏教寺院の衰退と江戸期特権の喪失
仏教界の近代化と新たな取り組みへの模索
廃仏毀釈後の神道界の変化
神仏分離令による神と仏の明確な分離
神社の国家管理と伊勢神宮を中心とした全国神社のランク付け
4. 廃仏毀釈の教訓と現代社会への示唆

宗教弾圧と文化遺産の喪失という歴史的教訓
寛容性と多様性を尊重する社会の重要性
文化遺産の保護と継承に向けた取り組みの必要性
コメント (2)
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承元の法難

2024年07月08日 09時16分00秒 | 霊場

昨日は海士剥の専念寺の役員会でした。

鎌倉時代に承元の法難という事がありました

これは、法然上人の弟子たちが念仏集会に参加したことがきっかけです。

奈良の興福寺が朝廷に念仏禁止を訴えていた頃、法然上人の弟子である住蓮と安楽が念仏集会を開催しました。その集会に後鳥羽上皇の女官数名が参加し、念仏こそ救いの教えであると確信して髪をおろしてしまったのです。

怒った後鳥羽上皇は念仏宗を弾圧

このことを知った後鳥羽上皇は激怒し、興福寺の訴えを受け入れてしまいます。そして、承元元年(1207年)に風紀を乱すものとして念仏宗を弾圧し、住蓮と安楽を含む4名を死罪、法然上人ら7名を流罪にしました。

親鸞聖人、越後へ流罪となる

親鸞聖人も流罪となり、越後国(現在の新潟県)へ配流されました。これが「承元の法難」と呼ばれる事件です。当時、法然上人は75歳、親鸞聖人は35歳でした。

師弟の別れと再会を誓う歌

師弟の別れに際し、親鸞聖人は

会者定離(えしゃじょうり) ありとはかねて聞きしかど きのう 今日とは思はざりしを

と詠みました。

一方、法然上人は

別れゆくみちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ

と詠んでいます。

二人は今生の別れを悲しみながらも、次はお浄土で再会することを誓ったのです。

承元の法難の影響

承元の法難は念仏宗にとって大きな打撃となりましたが、その後の浄土真宗の広まりに大きな影響を与えたと言われています。弾圧によって念仏宗への弾圧が強まる中で、親鸞聖人は念仏の教えをより多くの人に伝えるために尽力しました。

京の京都からすれば上越が流罪の地という事です。それ以降なんども弾圧を受けていてその度に北方教化がなされています。

日本海沿岸に一向宗が散らばったということです。

自分の家の総本家は加賀屋姓なので,石川から流れてきたと言えます。

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朝ラー じげん

2024年07月05日 08時11分00秒 | ラーメン
今朝はご飯が足りず孫たちを学校に送ったあと仁賀保に直行!


じげんで朝ラー!
最近じげんの中華が最高ランクだ。
しかも朝ラーはワンコインだ。
長いメンマがうますぎる。





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善寶寺参り

2024年07月03日 08時53分00秒 | 霊場
昨日は本荘郷土資料館サポーター研修視察でした。
最後の視察地は善寶寺です。
事前に説明のお願いをしていたので,若い坊主さんが概略を教えてくれました。






龍澤山善宝寺は山形県鶴岡市下川関根に境内を構えている曹洞宗の寺院です。
善宝寺の創建は平安時代の天慶年間(938~957年)に黄金村の妙達上人が堂宇を建立したのが始まりとされます。




当初は龍華寺と称し天台宗の寺院でしたがその後荒廃し、延慶年間(1308~1311年)に總持寺
の2世峨山紹磧がその境内を利用して曹洞宗の布教を行いました。
總持寺は鶴見にある東日本最大級のお寺です。説明をしてくれた坊主も總持寺で研鑽して善寶寺に拝任されたそうです。
永享年間(1425~1441年)には太年浄椿が堂宇を再建し、曹洞宗の寺院として改宗開山し寺号を龍澤山善宝寺に改めました。




伝承によると浄椿(峨山紹磧とも)が境内で修行をしていると竜宮竜道大竜王と戒道大竜女が出現し寺号を授けると自ら善宝寺の守護神になるとして貝喰池に御隠れになったと伝えられています。

以来、竜宮竜道大竜王と戒道大竜女が竜神信仰の対象となり、特に航海安全、大漁祈願などに御利益があるとされ、漁師や船乗りなど海や水を生業とする人達からの篤く帰依されました。

その後も信仰者から多大な庇護を受けて寺運が隆盛し天保4年(1833)には龍王殿、安政2年(1855)には五百羅漢堂、文久2年(1862)には山門(二重門)、明治16年(1883)には五重塔が造営され現在の境内には20以上の建物がひしめき合い信仰の厚さを感じる事が出来ます。




五百羅漢堂は入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行5間、梁間4間、真壁造り板張り、江戸時代後期の御堂建築の遺構として貴重で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成27年(2015)に国登録有形文化財に登録されています。

特に五重塔は日本唯一の「魚鱗一切の供養塔」として漁業関係者の浄財により鶴岡出身の名工高橋兼吉が棟梁として手掛けた名建築とされます。
寺宝である菱田春草筆の「絹本著色王昭君図」は大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。




北国八十八ヶ所霊場第41番札所です。(札所本尊:薬師如来)。
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