樺太で18歳で志願兵となり、戦闘せずして、捕虜となり、シベリア抑留された4年間の手記が見つかったので、それを分かりやすく文書化して自分の論考を加えたものだ。
ロシアの侵攻は論外だが、第2次大戦で亡くなったロシア兵は2000万人におよび、日本の3倍もの命が奪われていた事実も知ってほしい。
樺太に関して勉強している。
帰ろうということで整列していると、ロシア人が大声で何か叫んでいました。小隊長が手真似で聞いていたが、どうもまだ帰ることはできないということらしい。全員が落胆していた。小隊長とロシア人のやりとりを遠くで見ている内に、今度は、大バラスを積んだ貨車が入ってきました。今度はこのバラスを下ろせと言っています。この時は空腹と寒さで頑張る気迫など全くなくなっていました。でも夜明けまでには、そのバラスを下ろす作業を終わらせることができました。それでも帰営させてくれませんでした。時間がすぎ7時頃にやっと収容所に帰ることができました。交代要員が来るまでは、帰させてくれなかったのです。収容所にやっと帰ることができ、横になって休みました。しかし、空腹と南京虫、シラミのかの痒みで眠れません。夕方になってやっとどろどろのトウモロコシのスープが飯ごうの蓋一杯だけ支給されました。
一瞬で飲み干すと、私たちは夜間の鉄道敷設作業なので17時には、作業現場に行かなければならないので招集がかかりました。寒空の下整列していましたが、誰一人として口を開く人はいませんでした。それから9日間同様の作業が続きました。バラスの敷設作業は本当に大変なものでした。しかし、10日後には日中の作業に変更になりました。日中の作業は、機関車で焚く薪作りでありました。ロシアでは機関車の燃料に薪を使っていたので大量の薪が必要なのです。夜の鉄道の敷設作業、昼の薪作り作業が不定期で小隊毎交換されながら、2ヶ月ほどここで作業を行いました。
2ヶ月後位たって大隊移動がありました。多分11月頃だったと思います。雪の舞う氷点下30度の寒さの中で、大バラスを積んでいた空の無蓋車に乗せられての移動でした。寒くてお互いに体を寄せ合ったり足踏みをしたりしながら、体を動かしていないと寒さに参ってしまいます。20時頃には、収容所の近くに着いたというので全員汽車から降ろされました。しかし、その収容所に向かいましたがそのラーゲルには別の部隊が入っていて、私共の入る収容所ではないことが分かりました。ロシア人連絡不足で私共の収容所を間違えていたのです。そこから2時間雪の降る中を、そこより10kmも先にある収容所に向けて歩いて行かされました。汽車はすでに出発していたからです。私たち初年兵には隊の状況がつかめないまま、ただついて行くだけでした。先が全く見えないため、頭は不安でいつも一杯でした。いつ着くとも分からない夜道を、本当に空腹と寒さの中で線路伝いで歩き続けました。どうにもならず歩き続けやっと私共の収容されるラーゲルに着きましたラーゲルは日本兵が建てたらしく新しいものでしたが、いくら火を焚いても暖かくならず寒くてどうしようもありませんでした。やっと落ち着いたと思ったら整列の声です。機関車でくべる薪作り作業が延々と続きました。
日が暮れてから「トムニー」という小さな駅に到着しました。
我々の向かった先はそこだったのです。ロシアの兵隊が大きな声で叫んでいました。手招きで列車から降りろと言っていることが分かりました。全員が下車して5列に並ばされ、たいまつを持っているロシア人を先頭に歩き出しました。真っ暗で何も見えません。ただ、山と山の沢に入っていっていることだけは確かでした。前列の方から伝達が入って、我々はこの山の中で銃殺されつるというものでした。本当にこの事が嘘であってほしいと思いながら歩きました。20分ほど歩くと山と山の開けた所に建物がありました。それは以前ロシア人の囚人が使用していた収容所ということでした。有刺鉄線が張り巡らされています。各大隊毎にその収容所に入れさせられました。
空腹と疲れでウトウトしますが、体中痒くてどうにもなりません。身動きがとれないほど部屋が狭いので、自由に手を動かすこともできないのです。痒みの原因はシラミと南京虫であります。そうこうしているうちに一箇小隊に出動命令が出ました。
(戦跡 薄れる記憶より)
私たちは収容所から外に出され機材庫の前で全員にスコップ、つるはし、大ハンマーなどを渡されました。整列後、先ほど着いた駅に向かって連れて行かれました。全員無言で草を踏む音だけが冷える夜空に吸い込まれていきます。この時の気温は、氷点下12・13度位だろうと思われます。空腹も限界にきていました。港で渡された時のおにぎり1個以外、腹の中には何も入っていないのです。というか、腹の中には何も入っていません。駅に到着してみると、バラスを一杯積んだ貨車が15車両ほど止まっていました。その貨車の前でロシア人が手真似でバラスのおろし方の説明がありました。このバラスを下ろしてしまえば南京虫のいるあの狭いラーゲルでも帰って休むことができると思い、全員で頑張って2時間ほどで終わらせました。
目覚めたら夜になっていました。すでに樺太の陸も何も見えない夜の海でした。ぼんやりと母や父、兄のことを思い出していました。心のほとんど全部が不安でいっぱいでした。夜が明けて陸が見えていきました。樺太の海岸でないことは明らかでした。海岸のすぐ地区まで森林が茂っています。海岸に沿ってのスロー航海。これが観光であったら本当に最高の風景であっただろう。
日が暮れて小さな港に入港しました。港と言っても桟橋もない船を横付けするだけの岸壁の港でした。後から、「ソフガワニ」という港だと聞かされました。
その日から重労働が始まりました。港に着いたソ連船から荷物を下ろしたり、また、荷物の積み込みの作業が毎日続きました。
9月の末頃になって留多加まで草刈り作業に連れて行かされました。25日ほど草刈り作業を行って、大泊に着いてびっくりです。ロシア人の火の不始末から火事になって市街地は焼け野原になっていました。大泊に着いてすぐに衣料支給がありました。支給された衣料はすべて防寒具でした。ロシア人は、私たちを東京に帰すと言っていたのに、内地に帰るのにどうしてこんな防寒具だけを支給したのか、みんな不信に思い始めていました。
翌日午後3時に貨物船に乗せられました。いよいよ内地に帰られると思っていました。五時頃大泊港を離れ、その夜は湾内に投錨して、夜明けの出発を待っているようでありました。嬉しいはずですが、なぜかみんな不安そうで、誰一人口をききません。夜明けと同時に船は出航しました。しばらくして利尻島と礼文島が見えてきました。その直後です船は北に進路を変えました。ぜんそくで樺太の西海岸を進み、本斗(現ネグエリス)を過ぎ、三歳から過ごした苫舞や真岡付近が遠くに見えました。どんどん樺太が遠ざかって行きます。船内でロシア人と将校との話し合いがあったようですが全く駄目のようでした。ぼんやりと遠くなる樺太を眺めている内に眠ってしまいました。これが最後のゆっくりした睡眠になるとは思いもよりませんでした。
続く
私が昭和20年8月15日の終戦を迎えた時、樺太東海岸の大泊から30キロほど離れた三ノ沢という所におりました。私たちは、一期の初年兵教区を大泊の教育大隊を終えて三ノ沢で一期の検閲を受けるための訓練に日夜張り切っていた時でした。
終戦と同時に私共が大日本帝国軍隊の最後の初年兵になったのです。私共がソ連参戦を聞いたのは17日頃だと思います。後で分かったことですが実際に参戦したのは、8月8日だったそうです。連隊本部との連絡が取れなかった約10日議に私共の部隊に連絡が入ったのでした。
18日は朝早くからソ連兵の上陸に備えて陣地の構築に入ったのです。10時頃だと思いますが、土地の人がやってきて、日本はソ連にも降伏したというニュースを今聞いてきたと言いました。小隊長がそのニュースを確認したところ本当でありました。後は陣地も何も必要ありません。暗い気持ちで兵舎に戻りました。その晩は、無礼講で夜遅くまで酒宴が開かれました。
翌朝8時起床・点呼も終わり体操をしていると海上を2隻の軍艦が走っていました。和つぃたちのバート愛は海岸のすぐ近くにありました。小隊長が双眼鏡で確かめましたがどこの軍艦かは分かりませんでした。
朝食の準備を終えて、2階の自分の部屋の窓から外を見るとソ連兵が立っていました。手を上げて外へ出ろと言っているようでした。私共は朝食もとらずに大泊港に連れて行かれ15時頃大泊女子高等学校に収容されたのです。
続く