山形県の遊佐に永泉寺がある。
これは、六郷の永泉寺や本荘の永泉寺の比ではないほど、由緒ある寺だ。
山形県飽海郡遊佐町直世仲道の曹洞宗の寺院だ。
永泉寺の創建は7世紀に役行者が鳥海山を開山した際、禅道場として開かれたのが起源と伝わり、能登総持寺の直末で、中本山だった古刹という事だ。
弘仁14年(823)に慈覚大師円仁が鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)の別当寺院である神宮寺を開いた際、禅道場を天台宗寺院として確立させ、平安時代後期以降は鳥海山修験など山岳信仰の拠点として寺運も隆盛し栄えていたとある。
その後一時衰退したが、文和年間(1352~1356年)に源翁和尚(越後国出身、南北朝時代の曹洞宗の高僧、法力の持ち主で那須温泉にある殺生石の逸話は有名です。)が再興した。
応仁の乱後に落伏に境内を遷し、明応6年(1497)に興聖寺から永泉寺に寺号を改めた。
江戸時代初期になると東禅寺城(亀ヶ崎城)主だった志村光安の庇護となり寺領が57石と認められ、境内には慶長16年(1611)に家臣によって建立された光安の供養塔である石造九重層塔(総高2.62m、四方に四智四仏の尊像)がある。本荘にまだ永泉寺はできていない。
昭和28年(1953)に山形県指定有形文化財に指定されている。
永泉寺参道の階段は苔むした大石が並び、脇にある大杉(樹高約35m)は推定樹齢200~300年とされ向かいにある石灯籠とあわせて古刹の雰囲気がある。
山門(入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、八脚単層門、仁王像安置、天井は格天井で花鳥風月の絵画が描かれています)を潜ると静寂な空間が広がり天明4年(1784)に江戸時代の紀行家菅江真澄が訪れた時と何ら変わらない空気が流れている。
仁王像も迫力が満点である。