由利本荘市の矢島地域は、生駒藩に治められてました。讃岐17万8千石外様大名でしたが、お家騒動の罪で転封されて矢島1万石に配置換えされていたのです。乃木坂46の生駒里奈が矢島生駒けと関わりがあるという噂ですが、本荘の生駒姓はルーツはそうなのかもしれません。
ちなみに、仁賀保の伊勢居地2千石を当時の殿様が弟に分家させているので、仁賀保にも生駒藩の血が流れているのですが、現在仁賀保には生駒姓を名乗る方はいません。
さて、その生駒藩の圧政に耐えかねて、年貢の軽減のお願いに出かけ、最終的には処刑された事件がありました。佐藤仁左衛門という肝煎がその中心で、義民として現在も青田神社で祀られています。肝煎(きもいり)とは、西日本では庄屋、東日本では名主といわれた百姓格の中ではその百姓集団のトップにあたります。
仁左衛門は、地域の名主ら10名と和光院という修験者の力を借りて、年貢の軽減の許しを得て鳥海に戻るも、仁左衛門以外は矢島藩に捕まえられ、とてもむごい公開処刑がなされました。現在の矢島も新ら町交差点の近くに裸森という墓地がありますが、義烈領民の墓として現在も、主に鳥海の人たちによって祀られています。
御朱印状を持っていた外山の孫八が捕らえられ、御朱印状と訴状を奪い取られてしまいました。さらに、下笹子の源兵衛・打越の喜右衛門・才之神の三九郎・葛ケ台の重右衛門も捕らえられてしまいました。
そして、先に捕らえられた和光院らと共に延宝8年(1680)8月23日裸森にて処刑されてしまいました。この時、和光院は32歳、石子責の刑。常法、甚太郎、甚之丞は斬首(ざんしゅ)の刑、そのほか6名は磔(はりつけ)の刑。あまりにも非情、惨酷極まりない処刑に、裸森に集まった人々は満場声もなく、ただ心静かに念仏を唱え血涙をしぼったと伝えられています。
その裸森の様子です。
修験者の和光院は、とても筆がたつ人としても有名で、笹子の子どもたちは、自分の手形をとってお堂に奉納して、字が上手になることをお祈りしています。現在もお堂の中には手形がたくさん張られています。
この事を知っている矢島地域の方は殆どいません。
その後従弟の裏切りで居場所を密告された仁左衛門は殺害され、さらし首になりました。仁左衛門を密告した久八は、褒美に仁左衛門と太郎右衛門、両人の土地と、仁左衛門の妻「おけさ」を妻にと要望しました。「おけさ」は決意を固めてこれに応じ、婚礼の晩に久八を刺し、夫の仇を討って、闇夜にまぎれて娘とともに何処ともなく姿を消してしまいました。また一説には、獄門にさらされていた夫の首を奪い取り、また獄中の天神の作兵衛の牢を破って救い出し、夫の首を間木ノ平の山中に手厚く葬った後、娘とともに峠を越え他国へ逃げ去ったとも伝えられています。
現在真木の平に仁左衛門の首塚があります。
現在も、仁左衛門は、笹子の義民として祀られています。由利の畑中喜右エ門と同じです。
ちなみに、仁賀保の伊勢居地2千石を当時の殿様が弟に分家させているので、仁賀保にも生駒藩の血が流れているのですが、現在仁賀保には生駒姓を名乗る方はいません。
さて、その生駒藩の圧政に耐えかねて、年貢の軽減のお願いに出かけ、最終的には処刑された事件がありました。佐藤仁左衛門という肝煎がその中心で、義民として現在も青田神社で祀られています。肝煎(きもいり)とは、西日本では庄屋、東日本では名主といわれた百姓格の中ではその百姓集団のトップにあたります。
仁左衛門は、地域の名主ら10名と和光院という修験者の力を借りて、年貢の軽減の許しを得て鳥海に戻るも、仁左衛門以外は矢島藩に捕まえられ、とてもむごい公開処刑がなされました。現在の矢島も新ら町交差点の近くに裸森という墓地がありますが、義烈領民の墓として現在も、主に鳥海の人たちによって祀られています。
御朱印状を持っていた外山の孫八が捕らえられ、御朱印状と訴状を奪い取られてしまいました。さらに、下笹子の源兵衛・打越の喜右衛門・才之神の三九郎・葛ケ台の重右衛門も捕らえられてしまいました。
そして、先に捕らえられた和光院らと共に延宝8年(1680)8月23日裸森にて処刑されてしまいました。この時、和光院は32歳、石子責の刑。常法、甚太郎、甚之丞は斬首(ざんしゅ)の刑、そのほか6名は磔(はりつけ)の刑。あまりにも非情、惨酷極まりない処刑に、裸森に集まった人々は満場声もなく、ただ心静かに念仏を唱え血涙をしぼったと伝えられています。
その裸森の様子です。
修験者の和光院は、とても筆がたつ人としても有名で、笹子の子どもたちは、自分の手形をとってお堂に奉納して、字が上手になることをお祈りしています。現在もお堂の中には手形がたくさん張られています。
この事を知っている矢島地域の方は殆どいません。
その後従弟の裏切りで居場所を密告された仁左衛門は殺害され、さらし首になりました。仁左衛門を密告した久八は、褒美に仁左衛門と太郎右衛門、両人の土地と、仁左衛門の妻「おけさ」を妻にと要望しました。「おけさ」は決意を固めてこれに応じ、婚礼の晩に久八を刺し、夫の仇を討って、闇夜にまぎれて娘とともに何処ともなく姿を消してしまいました。また一説には、獄門にさらされていた夫の首を奪い取り、また獄中の天神の作兵衛の牢を破って救い出し、夫の首を間木ノ平の山中に手厚く葬った後、娘とともに峠を越え他国へ逃げ去ったとも伝えられています。
現在真木の平に仁左衛門の首塚があります。
現在も、仁左衛門は、笹子の義民として祀られています。由利の畑中喜右エ門と同じです。