乗った後の景色

電車・気動車・バスに乗ることが好きな乗りマニアによる旅行雑ネタブログです。

山梨交通の廃軌道見物

2015-04-29 | 山梨県
 甲府に行ってきました。駅前の百貨店の「山交」は山形交通の略ではなくもちろん山梨交通の方です。前世代の標準塗色(上)もなかなか見られなくなり国際興業グループらしさが前面に出た緑系(下)標準塗色が定着しているはずですが、全面広告のバスがあったりそもそも行き交うバスの数が減っていたりで「山交は緑」という感覚がなかなか身につきません。


 一方郡内の雄、国中では外様の富士急も広告塗装だったりするうえ行先に表示されている「富士山駅」も一体どこなんだかよくわからないような大雑把な駅名なのでどこから来てどこに行くんだかわかってはいてもよくわからないようなヘンな気分になりました。こうなると成田空港からはるばるやって来る千葉交通やウィラーの停留所を見る方が素性がわかりやすくてホッとしたりもします。


 さて今回の目的は1962年に廃止された山梨交通の電車の跡の見物です。路線の愛称は「ボロ電」ですが開業が1930年なので走っていたのは30年ちょっととボロと言われる程の歴史もないような気がします。あるいはそう呼びたくなるような施設や走りっぷりだったのでしょうか。
 この廃線跡で気になったのは軌道跡が廃軌道と呼ばれる道路になってバス通りのごく近くを併走していることです。両者の分岐・合流点からは離れたところでなるべく接近していそうなところを見物しようと地図を見て下八幡停留所付近(下の画像)に寄ったところ、ガソリンスタンドの1ブロック分だけ間に挟み2つの道路が一度に見られました。(画像は甲府方面を見たところ。左がバス通り・右が廃軌道。)どちらも上下1車線ずつのあまり広くない道路です。


 この並走する2つの道路は共に山梨県道5号線で、見ていてその近さから京急とJR東日本、あるいは山陽とJR西日本の並走区間を思い出してしまいました。しかもさらに同じく県道5号線を名乗る上下2車線ずつのバイパスが南に離れたところに作られているのでこれは方向別複々線というのかむしろ新幹線みたいに思えて来たり、という具合に同じ名前の県道が3つ併走しているのですから面白いものです。
 軌道跡と言うより道路見物のあとは十五所経由鰍沢営業所行きの山交バスにしばらく乗ります。富士川の上流にあたる釜無川を渡ったのちしばらく電車のルートから離れ近道の十五所を経由。小笠原付近からまた電車のルートと並走するようになるとほどなく富士川町に入り長沢火の見停留所で降りました。


 火の見櫓からそう遠くない廃軌道脇の利根川公園内にかつて山梨交通で走っていた電車が保存されています。


 この車両は1948年から使われた戦後派です。山交の廃線後上田丸子電鉄(現上田電鉄のルーツ)に移り丸子線で使われていたものの1969年に丸子線も廃止、さらに江ノ電に移って活躍し1986年の廃車後現在地に「里帰り」するというなかなか大変な経歴を持っています。だいぶ江ノ電らしくなっている顔を見て、同様に江ノ電に移って江ノ電顔に改造され廃車後は東急世田谷線宮の坂駅前に里帰り、という似たような経歴を持つ東急80形の保存車を思い出しました。


 保存車両を見たあとはせっかくなので歩いていける程度の距離にある増穂小学校を見に行きます。目当てはここに保存されている藤村式建築と呼ばれる擬洋風の建物です。その前に新しそうな胸像があるので誰かと見たら増穂小学校に通った経歴を持つという石橋湛山でした。台座に目を移すと「先生は自由主義 平和主義の立場を堅持し 小日本主義の主張を貫いた言論人であり 山梨県が生んだ唯一人の総理大臣であります」という具合です。昨年生誕130周年を記念して設置したことも書かれていました。


 増穂小学校からそう遠くない電車の終点甲斐青柳駅跡を見てから帰途につくことにします。ここは廃線後山交バスの折返場として使われていた時期もあったそうですが今は富士川町営バスが通るのみとなり台湾料理店とその駐車場のオマケという感じで停留所(停留所名は町民会館)とベンチ、上屋がややさびしく見えました。停留所の裏を見ると以前の山交の標準的な体裁の時刻表が見えそれを流用したものとわかり、こうなると電車というよりバスの名残を見に来たような気もしたりです。


 町営バスは山交(タウンコーチ)が運行していてコミバスにありがちな小さい車両ではないのでかなり山交バスっぽい気分で乗れます。これで身延線の市川大門駅に出て甲府に戻り帰京しました。

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